133恥目 顔の見えない君との小さな思い出

「可哀想にねぇ。次から次へと・・・・・・」

「もともと短命の家系なのよ。何人もこの部屋で看取ってるらしいよ」

「えぇ、マジ? みんな同じ部屋なの?」

「そうそう、富名腰さんチしか使わないもん。あんな部屋」


 平成12年、春。眠らない都会の夜。

 昨年のノストラダムスの予言は何処へやら、ただの法螺話だったと忘れ去られていく頃。


 都心の病院で、看護婦は怪談話をするような声色で話していた。そこに悲しみなど少しもない。人の死に慣れた人間は恐ろしい。もしくは、見ず知らずの誰かが死んだのだから関係ないのかもしれない。


「一泊ウン十万円の病室だもんね」

「本当。あの部屋使って喜ぶのは医院長とか上の人だけでしょう? 気も神経使うよねぇ。お金持ちって気難しいしさ」

「ちょっと、シッ!」


 廊下の壁に寄りかかって下を向くボクに気づくと、わかりやすく慌ててナースステーションへ駆け込んで行った。大変だろうけど頑張ってなんて、言い訳みたいな慰めを吐き捨てて。


 今夜、ボクの家族が死んだ。死んだのは、2番目の姉だった。長女、長男、次女、次男、ボク、四男といった6人兄弟だった。ボクは長女と四男の記憶はこれっぽっちもない。長女に至って生まれた時にはすでに他界していた。長男は幼少期に、弟は生まれてすぐに亡くなったし、次男は一昨年亡くなった。

 兄弟達が生きていた時は、皆身体が弱くて自室から出ずに、細い管を鼻や喉に繋げて生かされているような状態だった。

 都内の一等地に聳え立っていた我が家は、いつも咳音と痛みに苦しむ声、それから、事務的にピッ、ピッと、高い機械音がなる医療機器の音がこだましていた。


 自宅療養では上手くいかず、とうとう病院へ運ばれたら、最期が来るのを待つばかり。今回亡くなった姉も病名は違えども、他の兄弟達と同じ状態であった。

 あの世へ旅立つ姉の周りに、親族がぐるりと円になって立ち「ご臨終です」と医師が告げたら、一斉にワアッと泣き出した。


 目を腫らしながら、大人は動く。

 けれど親族の誰もが死に慣れていて、深夜だというのに葬儀会社や関係者への連絡を始める。毎日の仕事みたいに、それはテキパキと、一つも無駄の無いルーティンに見えた。


 ボクは涙が出なかった。姉も、他の兄弟も、病気で寝たきりだったから会話という会話をしたことがなかったからだ。

 むしろお手伝いさん達の方が泣いていて、ボクは不思議にそれを見て、いる場所がここではない気がしたので病室を出ただけ。だから看護師達の言葉には傷付いてはいない。


 姉が亡くなった日から、退屈で仕方ない日々を過ごしたのを覚えている。なんの思い入れもない姉の葬儀も泣けなかった。両親が泣くのは当たり前だと思っても、泣く行為が大袈裟に見えて鳥肌が立っていたくらいだ。

 その後の数日間もまた暇で、両親が落ちついてくると、食事の最中にこんな事を言われた。


「あとは志蓮しかいないのよ。志蓮はどこも患るくないんだから、他の兄弟の分も頑張らなければいけないの」

「志蓮しか居ないのだからね」


 ワイングラスいっぱいに注いだ水が溢れそうな声で、プレッシャーと切羽の詰まった期待を流し込んでくる。

 「うん」と首を赤べこのように首から上を縦にゆらすしかなく、意味もわからぬまま、言われるがままに人生を歩き始める事になった。


 子供を5人亡くした両親は必死だったのだと思う。そこそこ名の知れている事業会社を経営する父や祖父が居たから、金や人脈には困らない。

 とにかく生きるのに不自由しないようにと、色々な事をさせられた。習い事や受験、食事管理、超短期間で繰り返される身体検査、人間関係の制限。

 まるで皇族扱い。何処へ行くにもボクの周りにはボディーガードが常に張り付いていた。


 ボクは所謂、お坊ちゃんで育った。それでいて、聞き分けのいい優等生。親の敷いたレールにボクという列車は過剰な数の車輪を付られ、それが異常であるなんて疑いもなく無心に進むだけ。両親には大切にされていたし、愛情はあった。寧ろ、愛され過ぎていた。 

 それが故に、どこか、何かが幼少期に欠落してしまった。他人には何も感じないし、やりたい事も無い。自分で決められる事も無い。考える事もしない。そもそも考え方がわからない。それに対して、不満も疑問もない。


 まるで精巧なアンドロイド。全く感情がなかった。学生時代に泣いた事は無い。笑った事もない。何に悲しくて、面白いのかわからない。


 死にたくもないし、生きたくもない。

 ずうっと、ずうっと、身が有るようで無い肉塊があるだけ。


 将来はこのまま両親の会社を継ぐ事になるんだから、何も心配する事は無い。仮に失敗しても、死ねばいいのだから何も怖くなんてないのだ。

 両親の希望通り、私立の高校も卒業し、都内某所の国立大学に入った。人文学科に入学しろと言われたから、その通りにした。人間について学べるからと言われても、他人に興味がないのだから無意味で金の無駄だと考えていたけど。

 多感な時期を迎えても「喜怒哀楽」どの感情も湧かなかったボクに学ぶのは容易いが、理解するのは至難だろう。


 学校生活だってそうだ。

 入学した最初こそ男女問わず声を掛けて来た。毎日が催し物の開催日みたいで騒がしい。やれサークルだ、コンパだと横文字の誘いに招かれる。表向き華やかな都会の雰囲気に浮かれた地方出身の男女が、中身の無い話で盛り上がっていた。

 あまりに誘いが諄いので渋々参加しても、アクションを起こさないのは勿論、一言も発することは無い。


 つまらない奴ね、と陰口を言う人間が現れれば、やがて誰も声をかけて来なくなり、挨拶もされなくなった。

 しかしそれが心地よく、敬遠されればされる程頭は冴えて学業に専念することが出来た。決して、勉強が好きな訳ではない。目の前にやりなさいと出された物をこなしていく事が日常だっただけ。


 感情は要らない。感情があるから、自分をコントロール出来ないのを皆わかっていない。


 機械のようなボクに、転機が訪れた。

 それは20歳になる年の盆の事。先祖や兄弟達の供養が終わり、ようやっと落ち着いた晩のこと。家族で夕食を取る最中、父親が突然一人暮らしをしないかと聞いてきた。母親も驚いて箸を置いた後、ナフキンで唇を拭き、背筋を伸ばして父親を見た。


「一人暮らし・・・・・・ですか」


 何の前触れと無い突然の提案。同じ事を聞き返すと、父親はハモの照り焼きを頬張りながら頷く。


「志蓮も20歳になる訳だし、そういう経験も必要だと思ってな。お母さんも京都で一人暮らししていたし、お父さんも18歳から25歳までは沖縄で――」

「でも体が心配だわ」


 母親が強い口調で割って入る。他の兄弟達の事もあったので、ボクを目の届く所に置いておかないと不安なのだ。過保護、という言葉がこんなに似合う人はそういないと思う。


 しかし、父親も今迄のように黙る事はない。


「志蓮は病気なんかしたことないだろ。風邪だってみたことない。1人でも平気さ。なあ、しんーだんが?」

「アナタ、方言はよしてと言ってるでしょう」


 南国の陽気な光を浴びて育った父親は時折聞き慣れない言葉を話す。機嫌がいい時や祖父に会った時だ。母は何を言っているか判らないからという理由で嫌がっていた。何となく察しがつけば良いが、想像に掠りもしない意味であったりするのがむず痒いらしい。


「悪い悪い、どうしても親父と会った後だと漏れるんだよ・・・・・・で、どうだ。志蓮」


 どうだと言われても。ボクは従うだけだから、答えは決まっていた。


「――わかりました。一人暮らしをします」


 AIアシスタントのように、指示を繰り返す。最初は反対気味だった母親もボクの返事を聞いて息子が成長したのだと感動し、ほろりと涙を垂らした。


「ほんまにお利口やわぁまるで死んだ兄弟達の良い所が詰まっているみたいやねぇ」

「志蓮は俺たちの希望だからなぁ」


 母親は上機嫌になって出身地の方言をほんのり出した。父親は他の兄弟の生まれ年に作られたとっておきのワインを開けて、お祝いだと大いにはしゃぐ。まだ飲酒できる年齢ではないけれど勧められたから従うだけ。他の飲み物と変わらず口に含む。

 ただの酒臭い葡萄の汁に何の旨みも感じない。他の食べ物や飲み物に対してもそうだけれど。


 母親が「美味しい?」と笑顔で空になったグラスにまたワインが注いでくれた。


「はい」


 広角を上げる。お利口な上に舌も肥えているなんて、志蓮は完璧だと騒がれる。部屋の壁紙のように並んでいる使用人たちも兵隊のように揃った拍手を向けた。


 こういう時、決まって肩が重くなる。肩が重たくなる時、兄弟達に「これ以上両親を悲しませないで」と言われているような気がしていた。幼い頃から感じている圧と重みが両親を喜ばせる為の最善を教えてくれるのだ。

 両親が喜ぶ度、何がそんなに嬉しいのか理解できないが、両親が満足ならそれで良いのだと思う。


 ――次の日。一人暮らしをするために部屋の整理を始めた。夏休み期間を利用し、ラジオを掛けながら黙々と作業する。

 父親は準備も1人でやった方が経験になっていいだろうと言って、頑丈な段ボールを数枚と準備に必要な物をくれた。

特に持っていきたいものはなく、学業と生活に必要なものだけを段ボールに詰めて纏めた。


 欲がないから私物も少ない。趣味もない。が、ボクの部屋には本がたくさんある。一度は目を通したことがあるだろうが、そのほとんど内容を覚えていない。正直どれも要らない。

 いい機会だし、売ってしまおうか。誰かに譲るのもいいかもしれない。後で使用人にお願いしておこう。


 作者毎に10冊ずつ、ビニール紐で十字結びで纏め上げていく。何個も作り上げると、ラジオから入って来た情報にピタリと手が止まった。


『3月に東北で起きた大地震で発生した大津波に見舞われた被災地では、津波で流された思い出の品を返却しようという活動が始まっています。見つかった家族写真や位牌など、数多くの品が届けられ――』


 東北であった大地震。ボクには明らかに他人事だった。都内も揺れ、停電もあったけれど、ニュースで見るような被害とは無縁。流石に気の毒に思ったし、これから国はどう対応していくのかという点は気になっていた。

 ラジオのアナウンサーのいう通り、思い出を無くした被災者が持ち主不明の持ち物を集めた決められた場所に集まり、過去を取り戻すのが目的の活動らしい。被災者の悲痛なインタビューは夏だというのに寒そうな声で震えている。


『亡くなった家族との思い出を取り戻したいんです』


 思い出を取り戻す、というのはどんな気持ちなんだろう。思い出と記憶の違いは何だろう。大事な思い出を取り戻すって何だろう。ボクには考えたが、胸が痛むことはなかった。


 その代わり一つ案が浮んだ。この本を被災地に譲ろうか。必要としている人がいるかわからないけれど、パソコンの電源を入れて早速調べ始めた。

 誰かのためにというより、処分方法を見つけたと行った方が素直だ。善行をしている気もするし、ただ売ったり捨てたりするより遥かにいい。


 インターネットの海を彷徨っていると、とあるサイトに出会った。何処かの会社が運営する交流サイト。誰かが求めている物を、タダで譲っても良いという人が譲ってあげるという趣旨のサイトだった。


 キーワード検索に“本“と打ち込み、100件近くある結果の中に条件に合うものはないかと探した。被災者以外にも求めているユーザーはいたが、特に気にしない。

 しかし、その中で一つの投稿に目が止まった。


『太宰治の津軽の小説を探しています。昭和56年に発売された物です。どんなにぼろぼろでもいいです。あるだけで構いません。譲っていただける人がいたらお願いします』という内容。


 求めているのは被災地に住む15歳の女の子。

 珍しくボクは人に興味を持った。この小説を求めるのは不思議じゃないとして、なぜこの年齢の子が生まれた年よりも前に発売された物を欲しがるのか。理由が気になる。この疑問を解決しようにも該当する本がなければ意味がない。


 一度結んだ纏まりを解いて、津軽を探してみた。本自体はあったものの、発売年が違った。縁がなかった。そもそもどこの誰とも知らない人の欲しい理由なんか一晩眠れば気にならなくなる。

 パソコンの電源を落として片付けに専念しようとまたビニール紐で本をまとめ上げていった。


 でも、どうしても気になる。片付けが済んで、夕食を取って入浴を済ました後に、もう一度同じサイトを閲覧した。

依頼ページに「解決済み」のバナーが出れば、もう相手は望んだ物を必要としていないという仕組みらしい。


 彼女の依頼は解決したのだろうか。昼間のページへアクセスすると、まだ解決済みにはなっていない。確かに年代的に考えて、直ぐには見つからないだろう。

 1ヶ月、いやそれ以上待っても譲りますと言ってくれる人はいないかもしれない。ここに金額が提示されれば、一件くらい声がかかるだろうが、その望みもあまり期待できない。


 解決済みになっていないことを確認できたら、再びパソコンの電源落とした。今知りたいのはそれだけ。そして迷いなくベットへ向かい、アラームを6時にセットして早めに眠った。


 そして朝が来た。アラームが鳴る前に起床し、朝食をとる。今日はいつもより多めに食べた。使用人がおかわりなんて珍しいと驚いていたが、好きで食べるわけではない。一日きっと歩くだろうから、夏バテしないように食べているだけだ。


 朝食を食べ終え、自室に戻り動きやすい服装に着替える。紺色のサマーニットと黒スキニーとスニーカー、小さめのリュックを背負い自宅を出る。

 夏の朝はすでに暑い。猛暑日になることが約束された地上では、暑くなる前に外の仕事は済ましておこうと使用人たちが慌ただしくいていた。


「おはようございます。坊ちゃん、車をお出ししますか?」

「あ・・・・・・」


 車庫前で洗車していた運転手の男性が暑さなど吹き飛ばすような、ハツラツとした笑顔で声をかけてきた。まだ8時前だというのに、額には汗が滲み出ている。

 好意に甘えるべきとだいうが、別に乗れと強いられた訳でもない。


「・・・・・・いえ、1人で行きます」

「そうでしたか。お気をつけて、いってらっしゃいませ」


 今日の行き先は不明なんだから、1人の方がいい。ボクの断りにも嫌な顔をせず、運転手は丁寧に見送ってくれた。1人が見送りの声を上げると、遠くからも近くからも「いってらっしゃいませ」と声が聞こえて来る。初めて来た客人は皆驚くが、ボクには日常の一部でしか無く、当たり前の風景だ。


 自動で開く自宅の門をくぐり、住宅街に出る。体は自然と駅へ向かっていた。確かに駅前ならあるかもしれない。


 グングンと歩みを進め、とある古本屋の前で立ち止まった。まだ開店前で、中では初老の男性が開店準備をしているのが見えた。9時開店の様だし、あと30分くらいだから立って待つことにした。

 ただボーッと、雨宿りをするように店先で待つ。時間がくると、店の主人が「待たせたね」と言って、麦茶を差し出してくれた。暑かったでしょうと優しさを向けてくれるのはありがたいが、うまくお礼が言えず無愛想な返事をしてしまった。


 麦茶は甘く、喉の渇きを潤し体を軽くする。グラスを返し、店内をうろうろと何周もして探し回ると、店主はまた優しさを向けてくれた。


「何か探し物?」

「あ・・・・・・昭和56年に発行された、太宰治の津軽を探しています」と伝えると、「太宰ね、それならこの辺に・・・・・・」と言って、本棚にあった一冊の最後のページを捲って刊行年を確認した。


「残念だけど、うちにはないね」

「そうですか」


 無いのなら次へ行こう。店主にお礼を言うと、彼は代わりにと言って都内の古本屋の所在地を纏めた手書きの用紙の束を手渡してきた。


「若い子が何だって必死に探してるかわからないけど、きっとあるはずだから。うちに来て欲しいものが見つからなかったお客さんには必ず渡しているものだよ。気にせず持っていって」

「ありがとう、ございます」


 店主の優しさにも、このココロは何も感じない。仕事だからよくしてくれるのだろうとしか、思えなかった。別れの挨拶の意味と重ねてお礼の言葉を述べると店を出た。


「絶望するな、元気でいこう!」


 後ろから聞こえた大声に振り向く。ただ本を探しているだけなのに、その声援はあまり大袈裟じゃ無いだろうか。


「津軽の有名な名言だよ。暑いから、水分補給は小まめにね」


 そういうことか。何度も引き止められるのも先に進めないので、今度は無言で会釈だけ返した。渡された用紙を見て、目的地を決めて電車に乗る。古本の町と言われる東京都神田・神保町に向った。


 移動中に考えた。ボクは津軽の内容を知らない。彼女はどうして津軽を求めるのだろう。店主の言った名言を考えると、震災で折れそうな心を励ますために欲しいのだろうか。でも、年代にこだわる理由には繋がらない。


 疑問は疑問を呼んだ。何故、ボクは見ず知らずの誰かの為に都内を駆け回って該当する本を探しているんだろう。他の誰にも興味がなく、自分のことだって例外では無いのに。

 相手が被災している子供だから、同情しているんだろうか。

 疑問が解けず、電車を降りた後も、古本屋で本を探している最中も同じことを考え続けた。時刻はいつの間にか夕方になっていた。一日中昼食も取らずに本を探し続けていたのだ。

 

 最後の一件に立ち寄ると、本は見つかった。その時思わず「あった・・・・・・」と口から小さく溢れて、口元が緩んだ気がした。ボクも人間か。達成すると、嬉しいのか。

 その証拠に走り出していた。買った本をリュックに入れて、出来るだけ早く家に到着出来るように懸命に走った。

来た路線を乗り継いで、自宅に到着したらすぐにパソコンの電源を入れてサイトへと急いだ。 

 走ったので呼吸は乱れていたがそれを整えるよりも先に、報告したい。キーボードを今まで一度も叩いたことの内容な速さでタイピングしていく。


『初めまして。お探しの物を持っていますが、ご入用ですか』


 メッセージボックスにそう打ち込んで送信する。後は返事を待つばかり。きっとこの子の助けになれたらいいとかではなく、ただ欲しがる理由を知りたいだけ。


 しかし、一日経っても返事はない。ボクはすぐに来ると思った返事が来ないことが気がかりであった。もしかしたら、もう別所で見つかって、必要が泣くなったのかもしれない。サイトに登録したことも忘れて、放置している可能性もある。


 次第にこのサイトへの興味は薄れていった。今日で確認するのは最後にしようと決めた。2週間後。サイトにアクセスすると、メッセージが届いていますというポップが表示され、すぐに確認するよう誘導される。

開くと、探し主からの返信であった。


『こんにちは、初めまして。遅くなってごめんなさい。図書館のパソコンを貸してもらっているので遅くなりました。わたしは生出要と言います。譲っていただけるなら、ぜひそうして欲しいですが良いですか? お礼に何か送ります』


 中学生か高校生か。年頃らしい、辿々しい文章が綴られている。

 忘れていたわけではなく、図書館のパソコンを使っているからサイトが見られないのか。なら仕方がないと、キーボードの上で指先を踊らせた。


『こんにちわ、初めまして。要さん。ボクは富名腰志蓮です』


 挨拶のボクは顔の見えない“要さん“に譲ずる条件を一つ提示する。「昭和56年刊行の津軽」にこだわる理由を尋ねたのだった。


 返事は5日後に来た。


『死んだとうさんのもっていたものです。津波にあったら無くしてしまいました。どうしてもこの本じゃなきゃ、とうさんをなくしてしまった気がするんです』


 平仮名が目立つメッセージに、15歳の子の悲しみが詰まっている気がした。

 悲しいってなんだろう。兄弟が死んだ時も泣かなかったボクには、言葉の意味はわかっても、感覚はわからない。そうですか、ではいけない。

 すぐに、こういう時に掛けるべき言葉をインターネットで検索した。あまり長いと深入りする気がしたので、


『お気の毒です』


 この一言だけをメッセージに乗せる。

 とにかく、出来るだけ早く送った方が良いのだと思って次の日に送付された郵便局に書き留めで郵送してあげた。理由はわかったのだから、もう用はない。


『今日郵送しました。返事は入りません』


 またメッセージを送った。それからはもうそのサイトへアクセスする事はなく、他の本も使用人に頼んで手放した。売ったのか譲ったのかはわからない。

 要さんへ手紙を送ってから数週間後には一人暮らし先のマンションへ越して新しい生活を始め、片付けに追われれば、その事も頭からはなくなっていた。


 大学が始まり、また学業に専念する日常が戻る。一人暮らしをすると、ますます口を開かなくなった。唇に瞬間接着剤でも塗りつけたみたいに、食事をする時以外は開かない。


 同じ講義を受ける人間からは休みが明けたらますます暗くなったと陰口を叩かれていたが、それの何がいけないのか理解出来ない。人は何故暗い事を嫌がるのか。目に見える明るさではない暗さとは何か。

 その違いがわからない。ニュアンス的なものか、感覚か、それとも感情か――。


 何に当てはまるのか考えながら帰宅し、マンションのエントランスに備え付けてあるオートロック式の郵便受けを開ける。

 すると、転送シールの貼られた薄緑色の手紙が来ていた。少し厚みが合って、形が歪だ。手紙の裏を見ると、見慣れない差出人の名前だったが、宛名はボクだったので、部屋に入ってすぐに開封してみた。



 ――富名腰志蓮さんへ


 改めて、はじめまして。本を譲ってくれてありがとうございます。わざわざ買ってくれたみたいで、申し訳なかったです。届いた本を読みました。父さんと読んだものと同じでした。

 嬉しくて悲しくて泣いてしまいました。ちゃんと、父さんが戻って来てくれた気がします。


 何かの縁だと思ったので、これを送ります。縁結びの御守りをあげると、相手に幸せになってほしいって意味があるみたいです。ほんのお礼です。志蓮さんにも幸せを譲れたら嬉しいです。


 幸せを譲ってくれてありがとうございました。 


 生出要より――


 送り主は、あのサイトで出会った要さんだった。返事は要らないと言ったのに、ご丁寧に手紙を返してくれたらしい。

手紙の他に、ピンク色の縁結びの御守りが入っている。裏には恋愛成就としっかり書いてあって、きっと意味も分からず買ったのだろうと思った。


 興味がないと、テーブルの上に置いて夕飯の支度をしようとした――が、その御守りから目が離せない。さらに口元がムズムズとして、頬も熱い。


「幸せを譲ったのか・・・・・・」


 "幸せを譲ってくれてありがとう"。

 この一文が気に入って、何度も読み返した。こんな事は初めてだ。春の陽気のような暖かさが胸だけにあるみたいで、心地よい。そしてペンと紙を取り、もう要らないと言った筈の返事をまた書いている。


 ――要さんへ


 こんにちは。ご丁寧にお手紙ありがとうございます。どうして買ったものだとわかったのでしょうか。

 しかし、ボクは何故買いに走ったかわかりません。普段は誰の何にも興味が湧かず、家族を亡くしていますが、悲しいや嬉しいも、体で感じる事が出来ない人間です。

 要さんが被災地に住む人だったからと言われたらそれまででしょうが、なんだか違うのです。


 ボクに幸せを譲ったのなら、ボクに幸せが何か教えてくれませんか。譲られてもそれが何かわかりません。

 でも、要さんの手紙を読んだら胸に春が来たような感じがします。


 もしよかったら、お返事ください。


 富名腰志蓮――


 と、返事を書き、この手紙はその日のうちに出したくて、だけど夜も深くなったのでタクシーを呼び、わざわざ遅くまでやっている郵便窓口まで出向いて速達で送った。


 それから手紙が来るまでソワソワ落ち着かず、最寄りの郵便局へ問い合わせを繰り返して、返事を待った。

 このまま返事が来なかったらどうしようと考えると、胸が疲れてずっと眠りたいと目を閉じた。


 メッセージも忘れた頃に来たのだから、忘れたら来るかもしれないと勉強に集中しても、外から微かに聞こえる原付バイクの音に反応してしまう。

 時計を見れば郵便配達などする時間ではないのに的外れな気配に過剰な期待を寄せて、違うとわかれば、体から力がスッと抜けていく。


 20年近く生きた。その長い年月のうちに経験のなかった、自分をコントロール出来ないという初めての経験に、ボクは酷く翻弄されてる。


 ――また手紙が届いた。今回は今まで一番遅く、1ヶ月程待った。

 以前のように問い合わせをすることはなかったが、それでもポストやバイクの音には体がピクリと反応してしまう。

 彼女も学生なのだろうから、青春に忙しいのだろう。返事が遅いことなんかよりも、届くか届かないかが重要で、返ってきただけで良いと思っている。


 手紙をきれいに開封するために買ったペーパーナイフを利き手で持ち、破れたりしないように慎重に紙を切る。ぎっしりと文字の詰められた紙が1枚入っている。また口元が緩めばいいなと、手書きの文章に視線を走らせた。これが“期待“なのだと、ボクは知らない。


 ――志蓮さんへ


 こんにちは。お返事が遅くなってごめんなさい。

 アルバイトが忙しくて、手紙を書くのをすっかり忘れていしました。


 どうして買ってくれたものかわかったかというと、本の中に最近の日付が書いてあるレシートが挟まっていたからです。320円の本に、520円を出して、200円お釣りを受け取ったんですね。


 それで、質問の答えなんですが、見ず知らずの私の為に走り本をわざわざ探してくれたのは、志蓮さんの根っこが優しい人だからだと思います。

 志蓮さんがどういう人かわからないので合っているかわかりません。が、私が思うに志蓮さんが悲しみとかを何も感じないというのは、きっと傷つき過ぎたからじゃ無いでしょうか。


 私の話になってしまうのですが、父さんを亡くしてから暫くは感情がなくなった期間があったと思います。記憶に無いんですが、ずっと心の仲が空っぽで、なんというか、冷たかったんです。

 寒くなったら体が冷えて感覚がなくなって、それから一度冷えたら暖まりにくくて感覚を取り戻すのも時間がかかります。

 それと同じで心を温めてくれる何かに出会えば、きっと少しずつ感情は戻ってくるんじゃ無いでしょうか。志蓮さんの冷たいを温めるきっかけが私になれていたら嬉しいです。


 幸せとはなんですか、という質問ですが、これも難しくてなんと書いたらいいかわからないでいます。

 私の幸せはなんだろうと考えた時、真っ先に浮かんだのは父さんです。置いて行かれてしまったけど、傷つけられても居なくなっても、思い出すと満足します。

 だからこの本が必要なのです。呼んだらぎゅうっと胸が苦しくなって満たされるから。

 だから、幸せは「心のお腹いっぱい」だと思います。

 好きなものをたくさん食べると、心も体も満たされるから、それに似ているのかなぁ。


 訳がわからなかったらごめんなさい。美味しいものをお腹いっぱい食べてみてください。きっと、幸せです。


 要より――


 ――P.S. 私はイカとお肉が大好きです。志蓮さんは何が好きですか?


 文章はボールペンで書いてあった。書き間違えた箇所に修正テープがちらほら見える。ボクの質問の答えを一生懸命考えてくれた跡に違いない。


 ベットに寝そべって、彼女がくれた答えと自分の人生に照らし合わせてみる。

 まずは、兄弟が亡くなった時どんな気持ちだったか。傷ついていたのか。胸は痛かったか。繋がりが薄かったから、やはり何も感じない。

 

 数日後、実家に帰った際に仏壇に飾られた兄弟たちの遺影を見たが、「こんな顔だったっけ」と記憶を疑うだけで、“悲しい”と思うことも胸が冷たくなることもない。むしろ他人の写真が並んでいるようで薄気味悪くさえ感じる。

 それどころか、月日が経つごとに家族だった彼らのことがどんな人であったかを思い出すのが面倒になってきている。


 要さんはお父さんを亡くしているそうだから、もしかするとボクも両親が亡くなったら悲しいと思えるかも、と考えた。死んで欲しいと思った訳ではない。なので、想像してみた。

 病死、自殺、他殺、衰弱、事故死、災害関連死・・・・・・どれも何も感じない。

 2人が亡くなった時に手続きをするのは自分だから、いつその時が来てもいいように調べておかなくてはいけないなと思うのみ。結局、悲しみの意味はわからないままだ。


 幸せはなんとなく、ピンときている。

 幸せと言えば大袈裟になるが、要さんから手紙が来ることが楽しみで仕方ない。


 だって、胸がお腹いっぱいになるが幸せと書いてあるんだから、きっとこの胸の締め付けるような温かさは“幸せ”に違いないんだ。

 ボクは数度しか手紙のやり取りをしていない要さんに「幸せを譲った」ことが、ボクの中でずっと動かなかった重い石を少し転がされたように思う。


 ――要さんは、「幸せを譲ってくれた人がこんなにドライで冷たい人だと思わなかった」と軽蔑したりしないだろうか。

 今回の手紙で、ボクはドライで冷たい人間なんだと思い知らされて、このままでは良くないと焦りを感じた。焦りもまた、初めての感情だった。顔の知らない誰かに嫌われたくなくて、大学の授業の他に、感情や心理学について勉強するようになった。


 感動すると噂の映画を見たりして、喜怒哀楽を感覚にして取得しようと繰り返し視聴する。

 なんのために勉強しているのか忘れないように、要さんが好きだというイカと肉を毎日口にした。今度、イカのお土産か何か送ってあげようかな。


 そういえば、志蓮さんは何が好きですかという質問にも苦労した。

 生憎、好き好んで食べるものはない。嫌いなものはないし、特別好きなものない。だから、毎日パンにつけて食べている「ジャム」と答えた。ヨーグルトにも入れるし、たまに紅茶にも落としたりする。嫌いであれば食べないはずだから、間違いじゃない。


 すると数日後に、要さんから小包が届いて、『給料が入ったので、地元のイチゴジャムを送ります。今度はちゃんと幸せを譲れますように。そういえば、夏目漱石もジャムが好きらしいですよ。月が綺麗ですねの人です。もうすぐ満月ですね』と、書かれたメッセージカードが同封されていた。


 瓶に詰まった赤いジャムを見詰めると、要さんと意思疎通ができているように感じて嬉しい。ボクも何か送ろうと思っていたからだ。

 なんとも思っていなかったイチゴジャムを一口食べてみると、今まで生きていた何よりも甘くて美味しく感じられる。

 ほっぺが落ちそう、とはこのことか。美味しくて美味しくて、食べるのがもったいなく、毎朝出かける間際に少しだけ口にすることを習慣に加えてみた。


 それだけで毎日が少し色づいて見える。最近は美味しいものを食べると、笑えるようになった。それを手紙で報告すると、要さんは『なんだか私も嬉しいです。こうやって手紙のやり取りをしていると、楽しいですよね』と返してくれた。そうか、これが嬉しいと楽しいか。


 要さんが言っていた、夏目漱石の作品を読んでみようかな。そうしたら、もっと多く話せるかもしれない。心をお腹いっぱいにし合えるかもしれないから。

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