120恥目 家賃免除のドグラ・マグラ
「ねっむぅ・・・・・・寒っぶう・・・・・・」
「富名腰さん、寝不足?」
「だいぶ・・・・・・あかん、しかも寝坊やん・・・・・・もう遅れてこ」
朝日が登れば皆次々に目を覚ます。
ちゃぶ台に顔を突っ伏して項垂れる志蓮に声を掛けたのは初代さん。
女給の仕事をしている初代さんは朝にバッチリ化粧をする。女の人っていうのはいつの時代も、眉を整えて、目に線を引いて、口に赤を乗せるだけで素敵に見える。僕には出来ないから、尚の事よく見えて、キラキラ放たれるオーラが眩しい。
「姉さんおはよ! 今日も綺麗だな」
「おはよう。毎日ありがとうね」
そう思うのは僕だけではない。
文人に綺麗だと言われて頬を染めると、ますます綺麗な顔は映える。そんな綺麗な女性の旦那は布団の中。しゅーさんは夜が明ける前に原稿を仕上げたようだから、今はぐうすか眠っている。
僕と文人は皆よりも早く起きて弁当と朝食の準備をし、6人分のおにぎりをせっせと握る。それと漬物と汁をちゃぶ台に乗せ、中也さんを起こしたら今日の始まりだ。
「これ、要ちゃんでしょ」
朝食が始まってすぐに見せられる、きちんと切れていない連なった白い沢庵。
初代さんは箸で一切れ摘むと半分までとは言わないけど、三分の一程の沢庵がついてくる。確かに切ったのは僕だけど。
「なんでわかるの・・・・・・」
「そうねえ、あなたのお姉ちゃんだからかしら」
初代さんは得意気に言う。沢庵は箸で少し振ってやるとバラバラになって落ちた。
「司が居たら説教だね」
「沢庵も皆バラバラは寂しいんですよ。だから直前まで繋げといてあげたんですぅ」
「司なら自立しろ! ってキレるな」
たかが沢庵一つで賑やかになる、なんでもない日常。朝からゲラゲラ笑う。
初代さん、仕事の時間大丈夫かなあ、なんて時計を見るとすぐ横の日めくりカレンダーに目がいった。
思わず二度見。現実再確認。
「あー!」
「今度はどないしたの」
絶叫。笑顔は簡単に絶望へと変化する。
本日、1月25日、金曜日。今日はなんの日、給料日。
給料日と聞いて少し心がときめいたりするもんだと思うんです。
給料日だから何買おうとか、一つくらいあると思うんです。しかしこの家は呑気に屋根の下、あはは、うふふとほのぼのとした雰囲気に浸っている場合じゃない。
とんでもない事に気づいてしまった。おにぎり食ってる場合じゃねぇ。いつの時代も金に悩むのは当たり前だと思っていたが、今日程追い詰められた日などなかった。
先月――つまり、12月は全く働いていない。
なんせ監禁されていたし、中也さんや文人だって僕を探すのに一生懸命で働けなかった。今月の支払いどうしよう、なんて考えていた昨日はまだ準備する時間があると思いこんでいた。
しかし、今日なんだ! 今日を生きる、日本国民全員に平等に1月25日が訪れている。
家賃、光熱費、しゅーさんと文人の借金返済、入院費の返済、新聞代・・・・・・。
全てが今日の支払い。給料日だというのに、いろいろあって金が入らない我が家は窮地に立たされている。毎日吐きそうだけど、今日は一段と吐きそうだ。オエエ。
「あの・・・・・・さ」
僕は、切り出しにくいがきちんと今月支払える金がない事を話した。
最初はいつもの事だと笑ったが、詳細を話すと途端に顔は青くなる。そろばんを弾いてみせるから、なお現実が迫って来て逃さない。
「計算すると、ほらね。学費払ったら終わりだ・・・・・・」
「あっ、私そろそろ行かなきゃ! ご馳走様!」
「ボクも早よ行かんとねえ」
初代さんと志蓮はワザとらしく朝食を食べるのを止め、荷物を取って「行ってきますと」駆けていく。お金が関わると人って態度が変わったりするんだよね。悲しいです。
遅刻しそうな志蓮に自転車の鍵を渡すと「めっちゃ稼いでくるわ」と両手を握ってくれた。僕は「絶対ね」と返す。
稼いで来てくれるのは有り難いけど、彼にはもっとやるべき事がある。平成から来た僕らには欠かせない事。それなのに一番しっかりしないといけない僕がこんなんじゃなあ。皆に迷惑をかけているだけだ。
「2人は逃げないの?」
そそくさ出て行った2人とは違い、中也さんと文人は口をもぐもぐ動かして普通にしている。特に文人なんか、すぐに飛び出してもいいくらいなのに。
「俺はジジィへの返済待って貰えるから、その金をこっちの返済に当てればいいし。てか別にお前のせいで払えねェんじゃないんだしさ。大家が集金来たら出てやっから」
「家主が要だけで、一緒に住んでるんだから連帯責任だろ?土下座でもなんでもしてやるよ・・・・・・あ、もしかしてまた自分のせいだと思ったか?」
「事実だし・・・・・・」
申し訳ないと思っている。だから逃げないのか、と聞いたんだ。
「要が悪いことなんて寝相くらいだよ」
中也さんが笑うと、文人も確かに! と激しく同意してきやがった。そんなに寝相悪くないもん。
金はないけど、そんな事はなんでもないと茶化しながらも考えてくれる、頼もしい仲間がいる。
僕の涙腺は緩んで、堤防決壊。2人の言葉に支払いが出来ない不安を残しつつも、なんとかなるかもしれないと思える様になった。
「2人共大好きだぁ」
僕のせいじゃないと言ってくれただけで胸が熱くなる。込み上げる嬉しさに堪らず中也さんに飛びついて抱きついてみたりして。
初めて会った時よりも、しっかりと、そして男性の真似事をしている僕にはない筋肉に胸がキュンとする。背中に回った腕もいつの間にか太くなっていた。
「2人とか言いつつ、中也の方しか向いてねェけど。どさくさに紛れてイチャつくのやめてもらえません?」
「なんだ、悔し涙で米がしょっぱいのか?塩味が増してさらに美味くなるな」
「うるせェ!」
とにかく今は同居人の言う事を信じてみる。前の僕なら、男娼になる事を1人で選んですぐにでも金を作ったろう。平成の僕はきっと30分で金を貸してくれる消費者金融に頼ったかな。
最近は無理なものは無理、甘える所には甘えておこうと落ち着けるようになった。
すぐに飛び出す悪い癖も治せるように。ここはしゅーさんを見習って、家賃なんて知らんぷりしてみる。見習っては、失礼か。
*
ついにその時はやってきてしまった。御免くださいと聞こえる、月に一度聞く中年男性の声だ。
されども今日は、文人が迷わず玄関の戸を開けて対応してくれる。
僕は息を殺して居ないフリ。徹夜続きで死んだ様に寝ているしゅーさんの臑毛を数えながら、心を落ち着かせていた。しかし、臑毛を20本も数える間も無く文人が書斎の戸を開けられた。
「要、お前に用があるんだってよ」
「やっぱりダメか」
やはり大家さんの融通は効かない。
あっちだって商売なんだから、そうか。1か月分送れただけで、あちらの生活もままならなくなるかもしれない。
頭の回転は早かった。家賃分の金を集めるために、どのバイトしようか丸と罰をつけて始めたのだ。
何を言われるかとドキドキしながら外に出ると、中肉中背のいい着物を着た大家さんの顔はやつれていた。
「ああ・・・・・・生出さん・・・・・・」
「どうしたんですか? そんなにやつれて」
声も元気がない。太っているからここまでは歩いてくるのが疲れた、とかだろうか?
僕は痩せていた事しかないと言ったら、怒られるかもしれないが、毎日食べるのがやっとの生活を繰り返して来たから、気持ちを理解することは出来ない。
どうぞ家に、と招き入れてみるが事故物件だからと断られた。そんなに悪い家じゃないけどね。
「いやいや、ちょっと変な本を読んだら頭がおかしくなってね。どうせ今月は家賃の支払いができないだろうと思って来たから、提案を」
「はあ」
文人が家賃の話をする前に、どうせ払えないと気付いていたらしい。
街で僕を見かけていたのに見なくなったこと、それから大家さんは文人が働く小料理屋の常連だったということもあって、異変を察知してくれていた。
とにかく家賃の代わりの何かをすれば今月の支払いは免除してくれるようだ。もちろん断る理由なんかある訳ない。
「体売れとか、そんなんなら金借りて家賃払いますけど」
僕が大家さんの何ともしれぬ提案に返事をする前に、中也さんが慌てた様子で外に出て来た。また何も考えずに返事しようとして、と怒られそうな顔。
「まさか! そんなに鬼じゃないよ。一月分くらいなら待つさ、でも私はね、家賃よりもこれを読んで欲しいんだ」
やだなあとやつれた顔で笑う。手に持っていた、上質な風呂敷包みを僕に手渡して来た。受け取れば、中身は見れないが本だとわかる。
「本、ですか?」
大家さんは腕を組み、頷いた。
「その本を読んだら、頭が痛くてね。生出さんなら、作家と住んでるから難解な内容でもわかるかと思って。私は年だから理解できないのかな。それで提案というのが、読んだらあらすじと感想を教えてほしいんだよ。それが家賃免除の条件。どうかね」
「それだけ?」
あまりに上手い話に目をパチパチさせた。
あらすじと感想だけでいいの? 読書感想文じゃん。小学生じゃあるまいし、それで家賃免除ならいくらでもやる。
僕は喜んで! と笑顔で返したが、彼はそれを鼻で笑った。
「生出さんが思うほど簡単な本じゃないと思うよ。それじゃあ、頼んだよ」
「はい、ありがとうございます!」
家の前の階段を降りて行く大家さんに一礼して、小さくなるまで見送った。
そして、完全に姿が見えなくなってから家の中へ入る。居間で文人がお茶を淹れていたからすぐに温まることが出来た。
「なんだって?」
「なんかこの本のあらすじと感想教えてくれたら家賃免除だって」
「へえ、なんの本?」
「それは今から」
ちゃぶ台の上に風呂敷を置く。悴んだ手で風呂敷の結び目を解き、包まれた布を取る。
白い表紙に、夜中に目が合ったら心臓が跳ねそうな、ニヤリと怪しげに笑う女性のイラスト。
そこに大きく「幻魔怪奇探偵小説 ドグラ・マグラ」と文字がある。著者は夢野久作。触った感じよりも厚い本。大家さんはこの本に頭を痛めているのか。
「ドグラ・マグラ? なんかの呪文みてェ。なあ、大声で言ったら手から火ィでそうじゃね?」
「何言ってんだよ」
「出すぜ、ふっ!」
すっかり気に入った文人は小学生の男子に戻ったみたいに、手から火を出す動作を恥ずかしげもなくやる。当たり前だが、火は出ない。
中也さんに著者について尋ねても、知らないと首を振った。僕も聞いた事がないのか、忘れているのかわからないが、初めましての本だ。
「ドグラ・マグラ、ねえ」
まあでも、これを読んで読書感想文を書くだけでいいなら幾らでも書いてやるよ。家賃免除のために、さあ読むぞと意気込んだ。
これは僕に課せられた大事な仕事。ならば真剣に読み込まねば。
まだ明るい昼間だというのに電気をつけて、耳に耳栓を突っ込み、短い鉛筆と気になった事があった時のためにと書き損じの原稿用紙をたんまり用意した。
僕だけの世界を作り込むと熱を取り戻した手で、本を開く。
――
胎児よ
胎児よ
何故躍る
母親の心がわかって
おそろしいのか
――
巻頭ページのこの詩に、一瞬、母さんの顔を思い出す。頭が押し潰されるように痛い。目眩もし始めた。だからこの本を見るのが恐ろしくなったが、皆のためにも読まねばならない。
僕は本を読む事が、ボロボロの古木で出来た船に乗り、荒波の大海原へ突っ込んでいく様な事にも思えた。
――ドグラ・マグラ。
思わず口に出してしまいたくなる、呪文だ。
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