79恥目 どうか、貴方の1番に
それからの「私」の行動は早かった。
第一に、慣れない煙草を吸ってみたりした。
彼の愛用している、緑色の包装の煙草だ。これを吸えば、少しは彼の気持ちがわかるかもしれない。しかし、当たり前にそんな事はなく、ただ喉の奥から心底煙たくて、息は上手くできないし、何が良いのかわからない。
けれど、彼の一部を体に取り込めた気がして好かった。
どうしても、彼の懐に入らなければならない。生前の記憶を頼りに、彼の好きな物を思い出してみる。
浮かんだのは、酒と女、自殺だった。自殺と女は"もう"嫌だから、まず酒を奢ろうと考えた。酒なら「私」も飲める。あまり強くはないけれど、それしかない。
そう決めた日から、彼が講義のない日も校門前で待ち伏せし、帝大に出入りする人間の顔を1人ずつ目を細めて確かめた。
講義のある日の夕刻になれば、彼は簡単に現れる。寒くなって来たから、上衣を着込み、息が白いかどうか確かめている。
周りを気にせず帰ろうとするのだから、今日という日は誰かを待っている様子もない。今がチャンスだ。
すぐに駆け寄り、「私」は女が男に甘えるように右腕に飛びついた。
「太宰さん」
彼は驚いた様子で、反射的にこちらを見たら、すぐに頬を緩ませた。
「ん? ん、ああ、檀か。誰かと思ったよ」
驚かせてすみません、と頭をぴょこんと軽く下げる。誰にも取られまいと思った、咄嗟の行動だったからだ。
「あの、よかったらこの後、一緒にお酒でもどうでしょう。この間、傘を頂きましたから」
「あの傘の事ならいい。趣味が悪くて押し付けたような・・・・・・いやなんでもない。でも、酒か。付き合ってやってもいいかな」
「あ、ありがとうございます!」
やはり酒は強い。すぐに食いついた。彼はかなり上機嫌になって、私に着いて来てくれる。
「人助けはするもんだな!」と言うが、傘なんか無くたって「私」は貴方を誘うつもりだった。
昨日は眠らずに、貴方への質問やお話を聞きたくて、何度も何度も会話をシュミレーションした。
生憎、作品の事はまるで思い出せなかった。いや、思い出させないようにさせられている、と言った方がしっくりくる。思い出せそうで、思い出せないの繰り返し。何度も結果が同じだと考えるのも億劫になるものだ。
とにかく、太宰さんの事が好きだと言うことは伝えたい。
しかし、まだ若い彼だから作品はそんなにないはずだ。これから創られる作品に興味があると言って、どんな文章を書くのか、聞いてみるところから始めようか。
私達は居酒屋の暖簾を潜ると、カウンター席に座り、彼と肩を並らべた。
身長は「私達」よりも低い。「私達」の身長が世間の一般男性よりも高いから、そう感じるだけだろう。太宰さんもこの時代の男性らと比べれば身長は高い方だ。
同じくらいの身長ならば、同じ目線で世界が見えたのかも知れないと彼と同身長の人間を恨んだ。
そんなこともつゆ知らず、太宰さんは上機嫌で「私」の分の酒を注文する。二言も交わさぬ間にグラスと酒瓶が卓に置かれれば、我慢出来ぬと焦ったように乾杯した。
カチンという、グラスのぶつかる音はキスにすら感じる。男が男相手に何を言っているのかと、思われるかもしれない。
しかし、私は生前から彼の虜だったと思う。理由は――嫌だな、こればかりは覚えているのか。今は必要のない情報だと、口の中を噛んで忘れようとした。
「太宰さんは普段、何をされてるんですか?」
相変わらずうまく話せない。吃ってしまう。
「太宰って、その呼び方慣れないな」
彼は「作品を読んだのか!」と喜んでくれたが、正直、作品名すら思い出せない。だから、笑ってやり過ごした。
話題を変えてなんと呼んだら良いかと尋ねると、彼は悩んだ。
「大体の奴は修治さん、かな。気に食わないクソ野郎は津島、それから、そうだなぁ、兄さんとか」
「では、私が一番近くに居られるような、呼び方はどれでしょうか?」
「難しいなぁ。そもそも、お前のことをあまり知らない。修治でいいさ」
酒で気分が良いのに、普通の人と同じ呼び方でしか呼ばせてくれない。私はムッとした。まるで"あの人"と同じだ。
「それ以外に呼ばれている呼び方は? あだ名のような」
「あー、ある。あるが、ダメだな。あれは、アイツだけ」
「アイツとは? 恋人がいるんですか?」
「嫁がいる。けど、嫁じゃないよ」
モヤモヤする。「私」は慣れない純米酒を注文し、不機嫌にならないように一気に体へ流し込んだ。
嫌われたくないと怖気付いて、言いたい事が言えなくなっては困る。車に入れるガソリンのようだ。体が熱くなって、酒の力を借りてしまえば、今ならなんでも言える気がする。
「その人は、そんなに特別な人ですか」
「……どうかだね。ただの弟さ」
「弟……」
太宰さんは、何かを思い出したように笑った。その「弟」を想って笑ったに違いない。
「弟さんはどんな人ですか?」
「口煩くて、俺よりも俺を知っているよ。時々不気味に感じるね。だが悪い気はしない。変な奴だ」
それから太宰さんは、楽しそうに「弟」の話と、同居人と、それに関わる人の話をしてくれた。あの事務員でさえ、一緒に飯を食べる仲らしい。
その仲に入りたいとは思わない。私の中でまた、黒い感情が沸き起こる。
今回は、好きな人の一番でなくてはならない。
「私」は本当に、恋をする女のようになってしまった。
生前も愛した女の一番の男になりたくて、悩み、足掻き、結果、死を選んだ。
また自分が死にたいとは思わない。
とにかく「弟離れ」させなくては、こちらなど見てくれないと本気で思った。
表ではニコニコ聞いているフリをして、明日からは「弟」から太宰さんを引き離す計画を立てようと企てた。
「酒は飲み過ぎると、アイツが怒るから」
そう言って、ベロベロになる前に注文を辞める姿も、私の「愛されなければならない」という焦りを掻き立てるばかりだ。
*
「しゅーさん! 迎えにきたよ」
「あっ、お前また1人だけ鯛焼き買ってんな」
「腹減ってんだもん。口つけたけど食べる?」
「ん」
あの晩以降、帝大前で太宰さんに気づかれぬように尾けるようになった。
今日は、一つの鯛焼きを女みたいな顔した男と分け合って食べている。羨ましい。相手の顔はハッキリ見えない。
どうやらあの男が「弟」で間違いなさそうだ。
何故ならあの日、太宰さんが言っていた「呼び名」の中に「しゅーさん」はなかったはずだから。
「食い過ぎ! ふざけんな! なんで半分もないんだよ!」
「お前が食っていいって言ったんだろ!」
「遠慮とか気遣いとかないのかって言ってんの! この間も勝手にサイダー飲んだろ!」
「お前のだとは書いてなかったもんねぇ」
「バーカ! バーカ!」
なんの変哲もない兄弟喧嘩は校門前によく響いた。恥ずかしいと思わないのだろうか。
鯛焼き1つで、ああも言い合うなんて大人気ない。
私なら太宰さんに全てやる。
後から聞いた話によると、2人の喧嘩は「御家騒動」と呼ばれ、帝大校門前の名物になっているという。何年か前には、「弟」の「あまくせさん」が学校に乗り込む事件があったらしい。
――また別の日には、「弟」の漕いだ自転車の後ろに乗って登校していた。
あの「弟」とほぼ毎日一緒にいるようだ。
一方で、生前より慎重になった「私」は、「弟」といる太宰さんに声を掛ける事が出来ないでいる。
そんな日が続けば、いくら「私」でも気は滅入る。
しかし、神は私を見放してはいないようだった。太宰さんとばったり校内で出くわしたのだ。
「よう」
気さくに手をあげて私に挨拶をしてくれる。照れ臭くて、モサモサした藍色の天然パーマのなかに指を突っ込んで、頭を掻いた。
「何日かぶりですね。今日も弟さんと一緒でしたか?」
「いや。アイツ、今日は朝からアルバイトだから。なんか用事か?」
「いえ。よく一緒に居るのを見るので、男性らしくはない顔付きの方……ですよね」
「そうだな。巷じゃ美少年なんて言われてるが、俺に言わせりゃただのチンチクリンさ。屁は臭いし、口煩いし、体力バカだし……」
悪口は楽しむもの。誰かを馬鹿にしながら、己の方が優れていると確認する作業に過ぎない。
なのに、この人は「弟」の話を振りかけるだけで、愛を語るように見えた。「私」はあまりにも「弟」が憎たらしくて、どうにかなりそうだった。
紙を破るように身を引き裂いて、障子に穴を開けるように指で目を突いて、蟻の巣を埋めるように耳を塞いでやりたい。
夜は頭の中で「弟」を痛ぶる妄想に耽け、いつの間にか眠りに落ちた。
朝、目が覚めると、どっしりとした疲れが「私」を襲う。全部「弟」のせいだ。
もっと気軽に太宰さんと話がしたいのに。「弟」が気になって、結局ソイツの話を振ってしまうし、振らなくても必ず「弟」は出てくる。嫌いな物程気になるのは何故だ。
「本当に逃げても逃げても追いかけてくるんだよ」
煩わしいと言いながら、笑うなよ。
1人で勝手に幸せにならないでくれないか。
「私達」を無い物にしないでくれないか。
「……そんなに困ってるなら」
もっと幸せを信じずに、希望を探すようなダメ人間で居てくれないと。
「私が助けてあげましょうか」
彼の希望にはなれないのだから。
「私」の黒い感情は日に日にどす黒く、救いようのない色になっていく。
「弟離れ」をさせることから、「弟を消す」に変わる。
愛に裏切られると人はこんなにも醜くなる。
生前、あの人がそう教えてくれた。次の愛は絶対に離しやしない。
*
「あまくせさん? 津島さんとこの弟だろ?」
「それ以外に何かありませんか?」
「あと、あと、うーん。アルバイトを掛け持ちしてて、屈強な足を持っていて……そういや鎌倉まで自転車で行ったって聞いたな」
「ああ、あったあった。それにしても、いつも走り回ってるよ。父さん譲りの足なんだーって」
「ふむ……」
太宰治の父親は足が強かったのか。
もちろんそんな事は知らない。足が強いところな魅力の一つなら、私だって負けていない。
生前の若かりし「僕」は、出身地を北から南まで自転車で走り回った事がある。鎌倉がどれほど遠いか知らないが、「僕」だって負けてない。
このように今まで観察して来たことを踏まえ、太宰さんと一言でも交わした事がありそうな者に「弟」について聞いて回った。一語一句、漏れのないようにメモをする。
太宰さんは「弟」の事を教えてはくれるが、隠すようにしている部分があった。まるで取られまいとして、悪いことばかりしか教えてくれないのだ。
自宅に帰ったら、「弟」について聞いた事を別な紙に書いてまとめた。
あまくせと呼ばれるお人好しの苦労人。複数のバイトを掛け持ちし、そこ知れぬ体力を持ち、足が丈夫で喧嘩っ早い。以前はバールを持って歩き、政治活動する者と衝突したことがある――。
舌を口内でクルクルと舐めまわす。これは癖だ。そして、カチンと、舌を噛んだ。
「ん……?」
頭の中は、目覚めのよい朝のように冴える。
手元にある紙はなんだろう? 綺麗な字を一つずつ読んでみる。
――怖い。喧嘩っ早いの人の情報か何かだ。歯がカタカタと震えてぶつかる。
バール。バールって。それを武器にして、人に何をするのだろう。
「僕」は臆病だから、怖いと思った文章を頭の中で映像化させる特技がある。もしも「僕」の頭の中の事が、そっくりそのまま現実に起こったら……。
妄想を掻き消そうと、頭を左右に大きく振る。痛いのは嫌だ。苦しいのも辛いのも嫌だ。臆病のままじゃ、死ぬ前と一緒じゃないか。
弱音を吐いて、汚い声で泣くだけ泣いて「僕」は消えた。
時々何かのスイッチを押したように、「私」の中で生前の私が現れる。
「私達」は2人いる。自分の中で2人で話している。舌を噛むか、腹に刻んである名前をなぞるとスッとアイツは居なくなる。
気を確かに。一息ついて、私は目的を見失わぬように、ペンを取り、太宰さんの名前を何度も何度も何度も何度も何度も、書き綴る。
明日は、弟の何を探ろう。そういえば、名前を聞いていなかった。
名前を聞いたら、そうだな。どうしようかな。
どこか遠く、太宰さんに名前を呼んでもらえないような場所へ、追いやってしまおうか。
「私」は貴方の1番になりたいのだ。
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