第二部 薄倖の追想海馬

78恥目 雷鳴ディヴォーション


「えっとぉ、えっとえっと、あぁ、どうしよぉ……」


 夏の雨模様。稲妻が轟かす雷鳴は「僕」を不安にさせた。 重い黒い雲に地面を叩くような雨音。


 自然は脅威だ。

 この空の下、無力な「僕」が一度足を踏み出せば、強い虚無感に襲われるに違いない。

 傘が無い、それだけの事だが「僕」には重大な事だった。


「なんだ、またお前か」

「あ……」


 帝大前で戸惑う「僕」に声をかけてくれたのは憧れのあの人だ。紫色の西洋傘を両手に持ち、顔を引きつらせている。

 まさか同じ大学に在籍しているとは。今回で会うのは2度目だけど、先日の「僕」はうまく話せなかった。

 自分から声をかけたのに、緊張が「僕」を支配し、この人の顔を見ることすら出来なかったのだ。


 今回も挨拶すらマトモに出来ない。それを笑う様に稲妻がピカッと光る。


「ヒッ」


 雷鳴に驚いた「僕」は舌を噛む。するとまた、雷がゴロゴロと大地を揺らして、ピカリと光り、「私」の視界を真っ白にした。


「おぉ、すげえな」


 その光に視界が奪われて、暗雲の暗さに目が慣れるまでの数秒。

 目を凝らすと、生前の「私達」が憧れていた人がいる。

 どうやら人は"死ぬ"と自分の憧れだった人に会えるらしい。

 「私」は現状が信じられず、ただ憧れたその人の姿をジッと見つめて立ち尽くした。


「趣味の悪い傘だろう? 弟が買って来たんだ」


 彼が手に持った傘を軽く、胸の辺りまであげた。表情は苦笑いだ。


「そ、そんなことは……弟さんがいらっしゃるんですね」


「私」に似合わない、ぎこちない返答だった。


「ああ、煩い奴だよ」


 「私」を見て、はにかんでくれた。生前の記憶は曖昧だが、この人には、沢山の兄弟が居た記憶はある。 

 「私達」は彼のファンだったが、家族構成を覚えていられる程の余裕がなかった。


 生前にもっと勉強をしておくべきだったと深く後悔する。


 いや、死後のことなんて誰にもわかりやしないのだ。まさか憧れの人に会えなんて誰が考えるだろう。

 これは幸せになれずに死んだ者へのサービスか何かか。  

 あの世に行く前に決して夢でないと見れないような夢を見させてくれているのだろうか。

 だとすれば、警戒させないような、このくらいの知識の方がかえって良いのかもしれない。


「あ、修治さん! いたいた! もう、補習なんですから帰っちゃダメですってば!」

「畜生、バレた!」


 おーい、と、帝大校内からその人を呼ぶ男の声がする。「修治さん」と呼ぶから、その人の本名で間違いない。


「余裕ですねぇ。大学生のご卒業見込みがあるんですか?」


 この人は確か、事務員のナントカさん。容姿がずっと変わらない不思議な人だと有名だ。


 穏やかで、いつも笑顔。何を考えているかわからない。

 男性の割に美形で、綺麗な焦茶の長髪が眩しい。女性に縁のない連中の中には、彼を目の保養にしている者までいる。


 そんなナントカさんが「太宰治」を校内に引きずって行く。手荒な真似を。なんたる無礼か。


 「私」も彼の手を引いて、もっと話がしたいと思った。――が、そんな勇気があれば、とっくに雷鳴響く雨空の下を駆け出している。

 「私」は「彼」と違って、雷が恐ろしいのではなく、濡れるのが嫌いなのだ。


「ほ、ら! 天気も補習受けろって言ってますよ! 早く、行き、ますよ!」

「あまくせが増えたな! どこへ行っても監視がいるのは窮屈でしょうがないね!」

「自分が撒いた種でしょうに!」


 しかし、羨ましい光景だ。

 補習から逃げ出そうとする彼の着物の袖を掴み、ああだこうだと言い合う程の仲。見せつける様で妬ましい。「私達」だってそうしたいのに!


 その想いを、決して声には出さぬ様、ゴリゴリと舌を奥歯で噛み続ける。


 ――再び、爆音と共に視界が白くなると、さらに雨が強くなった。本当に天気がそう言っているようだ。


「わかった! わかったよ! 補習は受ける! ただしあまくせに言うなよ。ココに毎日通われたんじゃかなわないんだからな!」

「当たり前ですよ! 僕も好きでこうしている訳では――あ、ごめんなさい! お連れの方がいらっしゃったとは。えーと、名前は」


 すると事務員の人が、申し訳なさそうに眉を八の字にし、手を合わせている。さて、名前を問われたけれど、「どちらの名前」を名乗ったらいいのだろう。


 「僕達」は、悩んだ。


 生前の名前を名乗った方が良いか。学生証の方はペンネームか何か、ということにしておこうかなぁ。


「僕の名前は」


 「僕」が自身の苗字を言いかけた時、ガチンと舌を噛んだ。決して噛む事のない最初の一文字を言わせないように咬まされたようにも感じる。


 口の中に血の独特の味、不快感が広がる。そして「私」は「檀、です」とぎこちなく答える。


「檀さん! 修治さんと仲良くしてくれてるんですねぇ。よかったですね、友達がいて」

「宇賀神、お前馬鹿にしてるだろ……そうだ、お前、檀だ。思い出した。あースッキリスッキリ。そら、帰るんだろう? 気分が良いからコレやるよ」


 名前を名乗ると、憧れの人は趣味の悪いと言った傘を私に手渡してくれた。


「困ってるなら使えよ」

「いいんですか?」

「人助け」


 舌を出して、ピースサイン。ナントカさんと共に校内へ戻る後ろ姿が、とても凛々しい。補習を受ける事ですら、偉業を成し遂げに行くように見える。


 「私」もあんなふうに仲良くなりたい。


 「私」が「檀一雄」として此処で過ごせ、と神が言うのならなりきってやる。そう簡単に自分を変えることは出来ないが、染まるのは得意だ。


 「私」は受け取った傘を開き、趣味の悪い紫色を頭上に広げると、悪天候だというのに、とても晴々とした気持ちになれた。下駄に雨水が当たるのも苦ではない。


 「太宰治」に傘を貰った。という、夢のような事実が嬉しくて堪らないのだ。


 生前の嫌な思い出も、この神経の通り過ぎた夢の中ならばなかった事に出来るかもしれない。

 時代や空間が違うのだ。また愛しいと思える人を探せば良い。

 生前は「娘」が居たから出来なかった事も、今なら出来るのではないだろうか。


 小説家の夢も、生活も全て、上手くやる。

 これは私の再スタート。悔いのない時間を送ろう。


 生前、体に刻んだ人の名を、「私達」は忘れたいのだ。



「誕生日おめでとう。本当にこんなんでいいの?」

「こんなんとか言わないでください! 好きな人から好きな物の形した物貰えるって、すごく嬉しいんですからね。ありがとうございます」

「そう? でも、イカって……イカ? え、本当にいいの?」


 8月10日。今日は僕の誕生日だ。

 中也さんと喫茶店でいつもより豪華なフルーツ付きのアイスクリームを食べている。

 外は生憎の雷雨で天候は最悪、雷が落ちて停電もしているけれど全然平気。


 さて、何をもらったかというと特注のイカの形をしたブローチ。


 花街で知り合った、平成でいうハンドメイド職人に無理を言って作ってもらった。

 女性物のアクセサリーをすることは出来ないけど、この木彫りのイカのブローチなら個性も出るし性別を問わないからいい。


 さっきから何度も眺めながめてはニヤけている。

 アイスクリームがドロドロになるまで眺めて、中也さんと話して、こういうの幸せ以外になんて言うのか教えて頂けますか?

 最近は本当に幸せ過ぎてそろそろバチがあたるような気がしています。

 神様へ。僕はただ幸せなだけなのです。理不尽な災難はご勘弁を。マジ頼むよ。


 夕飯の時間に遅れると行けないから、そろそろ帰ろうと喫茶店を出るとまだ雨は止んでいなかった。


「あー、まだ降ってるね」


 雨空を見上げる中也さん、雨も滴るいい男。爺さんからカメラ借りてくるんだった。


「雷が無いだけマシですよ。誕生日だから晴れて欲しかったけど……そういえば、父さんが死んだ日も雨降ってたかな」

「そっか。要の誕生日はお父さんの命日でもあるんだね」

「複雑だなぁ、誕生日が親の命日って。毎年どうしてたかわかんないですけど、今年は最高でした」

「ならよかった。まだ終わってないけどね。ほら、夜とか」

「ちょっと、何する気ですか」


 いつも通りからかわれると、また笑顔になった。

 また会話を楽しみながら、しゅーさんと色違いのお揃いで買った安物の紺色の傘を広げ、家路を歩く。


 すると、見覚えのある紫色の傘とすれ違い、その傘の主に懐かしい顔を見た気がした。


「あれ……」


 気のせいだと思ったが、気になって振り返るとその傘の主はすでに居ない。

 角を曲がったのか、店に入ったのか、もしくは僕の見間違いか。


「ん? 誰か居た?」

「しゅーさんの傘持ってる人いたから、しゅーさんかなって。でも顔は違かったから、気のせいかも」

「ああ、あの傘か。目立つよね」

「何処にいてもわかるように、わざわざダサい物を選びましたからね! いやあ、あの人センスないなあ」


 安物のダサい傘。

 しかもこの時代には珍しいド派手な紫色。物好きがいれば同じものを持っている人くらいいるかもしれない。


 その傘の持ち主の顔を懐かしく思い、しかも父さんと似ていると思ったのは、父さんの話をしていたからだろう。


 父さんが亡くなってから10年以上が経っても、諦めが悪い僕は、その影をまだ探し求めているんだ。



 揃えた記憶のない家具や雑貨が置かれた部屋が「私達」の家だ。

 小汚いこの家に住もうとも考えた事はないが、体は我が家だと言っている。


 自宅に入ってすぐ目につくのは、茶色くなった水が入ったグラスに挿さる「彼岸花」。この花は、グラスの濁り水を屍になっても吸っている。


 邪魔だと思うのに、捨てる気にはなれない。居間にはもう一つ似たようなものがある。花の名前は知らない。 


 「私」はこの家のあらゆる書物や、文字を読んだ。


 その文字を書いた記憶もないが「私」の名前で書かれた文章。いや「私」が名乗っている、もう一つの名前だ。


 「此家の性格」とある原稿を読んだところ、本当に「私」は「檀一雄」として此処に存在しているようだ。自伝小説と見たが、自身にこの経験はない。もし自らが書いたとすれば、ただのフィクション。


 しかし、意識は違えども体は「檀一雄」か――?


 いや、そうではない。脱衣場で服を脱ぐとそれはすぐわかる。

 死ぬ直後に刻んだ彼女の名前が、深く残っている。これを隠すために包帯を巻き、理由を問われたら何かと理由をつけてあやふやにした。


 ――これは"汚点"なのだ。


 どうしたらこの醜い傷が消えるのか、毎晩考える。


 生前の自分に辞めろと怒鳴ってやりたいが、それも不可能。随分酷い死に方をしたと思う。あの人に憧れていたが、まさか自殺を選ぶとは。

 首を切った後も残ってはいるが、痛みはない。


 起きている事の殆どが理解できない。だけど必死に理解しようとしている。

 理解しようとしながら、自分をやり直そうとしている。


 だから、「この人」だと偽る。


「檀一雄」になりきれば「太宰治」と盟友になれる筈だ。


 これから彼に起きる数々の困難や煩わしい出来事を思い出せ。「僕」は彼のファンだった。

 私の人生と共に、太宰さんが思うままに生きたかった人生を歩ませてあげたい。会えたのはそういう事だ。


 まるで「恋」のようだよ。


 この感覚は2度目だ。貴方の全てになりたい。何かあれば必ず「私」を頼ってくれるようになりたい。


 貴方がくれた傘を眺める。良い柄、色だとは思えないが、貴方がくれたというだけで美味しそうに見えた。


 傘から滴る雨水を吸う。貴方が触っていた傘だから、これはきっと貴方の味。


 続けて傘の持ち手を舐める。貴方の手垢がついていないかしら。

 傘に頬擦りすると、すっかり心が満たされる。「娘」がいたから堂々と出来なかった事。好きな人の事をこんなにも想い、心も体も満たされる事。


 もう我慢しなくて良い。思う存分尽くし、愛したい。


 私はもう「生出尽斗」ではない。太宰治の盟友「檀一雄」なのだから。

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