38恥目 再び、玉川上水

 次の日。僕は豆腐屋と飴屋の仕事を休んで、玉川上水へ向かった。糸魚川の言うことが本当なら、僕もきっと思い出せるはずだと信じたかったからだ。


 爺さんから往復のバス代と昼飯代くらいの金を前借りした。それをボロボロの財布に詰めれば準備完了。

 別に平成に帰りたい訳じゃない。僕は自分の記憶を思い出したいだけ。何度過去のことを聞かれても答えられない。自分が何者だったかを少しずつ忘れていく。それとは裏腹に昭和を生きる自分が思い出を積み重ねて行く。


 それを繰り返していけば、きっと平成の僕が居なくなる。元に戻った時、どうなるのだろう。昭和の僕が記憶から居なくなるのだろうか。それはそれできっと寂しいに決まってる。思い出せる方法がわかれば、この不安もなんてこと無くなるはずだ。


 バスに揺られて3人旅。中也さんは有無を言わずについてきてくれた。糸魚川は爺さんについて行けと言われて嫌々ついてきて、ずっと文句を言っている。玉川上水付近のバス停を降りて、人に道を訪ねながらそこを目指した。

 緑が沢山覆いしげっている、トンネルのような場所だと皆が口を揃えて言った。お気の毒にと表情を曇らせながら。


「あそこは危ないよ、考え直しなさい。きっと生きていたらいい事があるから」


 そしてまた、皆口を揃えて「自殺の名所」だと、小声で言うのだ。そう青い顔で忠告をする人まで居るような場所。なんとまあ、物騒な。普段は飲み水にも使われている、生活に必要な場所でそんな事あっていいのか。死体入り天然水ってか。おえ。想像したら吐きそうだ。

 忠告は受け入れつつ、そんな事はしないとわざとらしく笑って見せた。そして言われた通りの道を暫く歩くと、目的地は見えた。


「お前こんなところから来たのかよ」


 糸魚川が眉間にシワを寄せる。


「……うん、ここだった。何時間も歩いて帝大のある本郷に行ったんだ。でも……」


 平成での最後の記憶――玉川上水。こんなに水の量はなかった。もっと浅く見えて、複雑に入り組んでも、地形はえぐれてもいなかった。確か柵もあったはず。

 しかし昭和の玉川上水は、人が落ちれば飲まれてしまいそうな深い緑色に飛び込むのを躊躇って怖さが勝る。


 恐る恐る、深淵を覗き込むんで見る。


「何か思い出したか?」

「なんも思い出せないな。僕が落ちたのはもっと流れも――」

「ホイ」


 端の上、糸魚川に容赦なく体を押される。あの時と同じ落ち方。叫び声を出す間も無い。想像以上に深い水の中は、僕の輪郭をなぞって体の自由を奪った。音はコポコポと空気の音が耳元で鳴るだけで、他は何も聞こえない。きつく瞑った目をゆっくり開くと、上には太陽の光が差し込んでい。僕の体は深く沈んでいく。


 光は遠くなって、まるで海にいるような感覚だ。嫌いな海に飲まれていくような――僕は結局、何も思い出せないまま沈んでいくんだろうか。泳げない僕は水上に向かおうとしても、逆効果で水に足を掴まれたままだ。


 糸魚川の奴、殺人罪で起訴されたらいいのに。中也さん達は泣いてくれるかなぁ。しゅーさんは、僕なしで大丈夫かなぁ。水の中で死ぬのは嫌だったのに。ああ、酸素が欲しい――けど、助けてなんて僕に言う資格無いよなあ。

 瞼が僕の意思とは関係なく閉じられる。すると水の音しか聞こえなかったはずが、頭の中から誰かの声がする。

 

 脳裏に響く泣きじゃくる声。瞼の裏にうっすら浮かぶ、天然パーマの藍色の髪。黒淵の丸メガネと、黒いタートルネックの七分袖と黒スキニーを履き、いつもフラフラと歩いていろんな場所にぶつかって歩く。


 その人は紙に文章を書いてはくしゃりと丸め、違うと泣いていた。


「死にたいなぁ、死にたいなぁ」


 死に縋りながら、生きる意味を探しているような人だった――誰だっけ、この人は、ああ、そうだ、僕のお父さんだ。死ぬ間際に思い出すのは僕が幼い頃に死んだ父親だ。


「父さんは要が嫌いになったわけじゃないよ」

「ただ愛して欲しかっただけなんだ」

「おかしいねぇ、要が大事なのに、死んじゃいたいよぉ」


 いつも寒そうだった。夏でも凍えていた。僕を抱きしめるのに、謝りながら違う誰かの名前を言うんだ。突然、頭に雷が落ちたように「父さん」について思い出す。そして同時に、何故僕の対象者が「太宰治」であるかも理解することが出来た。


 糸魚川の言うことは本当だったんだ。僕はやっぱり海が大嫌いだな。

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