30恥目 今を生きている、僕らだから

「はいよ、お釣り」


 ノートを書いた大学生の掌に釣銭をポンと渡す。夕方になって「どうも」と言って去って行く学生の姿を見送ると、店仕舞いの時間だと吉次が商品の片付けを始める。


 いつもはガラスのついた木の戸を外して営業している。この戸はかなり重い。吉次は過去に2回、戸のガラスを割って、ベソをかいていたくせに今はぴったり一人で戸を溝にはめて店を閉められるようになっていた。


 何も成長したのは吉次だけじゃない。僕だって成長したんだ。最初は戸惑っていたお金の計算や紙幣の種類、慣れればどうってことはない。釣銭も間違えずに出せるようになった。指先に唾液をちょんとつけて、金をめくる。店の売り上げの計算もチョチョイのちょいだ。


 お互いの成長は確実。これも昭和での生き方を教えてくれた先生のおかげだと、今日の売り上げ額を見て軽くハイタッチ。

 今月の給料も確実に貰えるんだ、喜ばないわけがない。


 売り切れたノートや鉛筆、他の雑貨を棚に補充していると、閉めたばかりのガラス戸をノックする音がした。不揃いのガラスが膜を貼るように鳴く。「もう終わりなんです」と吉次が言いかけた。


「要は売り切れかな?」と、からかう声が僕を呼ぶ。


 畳の上で胡座をかいていたのを急に座り直し、金を数えるために舐めた指は吉次の湯飲みにつっこんで濯いだ。吉次が飴屋の客ではないと気づくと戸を1枚だけ取って、その日を店の中に招き入れた。


「ありがとう」

「朝は突然連絡してしまってごめんなさい。先生も、もうじきくる頃です。今お茶を出しますから!」

「悪いね。店を閉めてるところ」


 吉次はお茶を淹れるためにバタバタと店の奥へ引っ込んで行き、姿が見えなくなる。おい、吉次。今君が居なくなったら、この天使の顔をした悪魔が悪戯に僕をからかってしまうんだよ。

 こっちは普通を保つ事も出来ないのに。この人は余裕な顔に色気を出して、髪をハープの弦を撫でるように触るのさ。


「昨日ぶりだね」


 わざと左耳に指先だけ触れて、私の反応を伺っている。くすぐったいが、務めて冷静な顔を演じた。


「まだ顔が熱いようだけど」


 何かを探すように、指先を耳から頬に滑らせて、くすぐる。あと何回死にそうって言えば助かりますかね。本当に助けてくれ!


「昨晩はかなり冷えたね。よく眠れたかい?」

「いえ、昨日は歩いてましたから。か、体は平気です」


 昨日の朝までは、慣れたからちゃんと目を見て話せていたんだ。でもまたリセットされて、気持ちが更新されて、好きの上書き保存が止まらない。


「どうして?」

「まあ、いろいろ野暮用で……」


 しゅーさんの顔が過ったのに、イライラする余裕がない。


「隠し事はよくないなぁ。もしかして、コレ?」


 中也さんが親指をそっと立てる。意味は確か、小指が「彼女」だから、ええっと。


「あのね。僕は、男ですから、ね? 女性扱いするのはやめてください」


 完全に理解した。キッパリ、迷惑だと言ったほうがよいのだろう。が、少しでも、中也さんに嫌われたくない「乙女心」というのが邪魔をする。だから中也さんの指を両手で折るように隠した。

 あくまで男。僕は男。女性なんて一言も言っちゃいないのに、何故この人はこうも女性扱いしてくるんだ。


「そうだったね」


 お湯を沸かす音が奥から聞こえる。まだ沸かないのか、まだか、まだか。吉次に早く来てもらわないと、この誘惑に乗せられてしまうかもしれない。女である事を知ってほしくて、下手な事をするんじゃないかと自分が信用出来ないでいる。

 これが「恋」というのなら現を抜かしている場合ではないんだ!


 僕にはやらなきゃいけない事がある。平成に帰りたいからではない。僕を必要だと言ってくれる人がいるから、やるんだ。

 中也さんが伏し目がちに手をそっと降す――かと思うと、右腕をぐいと引かれて前に馬乗りになるように倒れてしまう。


「な、なにすんですか!」

「隠しきれてないんだよ、神童の前ではね。なあ。か、な、め」


 耳元で吉次には聞こえないようにそっと名前まで囁いて、言葉にはせずとも「女なんだろう」と諭してくる。


 何も言えない。だって、何を言ってもきっとそれ以上で返される。この人には勝てないんだ。駆け引きとか必要なしに、正々堂々真っ向から向かってくる。僕は逃げるか誤魔化すかしか出来ない。悔しさに下唇をぐっと噛むと、少し血の味がする。


「お待たせしました! 寒いからかお湯がなかなか沸かなくて……何してるんですか?」


 部屋の境目にあるのれんをくぐり、吉次が店の中へ入ってくると、中也さんは突然、体勢をぐるんと変えた。僕の腕に両足を絡めて、肘関に技をかけてくるから意味不明。肩が伸びて思わず「いててて」と悲鳴をあげた。さっきまでの時間が嘘のようだ。


「要の肩凝りが酷いって言うからね。伸ばしてやろうかなって」

「確かに寒いから肩がに力が入っちゃいますもんね」


 吉次は妙に納得して、僕も肩が、なんて呑気に話し始めた。僕は伸びた肩の筋肉をさすり起き上がると、笑顔で話す中也さんを見た。


 ……本当に女だと思ってんのかよ。



 東京大学、その時代は帝国大学と言われた校門前。今日はあの「中原中也」と会う日なので、雪の積もる道を小走りで踏み鳴らした。


「宇賀神」


 するとすぐに苗字で呼ばれたので、ハイと返事を返す。


「あら。修治さん」


 振り返るとのちの太宰治こと、津島修治さんが立っていた。なるほど。要さんを迎えに来たのなら、そうはさせない。普段来ない大学に来て僕を頼るときは、大体ロクでもないんですから。今日はうまく誤魔化して帰ってもらいましょう。

 そう考えていると、すぐに「要が来てるだろう」と、今回は真剣な顔で原稿用紙の束を体へ押しつけて「渡してくれ」とだけ言った。


 周りに他に人がいるわけでもなく。本当に一人で来て、用件だけ伝えて背を向ける。今日はまるで別人のようで気味が悪い。狐か狸が化けているんじゃないかと疑ってしまうくらいです。


「何も聞かないんですか!」


 受け取っただけでいいのに。僕は様子がおかしいのはいつものことだと分かりながら、今回は何も言わないのかと不思議で引き止めてしまった。

 けれど彼は理由は教えてくれません。いつも都合が悪い事だとつらつら言い訳を述べるのに、それがない。


「弟なら、わかってくれると信じている」


 こちらも向かずに、修治さんはそれだけ言って立ち去ってしまった。後ろ姿に寂しさを感じて、もらった原稿用紙の1枚目をめくると「思ひ出」と書かれたタイトルに文章がつらつらと書かれている。


 何枚かまた巡り、1番最後の原稿用紙を見ると――。


「確かに。要さんならわかりますね」


 修治さんは昨日の事を悪いと思っているのだ。これを読めば、要さんは明日には帰るでしょう。いえ、読んですぐに飛び出していくかもしれません。


 どちらも、「そういう人」ですから。


 しかし僕は人の恋愛が大好きなので、今日帰られては困ります。丁寧に原稿用紙を手提げにしまい、飴屋へと向かった。


 まだ要さんと中也さんの絡みを見ていないんです。そう簡単には帰しません。史実にはない、僕らと彼らが生きる「今」を楽しみたいのです。

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