29恥目 先生と吉次

 昼下がり、冬の柔らかな日差しが部屋に差す。光の中でほわほわと煌く埃はムードがある。光を浴びるアマランサスの赤い花に、コップ一杯の水をちょろちょろと浴びせる。

 

 手慣れたものだ。無駄な葉を握り、屑籠に捨てる。細かい葉を弄る手は大きく、指は太い。その手の持ち主は、おかっぱは相変わらず、だが弱々しい雰囲気はなくなって少年より「青年」になっていた。


 ――吉次は背が高くなり、男らしい背中と喉仏の持ち主となっていたのだ。


「吉次、大きくなったね」

「もう17歳になりますから」

「声変わりしたんだ。僕ももうちょい声が低かったらな」

「女性なんですから、僕みたいにはなりませんよ。要さんの声は十分低い思いますけど……って、足を開き過ぎです」


 足を伸ばして、そして大きく開いて座る僕とは真逆。開いた足を手でパタンと閉じられると「修治さんにそっくり」と一言。今は名前を聞くだけでカチンと来るが、吉次に非なんてないので何も言わなかった。


 相変わらず素直すぎるところがあるが、他の人に気配りが出来る礼儀正しい好青年に成長している。今は高校に通っているというから、ピシッとした学生服なんか来たらモテるんじゃないだろうか。

 脱げば筋肉もついているし、何より手の血管の浮き出かたが好きそうな人は好きな形な気がする。僕の手は青紫のあざと切り傷のオンパレード。モテるわけがございません。


「要さんの足、かなり筋肉ついてますね」

「今君に同じような事を思ってたよ」


 ふくらはぎを揉んでくれる手がいい具合に力を入れてくる。歩き疲れた足に効くんだ、これが。


「僕はそんな。努力した足と比べちゃいけません。昨日も五反田から歩いて来たって聞いたので驚きました。要さんなら、日本縦断出来ちゃうんじゃないですか」


 期待の眼差しで僕を見る。純粋なお目目だ。


「本当に出来る気がする。なあ吉次、今度小田原まで歩こうぜ。若いから行けるだろ?」

「何言ってるんですか、要さんにしか出来ませんよ」


 吉次に冗談が通じない。堅物はモテないぞ。「嘘だよ」と言って立ち上がり、壁に掛かった吉次のお下がりの羽織りを手を通した。このお下がりは財布にはとっても有難かった。

 あのクソ野郎の借金のせいで、自分のものなんてあまり買えないんだから。


 脳内で文句を垂らす。吉次は玄関の扉を閉めると、ギギギと古い音を出すドアノブに施錠をし、アパートの階段を降りた。こっちの階段もぐらぐらと揺れて信用できない。だから心配になって、鍵は何度も確認した。

 吉次は確認回数の多さに苦笑いして、「大家さんに声掛けるから平気です」と下の階を指差した。


  なるほど。オートロックなんて勿論ない時代、周りの目がもう一つの施錠のようだ。宣言通り「出かけますね」と、大家らしい人に声をかけて家を後にする。「はいよ」と部屋の向こうから返事がしてからアパートの敷地から出た。


「今日は暇かなあ」


 アルバイト先の飴屋に向かう途中は、仕事の話をしながら歩く。吉次はすっかりバイト仲間だ。


「毎日要さんを目当てにくる学生だらけです。最近は女性のファンも増えましたね。あ、手紙預かってますよ。お店で渡しますね」

「どれもこれもファンレターじゃなくて手伝いのお申出ばっかだけどな」

「そうなんですか? てっきり、ラブレターかと」

「んなわけねぇだろ」


 バイト仲間の期待を裏切る内容に、2人は笑う。氷を混ぜた砂がしゃりしゃりと音を立てると、下駄は不安定に地面を蹴った。

 今日は店にどちらも立つ事になっていた。普段はどちらか1人。爺さんが友人と酒を飲みに行く予定があると、僕ら2人店を任されるのだ。飴屋とは言うが、文房具、雑貨屋いやコンビニみたいな店で、そのくせにぶっちゃけ飴は一つも売っていない。

  何気ない話をしながら道を歩くと、話題は先生へと変わる。悪口とかそんな事ではなく、本当にたわいもない話だ。


  そういえば、あのクソ野郎が「先生と吉次の関係が知りたい」なんて言っていたことを思い出してしまった。別にアイツのためじゃないけど、僕と気になる。なので 「そういえば、吉次と先生ってどんな関係なの?」と尋ねた。


「あれ、お話してませんでしたっけ。僕、先生の養子なんですよ」

「養子!? 先生の子ってこと?」

「はい! だから僕の名字も宇賀神です」


 意外や意外。まさか親子だったなんて。師弟関係とかそんなんだと思っていたが、それを上回ってくる関係性。号外だって言ってビラをそこらに巻きたい気分である。吉次は真っ直ぐ前を向いたまま続けた。


「僕の両親、鉱毒被害で亡くなってるんですよ。孤児だったのを拾ってもらったんです」



 日本近代史上最大の公害事件、それが足尾銅山鉱毒事件。 発見されたのは江戸時代。そこは幕府直轄の銅山として栄えたのが始まりだった。


 幕末からは暫く何もなく、また栄え始めたのが明治になってからのこと。「古河工業」という民間企業が足尾銅山を運営していたと先生からは聞いた。

 そこでは鉱山を取ることから、金属を加工してそのために必要な薬品や鉱山を山ほど使っていた、と。

 その時にガスや金属の良くない物がたくさん出ていた。その有害物質がそのまま放り出されて、近隣の川やら空気やらを汚染していった。その証拠に、稲は枯れ、山は木々を失い、それが原因で水害が起き、人々を不安に包んでいったという。


  ――と、僕がきちんと物事がわかる様になってから、先生が教えてくれました。僕は当時幼かったけれど、お母さんが似たような事を言っていたから、なんとなくわかっていた。


「吉次、川の魚を食べてはいけねぇべよ。お国から言われてんべぇことだべからね」


 川の水は飲むな、川の魚は食べるな。毎日最低3回、お母さんに口酸っぱく言われていた。父さんは足尾銅山の鉱夫だと聞いた。鉱夫になってすぐに僕がお腹に出来ると鉱毒にかかってしまい、僕が生まれてすぐに死んだと聞いた。

 だからお母さんは、鉱毒にならないようにと僕のために遠くの街に行って食べ物を買ってきては食べさせてくれていました。

 今思えば引っ越せばよかったのに、とも考えたけど、そんなお金はなかったに違いない。そんな事もわからないくらい、僕は子供で幼くて非力だったのです。


 鉱毒にかからないように皆生きている。だから、てっきりお母さんも同じものを食べているのだと思っていたけど、違ったんです。


 それは暑い夏の日、僕が5歳になる年だった。朝になり、お母さんが起きる時間になっても。眠ったままで起きて来てくれない。 

 おかしいと思った僕は、お母さんに声をかけました。何度も、何度も。揺さぶれば、体は冷たくて、皮膚は硬くなっていた。抜け殻のように、お母さんがまるで人形みたいに布団に置かれていた。


 恐怖から外へ助けを求めたけれど、当時、自分達の生活でいっぱいだった村の人達は幼い僕を無視をして「またか」と諦めた顔しかしてくれませんでした。当たり前です。人を助ければ、自分たちの命が脅かされるんですから。


 村中を駆け回っていたその時、たまたま調査で村を通った先生を見つけて「あの人なら助けてくれるかもしれない!」と声をかけたのが出会いの始まり。周りの村人の方とは違って、すぐに僕を抱いて家に走ってくれた。


 布団のお母さんを見るなり、触れないでも何かを悟ったのか手を合わせていた。


「君のお母さんは、君だけでも救いたかったんだね」


 昨日、お母さんが隣町から買って来たサツマイモを触り、僕に持たせると「お母さんにあげようね」とそばへ置くように促した。

 お母さんは僕に鉱毒被害のない食べ物を食べさせて、お金の余裕がなかったから、自分は川の魚や野菜を食べていたんだ。だから毒が体に積もりつもって、死んでしまった。


 母さんがもう動かないとわかってから、僕の世界は変わって行きました。古在さんや先生の仲間が来て、お母さんを埋蔵してくれて。もう会えないんだと思うと涙が出たけれど、これから1人なんだと思うと、もっともっと不安で涙が出た。


「拓実。この子をどうする。村人に話して来たが、誰も引き取ろうとはしないぞ」

「ええ、皆さん自分達の生活もままならないでしょうから。この子は、僕が先生にして頂いたようにします。面倒はかけませんので、保護者になる許可だけ頂けますか」


 やんわりだけど、古在さんと先生がそんな話をしていたような記憶がある。死の意味すらあやふやな僕が1人で生きていくにはこの場所は酷すぎると、先生が会ったばかりの僕を引き取り、養子にしてくれた。


 家族を失ってすぐに出来た家族は、若くて、そこらへんの人とは空気が違くて――とても土臭かった。隣町まで歩いて帰って来た、母さんのような匂いがする人だった。



 吉次が過去の話をしてくれると、飴屋の目の前まで来ていた。


「お父さんって感じじゃないんですよね。先生は先生の真似をしたから、呼び方は“先生“なんです」


 くすりと笑う姿は“父親“そっくりじゃないか。どうりで吉次は吉次になる訳だと納得した。悲しみの先に世界が変わってしまう事があっても、悪いことばかりではない。

 吉次は強くたくましく、優しく生きている。血の通わない2人が親子になれるのだ。


 2人の絆が羨ましいと、しゅーさんを頭に浮かべた。文治さんや他の兄弟より兄弟になりたいと、声に出して伝えたかった。


「吉次と先生の事、しゅーさんに話してもいい? 2人の事を気にしてたんだ」

「いいですけど、喧嘩中なんじゃないんですか?」

「あ」


 やっぱ、やーめた。

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