28恥目 今度こそ本当に知らない!

 その晩のこと。僕は中也さんからもらった原稿用紙をそっとリュックの中へ閉まった。汚れないように旅行用の防水ポーチにいれて、押し入れの奥深くへつっこんだ。


 しゅーさんが見たらまた気を悪くするだろう。人の持ち物でカッカして、なんなんだ。破られなかったのが唯一の救いだ。

 ふて腐れて寝転ぶ背中を人差し指で突いた。しかし、すぐに手で振り払われる。突く。振り払われる。突く。振り払われる。何度も繰り返す。


「何に怒ってるんだよ」


 やりとりに飽きた頃に聞いたが、返事はなかった。わざとらしい溜息が聞こえるだけ。しかし、触れる事や問いかけを止めると、カリカリと畳の目を掻く音がする。さっきからそればかり。同じ事の繰り返しだ。


「自分が帰って来るのに、家に要ちゃんが居なくてふて腐れてんのよ」


 初代さんが「男のくせに小さい」と嘆いて布団の準備をし始めた。今日2人が帰ってくることを知らなかった。知らされていなかったし、その気配すら無かったのだから、その言い分は理不尽だと思った。


「ごめん。謝るよ。でも連絡くらいくれたっていいじゃんか……僕だって少しは友達と遊びたいよ」

「それが今日か!」


 体を起こしたかと思えば、またプッツン。柄にもなく大声を出すのだ。いっもナヨナヨして、大事な時はべそをかいているくせに。僕も兄に負けないよう吠える。


「だからわかんなかったんだってば! 今日帰るって言われてたら居たよ! 僕は超能力者じゃないんだよ!」

「それで、のこのこ帰ってきて、どこの馬の骨かもしれないやつの原稿用紙持って帰ってくるのか!」

「なんで? 僕はしゅーさん以外の人の文章は読んじゃいけないの!?」

「久々に顔を合わせるのに原稿用紙持ってるのが気に食わないんだよ!」


  信じられない。どこまでクソ野郎なんだ。たまに出かけたくらいで、ちょっと浮かれたくらいで、こんなに怒鳴られるなんて。お前が帰ってくるまでの数ヶ月間、あっちこっちにどんだけ頭を下げたと思ってるんだ。

 今までだって、あんなに尽くしてきたのに。恩着せがましいかもしないけど、尽くしてきた。

 

 たった数時間、たった1人の人と居ただけでこんな言われよう。今まではちっとも感じなかった「限界」とやらが突然、頭の血管をブチブチと音を立てて切れた気がした。いいやこれは切れたね。

 何か言い返してやろうかと思ったが、言う気もう失せた。だって切れたからね。これに関しては繋ぐ必要もないと思う。

 だから何も言わずに裸足のまま下駄を履き、家を飛び出した。この極寒の中、何も羽織らずにね。


「要ちゃん!」


 後ろから初代さんが追って来ていた。何も話したくない。だから振り向くのも嫌だったが、「待って」と何度も聞こえたので、一度だけ立ち止まる。そして彼女は僕に叫んだ。


「私は、要ちゃんは悪くないと思う! ああいう人なの、許してやって」


  距離にして20メートルくらいだろうか。雪の降り積もる冬の夜に、亭主を想う妻の言葉は消える。


「知ってるよ……少し1人にさせて」


 初代さんには悪いと思った。これからは夫婦で暮らせばいいとも思った。好き勝手やってくれたらいい。借金でもなんでも、もう尻拭いも心配もしてやらない。


 勝手にしろ、馬鹿! 何が一からやり直すだ。本当にそのまんま帰って来やがった。なんも変わってない。あの時は共産党の奴らにビビって小さくなってただけじゃないか。

 半年前、あの馬鹿が言ったことを思い出すだけでムカついた。浮かれたり、イラついたり。ほとほと疲れる。裸足に下駄、足の感覚は寒さでなくなっていた。だけど顔は熱を持っている。怒りがなかなか収まらないのだ。


 これから何処へ行こうかと考えることもなく、足は自然と方角を決めている。いつもは五反田から自転車を漕いで行く、文京区へと向かっていたのだった。


 また夜は深まる。時計が無いからわからないが、きっともう2時や3時に違いない。久々に先生と吉次が住むアパートを訪ねた。コンコン、と、戸を軽くノックする。

 夜分遅くに迷惑だと分かっていたが、叩くのをやめられなかった。


「先生、先生」

「……要さん?」


 ようやっと戸の向こうで先生の声がする。戸が開くと、暖かい空気が体に染みた。ピリピリと静電気のように肌が痛い。


「こんな時間にどうしたんですか! 足も真っ赤になって! さあ、入ってください」

「ありがとうございます……」


 先生は嫌な顔をせず、家の中へ入れてくれた。吉次はおらず、今日は飴屋に泊まっているという。昭和へ落ちて来たばかりの頃に住んでいた部屋は、大きく変わっていなかった。

 唯一布団だけが変わっている。ぺなぺなだった煎餅布団が新しくなって、フカフカのちょっといい布団になっていた。


 もしかすると、先生の給料が上がったのかもしれない。勝手に布団に横たわると、先生が湯飲みをちゃぶ台に静かに置いてくれた。「どうも」と一言、出された温かい白湯で体を温めた。


 僕はこんな時間に訪問したこたを詫びた後、何故こうなったかの経緯を話した。相槌を打ちながら聞いてくれる先生といると、キツく縛った紐が簡単に緩まるように安心する。それもこれも、先生が僕が女性だと知っているからというのも、あるだろう。


 先生はあまり驚きもせず「はあ、修治さんと喧嘩したんですか。言ってやったって感じですね」と、あっけらかんとしている。予想外に、食いついて来たのは喧嘩をして家を飛び出して来たことではなく、別のことだった。


「まさか中原中也に恋をするとは……これは仕組まれてるんですかね」

「仕組まれてる?」


 僕は首を傾げた。


「中原中也と太宰治って不仲で有名ですからね。まだ顔を合わせていないところをみると、これからでしょう……あの、要さん」


 中也さんとしゅーさんが不仲。伝えられる史実だとそうなのか、と妙に負に落ちた。だって会ったこともないのにあんなに毛嫌いして、前世からの因縁があるとしか思えない。会わせたらどうなってしまうのか考えると、きっとそうしない方がいい。語り継がれる不仲って、よっぽど仲が悪いと思うんですよ。


 先生は何がおかしいのか、ニヤニヤと怪しく笑ってた。


「とっても面白いので、そのまま喧嘩して頂いていいですか? 僕的にはそのまま中原中也側についてくれた方が展開的に激アツです」


 この人は何を言っているんでしょうか? 展開? 激アツ? 先生は楽しそうだ。


「面白がってません?」

「まあまあ、このまま帰ってもいい方に向きませんから。少し“生出要“を楽しみましょうよ。今回も必要な喧嘩かもしれませんよ?」


 僕より長く昭和にいる先生が言うのだから、少し言うことを聞いてみようか。「津島さんの弟の生出要」は一旦おやすみして、「ただの生出要」として昭和を楽しむ。悪くないかもしれない。


 "――心底ムカつくんだよ!“


 身勝手に怒鳴ったクソ野郎の顔を思い出す。こっちがムカつくわ。ひょろひょろ野郎。


 先生へ今日のお礼に何かしたいと言うと、中也さんに会いたいと言われた。明日、都合がつけば先生に中也さんを紹介する約束をして、床に着く。

 喧嘩して苛立っていたのは何処へやら。また明日、中也さんに会えるかもしれないと思うと体がむず痒くて、ニヤケを抑えることが出来なくなった。

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