17恥目 火に油、傷に愛

「……」


 初代さんが来てから数日。会話は特にない。初代さんは僕に声をかけるか、しゅーさんは目で僕に助けを訴えるか。どちらかである。そんなしゅーさんは、手洗い一つ行くにも初代さんの顔色を伺っていた。


 立ち上がって1度、襖を開けて1度、部屋を出て1度。とにかく不自然で、気の小さいビビりだと笑われてしまうような様。歩くのだって、のそのそと足音を立てないように酷く気を遣っていた。


 一方、初代さんは常に不機嫌そうな顔。無理もない。眉間にシワは寄ってるが、あくまで「気にしてません」の素振りを貫く。慣れていないのか、裁縫道具に悪戦苦闘したりして手元を睨んでは、時々しゅーさんの方もギロリと睨む。


 裁ち鋏を持っている時の表示が1番怖い。目を見開いて、サクサクと空中を切りながら、わざとしゅーさんに刃先を向けるのだから。そして今日。初代さんは僕に初めて、しゅーさんの事で声をかけた。


「要ちゃん。私達ね、別にこれが初めての暮らしじゃないのよ」

「あっ……そ、そうなんで……すかね……」


 恐怖。圧。僕もあまりに声が出ない。


「誰かさんがね、東京に来いって言うから来たのよ。だからちょっと前に少し同棲していたの。そしたらね、どっかの誰かさんが、何だかわからない活動をし始めたもんだから、私は誰かさんのお兄さんにお国に連れて帰されたの」


 僕が丁度しゅーさんを探し回っていた頃の話だろうか。中原さん達がシンパ活動を教えてくれたのが確か11月の初めだから、まあ最近と言ってもいいくらい。


 初代さんはそれから溜息をついて、裁ち鋏をそっと置いて1度は黙った。しかしその沈黙は気持ち落ち着けるための時間ではなく、怒りをグツグツと煮込むだけの恐るべき静寂だった。


 ガシャン!


 何かが割れる、この大きな音はガラスが割れる音。初代さんは近くあった何かを窓の方へと勢いよく投げつけたのだ。


「あ――!!」


 声にならない、喉がぶちんと切れてしまいそうな金切り声。これぞヒステリック。原因はわかれども、こんなキレ方は非常に不味い。


「初代さん!」


 こうなったら手はつけられない。引越したての部屋にある数少ない物達が、暴れ回る初代さんから窓の外へと投げつけられていく。僕は飛びかかって両腕を押さえつけようとするが、怒りというのははかり知れぬ力を生み出すらしい。

 怒りの元凶、しゅーさんは止めるどころかその様子に怯え、子犬のようにぷるぷると震えて耳を塞いでいるだけだ。


 お前!ちょっとは手伝えよ!


「ちょっと離れた隙に知らない女と心中って! 信じられない! 謝ってもくれない! 何も! 言ってくれない! ああ!」

「初代さんごめんなさい! 僕も悪いんです! 近所に迷惑かかるから、落ち着いて!」


 宥めよう物なら火に油。我を忘れたのか、着物は乱れ、今度は僕に殴りかかってきた。え!? 僕ですか!? そして吐き出すしゅーさんに対する罵詈雑言、津島家への不満、心中相手のシメ子さん、そして僕に対する罵倒。


「そもそもアンタがいるなんて聞いてなかったぁ!」


 僕に馬乗りになり、平手打ちは往復し、次第にパーはグーになる。


「ハツコ!」


 しゅーさんは初めて初代さんに声をかけ、止めはじめた。さあ、なんて言ってたか。やっとこれまでの悪行や失敗を謝っていたのだろうか。いや、さらに燃料を投下して初代さんを怒らせたのだろうか。


 次第に殴られた顔は熱を持ち、話す間も無く意識は遠のいた。 パキッ。全ての意識が無くなる前に、確かに聞いた音。


「あっ」


 初代さんは殴っていた手で自らの口を覆い、ハッと我に返ったのだろう。


「あまくせ! あまくせ!」


 ぱたり。鈍く痛み左頬、何かがコロンコロンと口の中で遊んでいる。確認することも出来ぬまま、それを飲み込んでしまった。やがて、僕を呼ぶ声は聞こえなくなった。



「か、要さん……」


 頬に当てられたヒンヤリとした布。目を覚ますとぼうっと揺らぐ視界は確かに五反田の住まいの天井。キラキラと宙を舞う細かい埃。僕を呼ぶ声。その声の持ち主は初代さんでもしゅーさんでもない。


「め、目が覚めましたか?」


 吉次だ。なぜか五反田に吉次が来ていた。正座をして、僕が寝ている布団の横でいくつもの布を濡らして不安げに見つめている。


「要ちゃん!」


 目が覚めてすぐ、初代さんが勢い良く上半身に泣きついてきた。


「いでででで!」

「ごめんなさい! 私べつにこんな風にするつもりじゃなくて……」


 骨のどこかが折れているのだろうか。初代さんの体重がかかると体が悲鳴をあげる。彼女はお構いなしに先程の行動について詫び続けた。


「は、初代さん。要さんが痛がってます。それに歯も折れてますから、歯医者へ行かないと」


 吉次が声をかけると、また申し訳なさそうに声を漏らした。どうやら僕は殴られ続けて気を失い、慌てたしゅーさんが先生の勤務先へ電話して吉次を呼んだようだった。自分が僕を看病するという選択肢はなかったのか。期待しても無駄なのは分かっているが。

 初代さんは心底反省しているようで、怒りは忘れてしまったのか涙ぐんでいる。


 僕はゆっくり起き上がり、あちこち痛む体が倒れないようにグッと力を入れた。顔は歪んだが、ここはしっかり津島修治の弟として、伝えなければならないことは伝えようと決心したからだ。


「初代さんが怒るのは無理ないと思います。あれだけのことをされたのに、しゅーさんは謝罪1つしないんだから。それは、謝罪を促さなかった僕にも責任はあります」


 布団から出来るだけ素早く出て、すぐ。


「本当にごめんなさい」


 昭和に来て何度目かの土下座。初代さんに頭をさげた。お目付役を任された以上、僕はしゅーさんを正す義務がある。それなのに初代さんを腫れ物扱いし触れないように来たのは僕の怠慢でもある。


「……要ちゃんに謝られたって」


 初代さんは背を向けた。


「しゅーさんから直接謝るのが筋だと思います。だけどこの人は素直に謝りに行くような人じゃない。弟、家族である以上、兄の過ちに頭を下げるのは当たり前です。本当にすみま――」

「悪かった」


 僕の言葉が空気中に漂う前に、しゅーさんは一言、しかし強く、大きく、確かに言った。


「全部、謝る」


 彼は胡座をかいたまま、頭を軽くさげた。確かに言った、言ったのだ。謝罪の言葉を。鎌倉ではあれほど渋っていた事を、逃げていたことを僕からのしつこい催促なしで言ったのだ。


 初代さんは涙をボロボロ流していた。結婚を約束し、愛した人が知らない女性と命を経とうとするのは裏切りだ。初代さんだってきっと、完全に許せないわけではないのだ。

 僕にはわからない複雑で繊細な糸のような感情が、許してもしまえるし、怒りを沸かす事が出来てしまう。


 しゅーさんはそっと初代さんに寄り添って、指先で肩を撫で、赦しを乞う。夫婦になったばかりの2人が直面するにはあまりに大きな壁だと思う。それはしゅーさん自らが撒いた種であって、今後僕も同じく罪を償っていかなければならない。


 しゅーさんの悪い事は僕と半分こ。しゅーさんの良い事は僕と彼と一個ずつ。初代さんとしゅーさんが誰にも邪魔されず、きちんと愛しあえる環境を作っていこう。


 それが初代さんがきっと1番に望む事。愛で傷ついた傷を癒すには、愛でしか治せないのだ。



 初代さんが暴れ回って数週間。僕は歯の治療を済ませ、体の具合を見ながら更にバイトを増やした。左の頬に紫色のアザが出来たので、ガーゼを貼って隠すと、益々男の子に見られるようになった。


 朝は豆腐屋。時々新聞配達。昼は飴屋、時々建築作業員。夜は飲み屋の手伝いや、金に余裕のある酔っ払いの荷物持ちなんかをして金を稼いだ。


 当然、五反田の家に帰ることは少なくなってくる。新婚である2人の邪魔をしてはいけないということ、2人の暮らしを支えるための生活費を稼ぎ、青森の文治さん達に迷惑をかけないために働いた。


 同時にしゅーさんが貯めたシメ子さんへのツケの返済にも精を出し、少しでも田部さんが何かに使えればと稼ぐ。時々、飴屋にしゅーさんが顔を出しているようだったが会うことはなかった。最近は大人しくしているようだから、きっと当分はほっといても平気だ。


 初代さんと仲良く夫婦をやっている。これでもかというくらいたんまり稼ぐのだ。幸せは金がなければ、作り上げることは出来ないのだから。


 今、弟は家にいない方が良いのだ。


「さあ、次の仕事だ」


 夜が明ける少し前。左頬に貼り付けたガーゼを取り替えて、随分と歩き慣れた舗装の雑な道を行く。

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