第85話 妹は家事ができない

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……ふう……」


 春太は最後のスパートをかけてから――


 家の前でゆっくりと足を止め、息を整えた。

 首にかけていたタオルで顔の汗をぬぐい、軽いストレッチで身体をほぐしつつクールダウンする。


 一月の寒い時期でも、長距離ジョギングのあとは汗が止まらない。

 春太は呼吸が落ち着き、汗が止まるのを待ってから家の中に入った。


「ただいま……あー、喉渇いたな」


 まず、水分を求めてキッチンに入ると――


「あ、おかえり。はい、飲み物どうぞ」

「ホットコーヒー!?」


 ぬうっと差し出されたのは、湯気を立てるコーヒーカップだった。


 ジョギングの直後にホットコーヒー。

 これほど効果的なイヤガラセがこの世にあるだろうか?


「冗談だよ、コーヒーはあたしの。はい、こっち」

「……どうも」


 春太はペットボトルのスポーツドリンクを受け取り、一気に半分ほど飲み干す。

 月夜見つくよみ晶穂あきほは呆れたような顔で、春太の飲みっぷりを眺めている。


「はぁー……美味ぇー……」


 冷たいスポドリが全身に染み渡るようだ。


「しっかし、朝っぱらから10キロも走るなんて信じらんないね」

「10キロっつっても、50分くらいかけてるからな。超ゆっくりペースだよ」


 普通に走れば10分くらいは短縮できそうだが、無理はしないつもりだ。


 春太は正月明けから、この早朝ジョギングを始めている。

 晶穂は、春太の突然の行動について深くは問いただしてこなかった。

 春太も、別に説明する必要はないと思っている。


「つーか、晶穂もマラソン速いんだろ。一緒に走るか?」

「どこの世界に早朝ジョギングするロッカーがいるんだよ」

「いるだろ! おまえ、偏見エグい!」


 ロック女である晶穂自身が、誰よりもロッカーに偏見が強い。


 とはいえ、晶穂の持久力が高いのは事実だ。

 春太と同じく、特に運動はしていないのに運動神経は抜群に良い。


 春のスポーツテストでは学年一位だったらしい。


「ハル、とりあえず、シャワーしてきたら? 真冬なのに、そんだけ汗かくほど走るなんてね」

「そうするよ」


 春太はキッチンを出て、さっとシャワーを浴びた。

 Tシャツとショートパンツという格好に着替えて、リビングに入る。


 すると――


「ふぇー……お兄ちゃん、おはやうごじゃいまふぅ……」

「おはよう。眠そうだな、雪季ふゆ


 春太は、苦笑してしまう。

 リビングのソファには、妹の冬野雪季が現れていた。


 雪季は、リビングのソファにちょこんと座って。

 身体を左右にぐわんぐわんとスイングさせている。


「今日もお疲れさまでしたぁ……」

「まだ朝だけどな」


 雪季は、寝ぼけていて頭が回っていないようだ。

 身体が揺れているのも、眠くてフラフラしているせいらしい。


 モコモコのパジャマに太もももあらわなショートパンツ、厚手の靴下という格好だ。

 まだ着替える気力もないようだ。


 長い茶色の髪も無造作に後ろで結んだだけだ。

 いや、生え際に地毛の黒が見えてきてプリンになってしまっている。


 水流川女子ミナジョの受験には面接もあり、髪は黒くしなければならない。

 それに備えて、もう茶色く染めるのをやめているらしい。


「ふわぁ……いけません。私、早起きしなくなって、すっかりダラけてます……」

「まあ、受験の日は早起きになるからな。少しずつ生活習慣を修正していけばいい」


 雪季の受験まで、あと一ヶ月ほど。

 最近の雪季は夜遅くまで勉強しているので、朝はかなり眠そうだ。


「朝飯つくるから、雪季は顔を洗ってこい」

「いつもすみません、お兄ちゃん……」


 ふらふら~っとおぼつかない足取りでリビングを出て行く雪季。


 元々、桜羽家ではこの数年は雪季が料理、洗濯、掃除と家事のほとんどを担当してきた。

 だが、雪季の受験も間近に迫り、家事に時間を取らせるわけにはいかない。


 今は、春太がほとんどの家事を担当している。

 家事は苦手だったが、去年の春から秋にかけて、雪季がいなかった時期に多少の家事をこなしてきた。

 一応、その経験のおかげでなんとかなっている。


「毎晩、遅くまで勉強してるんだよなあ、あいつ」

「雪季ちゃん、受験が近づいて不安になってるみたいだね」


 リビングの隅でコーヒーをすすっていた晶穂が、苦笑している。


「どうせ眠れないなら勉強しとこうっていうんだろうけど、よくないね」

「よくねぇな……」


 寝不足で昼間に勉強が進まず、不安になってまた眠れない。

 結局、寝不足が続くというか、悪循環というか。


 最悪というほどではなくても、良い状況ではないだろう。


「昨日は、ピアスとかネイルがどうこうで元気だったのになあ」

「情緒不安定なのは、ただ元気がないよりもっと不味いかもね」

「嫌なことを言うなよ……」


 ただ、晶穂の言うことはもっともだ。

 雪季は一瞬テンションが上がったかと思うと急降下することもある。


 元々、雪季は感情が豊かすぎるので起伏も激しいのだが……。

 急上昇と急下降を繰り返すのは、どう考えてもよろしくない。


「というか、雪季ちゃん、そろそろ勉強時間減らしてもいいんじゃない?」

「焦る気持ちもわかるけどな。俺だって、悠凛館は射程内だったのに、この時期は不安だったからなあ」


 元々、雪季は学力に自信がない。

 それでも定期テストなどでは、多少悪い点を取っても別に困ることはなかった。


 ただ、受験は落ちてしまえば終わりだ。


 雪季は受験本番が間近に迫り、強くプレッシャーを感じているらしい。


 ただ、春太の見立てでは、雪季は既に安全圏に入っている。

 明日が受験本番でもまず合格するレベルだろう。


 本人が自分の学力を疑っているので、そう言ってやってもあまり効果はないだろうが……。


霜月しもつきがいたときは、上手く雪季をコントロールしてくれてたんだな。あいつ、もう一回来てくれねぇかな」

「トーコちゃんが来るの、受験日の一週間前でしょ」


 雪季の従姉妹の霜月透子とうこは、電車で三時間離れた田舎町に住んでいるが――

 雪季と同じく、ミナジョを受験することになっている。


 冬休みの間、霜月はこちらの塾で冬期講習に通うために桜羽家に居候していたのだ。

 残念ながら冬休みが終わり、五日前に実家に戻ってしまったが――


「ウチ、増築できねぇかな。霜月の部屋も用意しよう。あいつがいないと桜羽家は回らなくなってる」

「ハル、建ぺい率って知ってる?」

「そんな難しい単語は知らねぇな」


 敷地面積に対して、建物をつくれる面積は決まっている。

 それくらいのことは、高校生の春太でも知っているが。


「ところで、ハル。朝飯まだー?」

「晶穂は受験生じゃねぇだろ。ちょっとは手伝おうって気にならないのか?」

「手伝ってもいいけど、ハルの手間が二倍三倍になるだけだよ?」

「……その辺で転がっててくれ」


 晶穂は、春太以上に家事が苦手だ。

 春太の家事能力も、人のフォローをできるほどではない。


 春太はキッチンに行き、卵とハムを焼いてハムエッグをつくり、オーブンでトーストも焼く。

 サラダはコンビニで買ってあったものを皿に盛るだけだ。


「うーん……これって料理か?」

「哲学的な話?」

「違ぇよ。栄養はともかく、味気ないよなあ……」


「いやいや、ハルの舌が贅沢なんだって。ハル母も料理上手で、ここ何年かは雪季ちゃんが毎日凝った料理つくってたから、感覚がおかしいだけだよ」

「そうなんだろうか……」


 晶穂に言わせれば、春太が用意したメニューも普通より凝ってるくらいらしい。


「朝は菓子パンとかコンビニおにぎりとか、普通なんじゃない?」

「人間ってそんな朝飯で一日を乗り切れるもんなのか」


 高一の育ち盛りで、最近は特によく食べる春太にしてみれば信じがたい。

 雪季もスタイル維持のために節食しているが、食べるのは好きなほうだ。

 できれば、食生活は充実させてやりたい。


「うーん、誰か料理の上手いヤツに習うしかないか」

「この男、理由をつけて元カノのカフェに通おうとしてるよ」

「氷川のところに行くとは言ってないだろ!」


 氷川涼華は、春太の元カノ――を自称する中学時代の同級生だ。

 実家がカフェを経営しており、本人もそこで働いている。

 店で料理もやっているようだし、たいていのメニューはこなせそうだ。


「ホントかなあ。さてと、あたしはちょっと行きに家に寄るから早めに出るからね」

「……ああ」


 晶穂が立ち上がって、リビングを出て行き――


 春太は思い出す。

 いや、思い出すというほど遠い過去の話ではなく。


 ほんの二週間ほど前のことだ。


 年末に、晶穂の母である月夜見秋葉はこの世を去った――


 クリスマス前に心臓発作を起こして入院し、年明けには退院する予定だったが。

 突然、容態が悪化してあっという間に――


 葬儀は身内だけで済まされ、特別に春太も参列させてもらった。

 雪季はショックを受けていたため参列を見合わせて。


 春太の父は、葬儀が終わったあとで手を合わせに行ったらしい。

 その日、父は一言も口を利かなかった――


 月夜見秋葉は荼毘に付され、春太も火葬場まで晶穂に付き添った。

 そのときの晶穂の言葉を、表情を、春太は忘れられそうにない。


「ハル――お母さん、こんなに小さくなっちゃった」


 晶穂は母の遺骨箱を抱え、微笑んでいた。


「あんなデカくて邪魔くさかったのにね。このコンパクトサイズなら、ウチにしばらく置いといてもいいよね」

「…………」


 晶穂の目に涙が光っていることに、春太は気づかないフリをした。


 間違いだらけの春太だが、その選択は間違っていなかっただろう。


 今、秋葉の遺骨は彼女が学生時代からずっと暮らしたアパートの部屋にある。


 晶穂は、その遺骨のそばに――いや、母と暮らしてきた部屋に長時間いることに耐えられなかった。

 あまりにも、アパートの部屋には母との思い出がありすぎたのだ。


 春太は迷わずに、晶穂を桜羽家で引き取ると決めた。

 元々、秋葉が入院している間は晶穂を居候させるつもりだったので問題はない。


 晶穂の義父は海外に行っていたらしいが、急遽帰国し、葬儀にも参列していた。

 今もアパートの部屋にいて、しばらくは月夜見家を一人で守るらしい。


 晶穂は、桜羽家で居候しつつ、毎朝必ず自宅に寄って母に手を合わせている。

 放課後にも一度は自宅に行き――時には何時間も出てこない。


 その数時間、晶穂がどんな気持ちでいるのか――春太には想像することもできない。

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