第69話 妹は黙って聞いておきたい
そう言うと、晶穂母は立ち上がった。
春太はそんな言い回しを初めて聞いた。
つまり、別の店に移動するという意味らしい。
春太は秋葉の言葉に、さほどの衝撃は感じていない。
まさか、秋葉が春太の母の首を絞めたり刺したりして殺したとは思えないからだ。
もちろん、寿司屋の支払いは晶穂母がしてくれた。
総額いくらだったのかは、怖いので想像もしていない。
春太には、晶穂母の言葉の意味より金額のほうが怖いくらいだ。
いや、晶穂母の言葉の意味も怖くはあるが――
「お兄ちゃん、帰ってもいいと思います」
「……万単位のおごりだぞ。ここでごちそうさまって帰るわけにはいかんだろ」
店を出ると、春太の袖を引いてボソボソささやいてきた雪季に答える。
晶穂母の目的は、まだ達せられていないはず。
エサだけ食わせて逃げられてはたまらないだろう。
「いんや、あたしも帰ってもいいと思うけど?」
「俺も一応、礼儀ってものをわきまえてるんでな」
春太たちの話が聞こえたのか、晶穂が話しかけてくる。
晶穂母のほうは、まだ支払いに時間がかかっているのか、店員と話でもしているのか、出てこない。
「言っとくけど、さっきお母さんが言ってた話、あたしも知らないからね」
「……だろうな」
晶穂はいつもどおりクールを装っていたが、驚きを隠し切れていなかった。
母親が本当に人を殺したなどとは思っていないだろうが。
「それとも、警察に通報するべき?」
「おまえ、母親にも容赦ないな」
晶穂の場合、本気でやりそうなところが怖い。
「大丈夫ですよ、なにかあればお兄ちゃんが取り押さえてくれますから。ウチの兄は不死身です」
「いや、殺されたら普通に死ぬからな、俺」
妹の盲信は普段は嬉しいが、たまに怖い。
といっても、別に春太の腕っ節に関係なく、月夜見秋葉に物理的な脅威は感じない。
「でも、雪季。おまえは今日はもう帰っていいぞ。タクシー代やるから」
「おいおい、カノジョのあたしにもタクシー代くれたことないのに」
「そんなことで張り合うなよ」
晶穂を一人で夜道を歩かせず、家まで送ることが多かっただけだ。
「いえ、さっきのお話を聞いて帰るなんて無理ですよ」
「……そりゃそうか」
たとえここで雪季を帰らせても、晶穂母の発言の真意を聞かせないわけにはいかないだろう。
「つーか、やっぱ来ないほうがよかったかな」
「あんたも後悔することが多いね、ハル」
「うるさいよ。本当のことをズバズバ言うなよ、晶穂」
だが、春太は後悔するとわかっていても来ていたに違いない。
実の母のことが、気にならないといったら嘘になるからだ。
「ああ、寒いとこお待たせしちゃってごめんなさい。顔見知りの店員さんとちょっと話し込んじゃってて」
「あ、いえ。ごちそうさまです。マジで美味かったです」
店から出てきた晶穂母に、春太はぺこりと頭を下げる。
雪季も兄にならい、小声で「ごちそうさまでした」と言って一礼する。
「いえいえ。それじゃ、二軒目にいきましょうか。バーってわけにもいかないし、女の子のいるお店はもっとまずいわよね」
「あっ、あたしいかがわしいお店にちょっと行ってみたい。ハルも行きたいよね?」
「当然のように同意を求めんなよ!」
興味がないといっても嘘になるが、妹と一緒に美人に接待されるお店に行くなど、なんの拷問なのか。
「お兄ちゃん……そういうお店、行ったことあるんですか?」
「そんなに人生経験豊富じゃねぇよ」
案の定、素直な妹が春太を疑い始めていた。
危ないところだった。
二軒目は、落ち着いたカフェだった。
照明がなにやらムーディで、春太にはどうも落ち着かない。
春太と雪季、その向かい側に晶穂と秋葉母子が座る形だ。
春太と秋葉はコーヒー、雪季はココア、晶穂はハーブティーを飲んでいる。
「ふう……いいお店でしょ? 大学の頃からよく通ってるのよ、ここ」
「あの、言い忘れてましたけど、妹はまだ中学生なんで……」
「ええ、わかってるわ。話は手短かに済ませるわよ」
秋葉はコーヒーを一口すすり、ソーサーの上に置いた。
「私、翠璃先輩とはしょっちゅう会ってたのよ」
「え? ああ、大学は別になったけど――ってさっきも言ってましたね」
春太が聞き返すと、秋葉は頬杖をついた。
「ええ、私は娘と同じで無愛想だから、すぐに人間関係リセットしちゃうんだけど、翠璃先輩とは不思議と長続きしたのよね」
「母は五年前に亡くなったって話でしたけど……」
口を挟むのは春太だけだ。
雪季も晶穂も、黙って飲み物をすするだけ。
「春太くん、星河病院って知ってる?」
「ああ、けっこうでかい病院ですよね」
桜羽一家は全員健康なので、お世話になったことはないが、このあたりでは有名だ。
電車で二十分ほどかかる距離にあるが、大きな病院なので春太でも知っている。
「翠璃先輩は、成人してから何年もあそこで入退院を繰り返してたの」
「入退院……どこか悪かったんですか?」
「元々、身体が弱かったのよ、先輩は。子供の頃は20歳まで生きられないなんて言われたこともあったらしいわね」
「……軽音楽部で元気にやっていたのでは?」
「意外と元気になるのもよくあることよ。ただ、翠璃先輩の場合はそれが続かなかったみたい」
「…………」
春太の母も、若くして――おそらくまだ学生の頃に春太を出産している。
休学したのか辞めたのか、わからないが……。
あるいは、出産ののちに体調を崩したのではないか?
「翠璃先輩は、春太くんを生んだことはまったく後悔してなかった。それだけは、他人の私でも断言できるわ」
「……ありがとうございます」
まるで春太の思考を読んだかのような話だった。
だが、春太は秋葉のその言葉を信用できる。
写真で見た、赤ん坊の春太を抱いた母の顔は喜びに満ちていたからだ。
「ちなみに、星河病院って翠璃先輩の親戚がやってるのよね」
「え、親戚?」
「君のお母さんの実家はとんでもないお金持ちよ。医者に弁護士、政治家までいる。上流階級の見本みたいな一族なのよね」
「…………」
それも、春太に驚きはなかった。
母が家の事情で春太から引き離され、会いに来られなかったという話は聞いている。
どう考えても普通の家ではないのだろうと、想像は付いていた。
「ついでに言うと、晶穂も翠璃さんに何度か会ったことあるわよ」
「えっ? 記憶にないけど」
突然話を振られて、晶穂がきょとんとする。
「まだ小さかったからね。急に、翠璃さんが会ってみたいって言い出したのよ。会わせたら大喜びで、『もう私の子にしたい』とか言ってたわ」
「そこで翠璃ちゃんの養女になってたら、あたしに太い実家ができてたのか。ギター弾き放題の豪邸に住めてたかも。惜しいことしたね」
「ウチの娘が、あっさり母を見捨てようとしてる件について」
並んで座っている母子が、ぎろりと睨み合っている。
この二人、表情の作り方までそっくりだった。
「残念ながら、晶穂をあげるわけにもいかなかったけどね」
「あの、私どうもわからないことが……いえ、なんでもありません」
雪季が遂に口を挟んできた。
さすがにもう、なにか察しつつあるのかもしれない。
春太は雪季を連れてきた時点で、覚悟はしていた。
雪季に、春太と晶穂の血縁を知られることを――
「まあ、言いたいことがあるのはわかるけど、もうちょっと待って、雪季ちゃん。私の話はもう終わるから」
「は、はい……ご静聴します……」
雪季は、すすっと春太に寄り添ってくる。
また人見知りモードが発動しているらしい。
「翠璃先輩はね、もう自分が長くないって思ったみたい。実際、そのとおりだったのだけど。それでね――」
秋葉が、じっと春太を見つめてきた。
「最後に、息子に会いたくなったのね。まあ、当然だわ。入院中も、あなたのことばかり気にしてたから」
「……会いに来れば、ウチの父も母も拒否はしなかったと思いますよ」
「は、はい、パパとママなら……」
「でしょうね。でも、離婚したばかりの頃は翠璃さんは春太くんに近づけないように見張られてたし――五年前は、もう自力で会いに行く体力もなかったの」
「そんなに悪かったんですね……」
五年前なら、春太は11歳。
その気になれば、電車に乗って病院に行くくらいは簡単にできた。
産みの母の存在さえ知っていれば――
「翠璃さんには、悪い後輩がいてね。無茶を承知で、翠璃さんが息子に会うために病院を抜け出すのを手伝っちゃったのよ」
「……………………」
「病院を抜け出して、桜羽家に向かう途中で――悪い後輩が目を離した隙に、あの人は死んだのよ」
秋葉は、コーヒーカップを手に取った。
春太は、晶穂母のその手がわずかに震えているのを見た。
「その後輩が、翠璃さんを――君のお母さんを殺したのよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます