第7話 切歯扼腕
蒼頡は、
青い炎を弱々しく放ち、雪の上で涙を流しながら横たわっている醜い坊主の生首の哀れな姿が、蒼頡の澄んだ瞳に、映り込んだ。
蒼頡は、目の前にいる坊主の生首に向かって、口を開いた。
「……宗源殿。
もう充分、罰を受けましたね。
もはやこれ以上、苦しむことはありません。
あなた様のその首から決して離れないその地獄の炎を、わたくしが、取り除いてみせます。
わたくし────……この、
あなた様を、解放いたします」
蒼頡が、青い炎を纏った宗源に向かって、そう言った。
宗源は目を見開き、蒼頡を凝視した。
宗源のその双眸は、先ほどまでの暗く澱んだ瞳の色とは打って変わり、自身がこの世を去った後、暗闇の中で光る
蒼頡が、宗源のその瞳を真っ直ぐに見つめ、にこりと穏やかに微笑んだ、その時。
"────────ごうっ!!"
凄まじい憤怒の気を、蒼頡は背中から感じ取った。
"────────ごりっ……ごきっ!!"
しんしんと雪が降り積もる真冬の夜闇に、鈍い音が響き渡った。
蒼頡は、後ろをぐるり、と振り返った。
すると、蒼頡が振り返ったと同時に、
"────がしゃんっ"
と、何かが砕け散る音がした。
目の前の光景に、蒼頡は両の瞼をぐっ、と見開いた。
燃え盛る青い炎に照らされながら、瑞獣の姿になっている狡が、巨大な白猿の片腕にまたしてもがっちりと喰らい付き、二匹の巨大な獣が、お互い一歩も引かぬ凄まじい気迫を発しながら、生死を分けた攻防を繰り広げていた。
二匹の足元には、青い炎をちろちろと燃やす宗源の舌先と、粉々になった瓶子が落ちていた。
瓶子の中に入っていた諸白は、とくとくと音を立てながら雪の中にじわじわと混ざってゆき、雪の下の地面にまで、あっという間に染み込んでいった。
巨大な白猿姿の幽鴳が、眉間に皺を寄せながらぐるぐると牙を剥き出し、腕に咬みついたまま離れない狡の目を、間近で思い切り睨みつけていた。
「────てめえ……っ!!
……くそッ……! 俺の諸白がっ……!」
咬まれている腕にぐぐ……と力を込めながら、幽鴳が狡に向かって叫んだ。
狡は、凄まじい怒気を放出しながら、幽鴳の腕に咬みついている自身の牙を、決して離そうとはしなかった。
"────ごきっ……ごりッ……!!"
狡の鋭い牙が幽鴳の腕の骨部分にまで達し、強力な顎がその太い骨を砕く音が、辺り一面に、再びこだました。
幽鴳は、痛みで叫びそうになったその声を、喉の奥でぐっ、と堪えると、
「────……くっ!……畜生ッ!……いい加減にしやがれ……!!
とっとと……離れろや────!!」
と、激痛に耐えながら、狡に向かって凄まじい怒声を上げた。
直後、幽鴳は咬まれている腕と反対の腕を背中側に“ぐいっ!”と引き下げ、腹にぐっ、と力を入れると、
"────────……どごおん……っ!!"
と、その拳を狡の脇腹に勢いよく突き入れた。
強烈な一撃であった。
腹を貫くそのあまりの衝撃と激痛に、狡はようやく、幽鴳の腕から牙を離した。
拳が突き刺さると同時に、"────ばきばきっ"とあばら骨の折れる音が響き渡り、狡は、口からごぼりと、
狡に喰らい付かれていた幽鴳の腕の傷口からは血がどくどくと溢れ出し、腕の骨は折れていた。
二匹の鮮血が、周囲に降り積もっている白雪を、真っ赤に染め上げていた。
口から血を流しながら、狡が口を開いた。
「────……よくも……。
俺様の牛を……燃やしやがって……!!
……てめえはただじゃおかねえ……!
俺様の気が済むまで……脳天から足の先まで────全身咬み砕いてやる!!」
怒り狂った狡が、幽鴳に向かって、激昂した。
体躯が十尺以上もある二匹の猛獣が血を流しながら対峙し、互いにぐるぐると牙を剥き出し、両者が凄まじい殺気を噴出させながら、睨み合っていた。
緊迫した状態から間もなく、狡が身体をぴくりと動かし、次の瞬間、後ろ足を“どうっ!”と蹴り上げ、再び猛烈な勢いで、幽鴳に向かって飛び掛かっていった。
幽鴳もそれに合わせるように、飛び掛かってくる狡のふところに向かって、その巨躯にそぐわぬ凄まじい俊敏さで、勢いよく“ぐわっ!”と飛び込んで行った。
二匹の巨大な猛獣があわや激突するかといった、その刹那。
"────────ぎゅるぎゅるぎゅるっ……────!!"
大蛇のような太い縄が、矢のように飛んできた。
「────……ッが!」
「────なっ!!」
二匹が同時に声を上げ、共にがくんっ、と、動きを止めた。
幽鴳と狡の身体に、緑、赤、黄、白、黒の五色の太い縄がぐるりと巻き付き、激突寸前であった巨大な二匹の獣を、力強くぎりぎりと縛り上げながらその場に
大蛇のような二本の縄が、蒼頡が持つ一枚の和紙からぐん、と伸びており、その縄が、幽鴳と狡の二人を縛り上げていた。
縄を辿った先にいる蒼頡の顔を、幽鴳は鋭い目つきで、ぐっと睨んだ。
「……おい、てめえ……!
さっきからなんだ……その和紙はよお!!
妙な
くそっ……! こんな縄……!!
ああっ、鬱陶しい!!」
またしても五色の縄に縛り上げられた幽鴳が、縄から逃れられないまま身悶えて苛立ち、蒼頡に向かって、凄まじい剣幕で喚き散らした。
狡も、幽鴳と同じように、蒼頡の顔を“きっ!”と睨んだ。
「────おい! 俺様まで縛るんじゃねえっ蒼頡ッ!
こいつぁ、俺様がとどめをさす!
とめるんじゃねえっ!!
……さっさとこの縄を解きやがらねえと、てめえもまとめて咬み殺すぞ……っ!!」
縄から抜けようと必死にもがきながら、身動きの取れなくなった狡が、蒼頡に向かって"ごうっ!"と吠えた。
猛り狂う二匹の猛獣の気迫と、酒蔵を燃やす、天まで届くかというほどの青い炎がごおごおと渦巻き、大気が激しくぶつかり合いながら、共鳴し合っていた。
「……二人とも。少し落ち着け」
蒼頡が、幽鴳と狡に向かって言った。
その声は、低く穏やかであった。
蒼頡は、幽鴳の方に改めて向き直ると、
「……ふむ。
おぬし……名を、"幽鴳"と言ったな。
この国の者ではないな。
どこから来たのだ」
と、幽鴳の顔をじっ、と見据えながら、そう問うた。
怒り狂っている幽鴳は、蒼頡のその一言で、さらに頭に血が
「……ああ!?
んなこと……どうだっていいだろうが……!
こちとら、
心底、許せねえ……! 許しちゃおけねえ!!
……俺の諸白をッ……!
────
早く……この縄を解きやがれ……ッ!!」
幽鴳が顔を真っ赤に染め、蒼頡に向かって、がなり立てた。
蒼頡は、怒鳴り散らす巨大な猛獣に、全く
「……ふむ。
おぬし、酒が好きなのか」
蒼頡が、ぽつりと呟いた。
そして、
「────わたくしの元に来れば、そなたがそれほどまでに所望する数々の名酒が、いくらでも、何杯でも、毎日飲めるようになるぞ」
と、幽鴳に向かって、蒼頡が言った。
その言葉を聞いた瞬間、それまで激しく噴出していた幽鴳の怒りの気が、一瞬、ふ……と和らいだ。
同時に、狡がぐるりと振り返って蒼頡の顔を凝視し、目を見開きながら、
「────な゛っ!?」
と、叫んだ。
蒼頡の瞳は、きらきらと輝いていた。
「……酒が、いくらでも飲めるだと……?
今……────たしかにそう言ったな……!!」
幽鴳が、蒼頡に向かって声を上げた。
「……ああ、そうだ。
このわたし……土御門蒼頡の式神となり────……わたくしの屋敷に来るならば、な」
蒼頡がそう言った直後、表の通りからざわざわと騒ぎ出す声が聞こえ始め、大勢の人々が集まる気配がした。
火を消そうと、町の火消しや近隣の住民たちが集まり始めていた。
大勢の人のざわめきが聞こえ始めると、それまで大人しく雪の上に横たえていた坊主の生首は、音も無く、しゅるり……と、その場から溶けるように、消え去ってしまった。
蒼頡たちがいる裏の通りに向かって、町民達がざくざくと雪を踏み締め近づいてくる音が聞こえ始めた。
「……ちッ!」
幽鴳が、舌打ちをした。
次の瞬間、巨大な白猿の姿からしゅるしゅると小さくなり、幽鴳は人間の姿に戻った。
巨大な白猿を縛り上げていた五色の縄は、幽鴳の身体に合わせて同じように縮んでゆき、大きさが変わろうとも一切弛まず、人間の姿に戻った幽鴳を、未だ力強く、ぎゅっ、と縛り上げていた。
「……少し、頭が冷えてきたぜえ……。
おい。
いったん引かせてくれ」
先ほどまで猛り狂っていた幽鴳が落ち着きを取り戻し、蒼頡に向かって、そう言った。
幽鴳の瞳を真っ直ぐに見つめると、蒼頡は瞳をきらりと輝かせ、直後、
「……狡!」
と、声を上げた。
「……っくそ!」
狡は、一言悪態をつくと、巨大な瑞獣の姿から、しゅるしゅると人間の姿に戻った。
狡を縛り上げている縄も、やはり幽鴳と同様、狡とともに縮んでゆき、弛むことは無かった。
狡が人間の姿に戻ったのを確認し、お互いの闘気が収まっていくのを感じ取ると、蒼頡は口の中で、何やらぶつぶつと呪文を唱え始めた。
すると、幽鴳と狡を縛り上げていた五色の縄がみるみる薄くなってゆき、そのまま煙のように、二人の身体から、すー……っと縄が消え去っていった。
幽鴳と狡は、ようやく、蒼頡の縄から解放された。
縄が消え、手足が自由になった幽鴳は突如、ぐるりとこちらに背中を向け、
“────だっ!”
と、その場から一目散に、逃げ出した。
ざむざむざむざむ!という、雪を素早く踏み締める音だけを残し、幽鴳は凄まじい速度で闇の奥へと走り去り、あっという間に、姿が見えなくなってしまった。
「あっ! あいつ……! とんずらしやがった!!」
狡がそう言って、幽鴳を追いかけようとした。
が、蒼頡が、駆け出そうとする狡を制止した。
「待て、狡。
あの様子なら、きっと、問題ありません。
おそらく彼は……再び、わたくしたちの前に現れるはずです」
蒼頡が、幽鴳が走り去って行った方向をじっと見つめながら、瞳をきらきらと輝かせて、そう言った。
蒼頡のその様子をふ、と見つめると、突如、狡の心臓が、ざわり……と騒いだ。
どくどくと早まる不快な心臓の鼓動を、その身にしっかりと感じ取りながら、狡が蒼頡に向かって、ゆっくりと、口を開いた。
「……おい、蒼頡。まさか、本当に奴を……」
蒼頡に向かって狡がそう言いかけた、その瞬間。
蒼頡が突如、狡の方に、くるりと向き直った。
「────さて!
狡。まだ仕事は終わっておりません。
わたくしが別の牛を手配いたしますから、そう
蒼頡がそう言うと、狡は目をかっと見開き、
「……拗ねてねえっ!!」
と、大声で吠えた。
「……つーか、どうするってんだ。
あの坊主も猿も、どっかに逃げちまったじゃねえか!」
狡が、続けて言った。
蒼頡は、白い吐息をふーっ、と吐き、にこにこと笑顔になると、
「そうですね……。
────……ところで、狡。
明朝、そなたに連れて行ってもらいたい場所があります」
と言った。
「あ?
……どこへだよ」
狡が、蒼頡に問うた。
「壬生寺です」
蒼頡は、裏の通りに集まってきた二十人ほどの町民達の中に、牛をくれた依頼主と、燃えている酒蔵の主人の姿をその目でしっかりと捉えながら、にこにこと朗らかな笑顔を浮かべ、狡に向かって、そう言ったのであった。
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