第175話 本社、本社。こちら、658。応答願います。 

バスの運転士にも、定年後にすぐ死んでしまう人は多い。

深町が最初に、大岡山に入った時の指導運転士もそのひとりで

仕事のストレスからか、定年になるや否や

すぐに、天に召されてしまった。


緊張の多い仕事である。

交通戦争、などと以前は揶揄されたが

バスの運転に関しては以前より環境が悪くなっている。


身勝手な自家用車ドライバーが多いからだ。





東京メトロ、丸の内線は空いている。

もとより、夕方に丸の内に向かう人は少ないからである。


そのまま、東京駅まで乗ることにした。



混んでいれば、逆方向へ向かい

山手線から東京駅に向かう事もある。



臨機応変、である。





臨機応変と言えば、バスの運転もそうで

事故などで、動けなくなった時には代行を出したりする。





ある日、深町は

丘の上の大学へ、回送でバスを走らせていた。

午後の便、学生が降りてくるバスである。



ゆっくりゆっくり、細い山道を3491号で登っていた。

ギアは3速。30km/hくらいだ。


穏やかな春の日、運転席のサイド・ウインドウを開けてのんびり。

右カーブを曲がり、鉄道をオーバー・クロスするところ。



対向車線。スクーターが2台、かなりの速度で下りてきた。

大学生たちだ。


「あんな速度で回れるかな」と、思いながら

ゆっくりとバスを進めた。



ところが。



前を走っていたスクーターが、何を思ったからブレーキを掛けた。


カーブに差し掛かるところなので、車体を傾けながらブレーキを掛ければ

転倒する。




当然、そうなった。



深町も、走りすぎていけばよかったのだが・・・・・。そこは経験不足である。

減速してしまった為に、転倒したスクーターは

2ステップのバスの床下に入ってしまった。


ライダーは、遥か手前の路面に飛び降りていた。



バイクを見捨てたために、そうなったのである。





すぐに、無線で営業所に連絡をした。



「大岡山、こちら658。大学線登り回送にて事故発生。」


冷静だった。


その時の指令は細川だったが「了解ー。すぐ代行を回す。651、651、和田さん、現在


地?」



和田は「651。もう車庫のそば。」



細川は「大学線に代行行ってー、悪いね、和田さん」




和田は「もう車庫に来ちゃうよー。」



細川は「でも行ってぇ。」と、ユーモアたっぷりに言うと


和田は「了解。しょうがねぇなあ」と。


3452を転回させ、大学線に向けてフル加速。

和田自身も、昼ごはんの時間だったのだ。



深町はバスを降り、床下にもぐったスクーターを見たが

大して壊れたところもなかった。

滑って、入り込んだだけだった。


バスも、たまたま右サイドだったので

何も無い空間だった。





警察、大学職員が来て

検分の途中、和田の乗る3452が

3491をかすめて、通り過ぎる。


和田は、硝子窓の向こうで深町に

親指を立てて「ドンマイ!」


ラガーマンのような和田の、人柄を思わせた。



その時の大学職員のひとりが、美和の母だったので

以降、大学で休憩を取る度に、いろいろと世話になった深町でもあった。




事故は、結局「スクーターの自損」と言う事になった。


スクーターの学生が、幸い、ずるい人間でなかったのが良かった。

美和の母が、口添えしてくれたのかもしれない。



カーブの外側にバスが居たので、驚いてブレーキを掛けてしまった、との事だが


20km/h制限の道である。その速度で走っていれば転倒する筈もなかった。



会社もまた、それを事故扱いにはせず「気をつけろよ」と言う程度だった。



運転課長の有馬も「うん。びっくりしたか。虫の知らせだな」


その時、停まっていたのは正しい判断だったと言うのである。

少しでも動いていれば、過失が問われるが

停まっていれば問題は少ないと言うのだ。




そんな危険が、いつも隣り合せにある。そういう仕事である

バス・ドライバーだ。















友里絵が犬と遊んでいるので、愛紗と菜由は先に部屋に入った。



「意外と綺麗だね」と、菜由。

「うん。ホテルくらいの感じ」と、愛紗。



保養所と言うと、どうも研修なんかに使う質素な宿、と言うイメージだけれども

ここは、指宿と言う場所もあるからか


公共の宿。そんな感じで

実際、空いていれば一般の人も泊まれるのだった。



日本全国にこういう場所がある事は、あまり知られていない。



大きな窓から見える、海。

桜島は見えないけれど、ひろい太平洋が見える。



「ずっと、居たいね、ここ」などと、菜由は言った。



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