第57話 1列車 定時発車 16時30分

あと5分じゃ、と

10号車に戻ろうと、急いで歩いて。


元々、愛紗は

ゆっくり歩く方なので


時間に追われるのは苦手。



それでまあ、観光バスくらいなら

時間がゆったりしてるから大丈夫だったけど



それでも、空港へ送る仕事なんかは

苦手。



道路が混んでいると、気持ちが

焦ってしまう。



そんな時も、ドライバーは

落ち着いていた事を思い出す。




そうでないと出来ないのかもしれない。


焦っても結果は同じなのだ。




と、10号車に大人しく戻って

通路で、カメラを下げている人が

待っていた。


通路は狭いので、すれ違いで待っているのだろう。



愛紗は、バスの運転士みたいだな、と

思うと


その人は、ビデオカメラを持っていて

廊下を撮影していたり。


他に、古いカメラも下げていたり。




「あ、どうぞ」と、柔和に微笑むところが

ちょっと深町を思わせ、愛紗も微笑む。



すみません、と

愛紗は10号室の鍵を開けて、ドアを開いた。



がらがらがら、と

車輪がレールを転がる音がして。


ドアは開く。


なんとなく、ユーモラスでいいな。



部屋に戻ると、車内放送が入る。





ーこの列車は、日豊線経由、寝台特急富士号西鹿児島行きです。

お乗り間違えのないようお願い致します。



まもなくの発車です。


お見送りの方は、ホームからお願い致しますー





と、軽快なオルゴールの音色。




「いいなぁ」と、愛紗はにっこり。






ちょっと、ホームの景色を見ていたいと

思い、廊下側のドアを開いてみると



さっきの人が、ホームの景色をビデオで撮っていた。



ビデオなので、声が入るといけないから

息を潜めて(笑)



愛紗も、ホームの景色を見ている。



東京駅、16時28分。



まだ、帰宅のサラリーマンたちの

姿もない。



営業マンとか、自由業の人。


出張の人。


わりと、時間に余裕のある人たちで


のんびりしている雰囲気。




東京も、こんなならいいなぁ、と

愛紗は思う。




ビデオを撮っていた人は、愛紗の存在に気づき

後ろを向いて、「ああ、お構いなく。これ、後で編集しますから」と、にっこり。


髪は長めだけど、無造作にしていて



古いゴルフ帽子を被っていて。



背丈も結構高い。



大柄なのだけど、のんびりした雰囲気。



ジーンズの上下とスニーカー。



30代半ば くらいに見えるけど

落ち着いた感じ。



旅行作家かな、なんて

愛紗は思う。



サラリーマンとか、そういう

追われる感じの緊張感がない。




発車間際になり、ホームの発車メロディーが流れる。


ああ、やっと終わった。



と、愛紗は思うけど


終わったと思っているのは、自分だけ。


何も変わってはいないのだった。



バスの仕事も、今は暇なだけで



別に、辞めた訳でもない。



そんな事を思い出さないように。

と、ホームの景色に集中するように


つい、指差し確認。


前方よし!



なんて、思っていると


つい、言葉が出て。



カメラを持ったまま、その人は振り返る。



にっこり。




「鉄道、好きですか?」




愛紗は恥ずかしくなり、赤くなって



「はい。あの、すみません、声入ってしまって」



と言うと

その人は柔和に



「いえいえ。これ、素材ですから。声は使いません」

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