第11話 最後の夜

 カラフとエレインは、出立の三日前を最後の夜にすると決めた。その日の交わりを最後に情を断ち、なにもかもをなかったことにしようと。


 エレインはカラフを部屋に招き入れるやいなや、するりと夜着を脱いで裸身をさらした。未だかつて見たことのない大胆な様子に、カラフは目を見張らずにいられなかった。


 おそらく、ほんのわずかでも時間を無駄にしたくないという意思表示だろう。行為の途中で脱衣に手間取るくらいなら、最初から脱いでおいたほうが断然マシ、というわけだ。


 ゆえにカラフも、身にまとっていたものを順番に脱ぎ捨てた。カラフの歩いてきた道筋を示すように、衣服や下着を点々と落としていく。


 一糸纏わぬ姿になった二人は、すぐさま寝台へと向かった。

 けれど、そのあと始まったのは、今までで一番穏やかなひととき。ただ見つめ合い、髪や顔、肩や足に触れ、他愛もない言葉を交わす。

 ひたすら快楽だけを追求し、貪り合った日々が嘘のよう。


 ほどなくして二人は敷布の上に倒れたが、今宵、主導的になっているのはエレインだった。今までずっとされるがままだった彼女が、自らカラフを押し倒したのだ。彼女の豊かな黒髪が、カラフの顔をさらさらとくすぐる。


「カラフ、私は今まで、あなたから愛を受け取るだけで、あなたになにも与えてこなかった。だから今夜は、私からあなたに愛を贈らせてちょうだい」


「そのようなこと、あなたは気にせずともよいのです。男にとって、己が為すことを女性が受け入れてくれる、ただそれだけのことが十分な贈り物になる。

 だからあなたは、ただされるがままになっていてください。このわたくしが、至福の夢を見せるとお約束したでしょう」


「至福の夢は、もう見せてもらったわ。だからどうか、お願い」


「王妃様……」


 カラフはもう、エレインを名前で呼んだりはしない。彼女の手に忠義のキスをしたときから、カラフは身も心も彼女の臣下となったのだから。

 だからエレインの望むとおり、されるがままになるのが相応しいだろう。


 エレインはカラフの頬を両手で包み込んで、丁寧で愛情深いキスをしてくれる。何度もついばみながら、ときどき子犬のように甘噛みする。

 カラフは、その優しい口づけに身を任せた。


 けれど胸の中には、強い悲しみがあった。このまま王妃を抱き、カラフの精根が尽きたとき、二人の甘い関係は完全に終わってしまう。

 キスだけを続けていたところで、朝になればどのみちおしまい。


 ああ夜の女神よ、永遠に世界を巡っておくれ。

 もしくは、昼の女神を殺めてしまおうか。


 詩的な思いに浸っていると、エレインの口づけがやんだ。この上なく愛しそうに、カラフの左胸へと頬を寄せる。カラフも、両腕を伸ばして彼女をきつく抱き締めた。

 汗でしっとり湿ったエレインの身体はカラフよりも体温が低く、密着していると心地よい。カラフの体温が彼女へと移っていくさまさえ小気味よかった。


 不意に訪れた穏やかなひとときが、カラフの胸をじんわりと温め、同時にたまらなく切なくなった。感傷的な気分のまま、エレインへ語りかける。


「そういえば、王妃様……」


「なぁに?」


 顔を上げたエレインは、小鳥のようにかわいらしく首をかしげた。


「奥の部屋に、大きな鏡があるでしょう。一度でいいから、あれの前であなたを抱いてみたいと思っていました」


「えっ、なんの目的で?」


 目をぱちくりさせる王妃に、カラフはあえてニヤリと笑ってみせる。


「あなた自身に、あなたのなまめかしい姿を見せて差し上げたかったのです」


「まぁ……。そんな悪い企みをしていたのね」


「きっと、いつになく盛り上がったはずです」


「そんなこと……」


 エレインは恥じ入るように俯いたが、瞳に好奇の色が宿っていく。


「だったら、今からでも──」


「でも、もういいのです」


 カラフはエレインの声を遮ると、彼女の頬を両手でそっと包み込んで、一世一代の告白をするように言葉を紡ぐ。


「あなたが愛に溺れているときの姿を知るのは、わたくし一人で十分。あなた自身さえ、知らずともよいのです。

 この世界でわたくしただ一人が、あなたさえも知らない、あなたの一番美しい姿を知っている。

 それ以上の喜びとほまれがありましょうか」


「カラフ……」


 エレインは感極まったように声を震わせた。眉尻を下げ、瞳を潤ませ、今にも泣き出しそう。

 きっと、さぞ美しい涙をこぼして泣いてくれることだろう。最初の夜のように、カラフを惹き付けてやまない、珠玉のような雫を生み出すだろう。


 けれど、最後の夜を涙と共に終わらせたくなかった。己の役目をまっとうすると決意し、一人で歩んでいこうとしている女性を、悲しみに暮れさせてはならない。


 だからカラフは、道化どうけた笑みを作り、ふざけた物言いをして、しんみりとした空気を徹底的に破壊することにした。


「ですが、あなたがどうしても鏡の前で抱かれたいとおっしゃるのであれば、わたくしは己の心を殺して、そのめいに従う所存です。

 はなはだ不本意ではありますが、王妃殿下のたっての願いとあらば、不承不承遂行するしかありません」


「……んもう、そんな言い方して」


 エレインはくちびるを尖らせ、ぷいと顔を背けた。いかにも不機嫌、というような横顔には、安堵の念がありありと現れていた。彼女もまた、涙を見せたくはなかったのだろう。


 やがてエレインはゆっくりと顔を戻し、カラフを正視した。瞳に宿るのは、凛とした光。


「あなたが感じている喜びと誉れを奪うわけにはいきません。だからどうか、あなただけが知っていてください」


「ええ。わたくしだけが、知っておきます・・・・・・・


 カラフの返答に、エレインは神妙な調子で頷く。

 あくまでも『知っておく』でなければならないことを、互いが理解していた。まかり間違っても『覚えておく』と口にしてはいけない。その微妙なニュアンスの差は、別れ行く二人にとって大いに重要なことだった。


 再び寂然せきぜんとしてしまった雰囲気を破るように、カラフはエレインの耳へ熱く囁く。


「では、最後の夢の旅路へと参りましょう。今宵は、あなた様が導いてくださいますか?」


「ええ、カラフ……」


 ***


 夢の終わりに、エレインは余韻に浸るように目を伏せる。

 その瞬間に彼女の目から流れた一筋の涙は、生理的なものだったに違いない。決して、カラフとの別れを惜しむ涙だなんて、おこがましいことを思ってはいけない。

 そしてカラフは、欲望が去って冷静になった頭で、ふっと思った。


 ──どうかあなたはなにもかもお忘れください。ただし、わたくしはいつまででも覚えています。

 お許しください……我が君。


 そのあと、二度目の夢が始まることはなく、最後のキスさえすることなく、見送りも固辞し、カラフは静かに王妃の寝所から立ち去った。

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