第169話 教皇ユリアと皇帝マキシーン
暴力教皇ユリアと呼ばれる聖職者がいる。
人をたくさん殺したからだ。
前教皇を断罪処刑したからだ。
外国の王を説得し、教皇領に攻め入ったからだ。
どさくさに紛れて教皇領を占領していた領主どもを、降伏さえ許さず皆殺しにしたからだ。
それだけならば、歴史上にたまにいる教皇と言えた。
唯一違う特別な――ユニークであると言えるのは、その最前線で指揮を執っていたのが教皇ユリア本人であるところだ。
儀礼上で教皇軍の総司令官を兼務するのではなく、戦術的な軍事指導者として戦場指揮を行った経歴が彼女にはある。
ゆえに、騎士も市民も、誰もが彼女を暴力教皇ユリアと呼んだ。
無表情で、にこりとも笑わずに、絹の法衣を纏いて人を殺すことを命令する。
それがユリアと言う名の聖職者だった。
そして――
「ケルン派に異端審問を仕掛けます」
眼前のユリアはそう呼ばれていることを知っているし、それを何一つ気にも留めていない。
むしろ、暴力教皇が為さることだからの評判一つで、人を殴るのにいちいち大義名分を唱えずに済むのならば、都合が良いのだろう。
今もまた、暴力を振るう事で一つの宗派を潰そうと画策している。
「理由は?」
「私たちがモンゴルの尻を舐める事に気づいたからです」
私は驚かなかった。
いつかは誰かが気づくとは思っていた。
そして、気づいたところで何かが変わるわけでもなかった。
鼻でふんと笑う。
「どうでもよさそうですね。貴方にとっても他人事ではないのですよ。帝国を売ることに決めた少女皇帝よ」
教皇ユリアは、全くの無表情で呟いた。
私がやることは神の意志でございます、何もかもが世界の為であるのです。
モンゴルの尻を舐めることさえも、神への背信行為ではありません。
そのような真面目くさった表情のままであり、事実、教皇本人は何一つ虚偽を吐いているつもりなど、何処にもないのであろう。
「事実どうでもよいからな」
この私、神聖グステン帝国皇帝たるマキシーン一世にとっては何もかも、どうでも良い事であった。
正直言ってしまえば、こんな神聖でも何でもないグステン帝国なんぞが塵に代わってしまおうが、私の父親を見殺しにして餓死させた帝都市民どもが皆殺しになろうが、ありとあらゆる領民が塗炭の苦しみに喘ごうが、私に何の関係があるというのか。
端的に言うと、本当にどうでもよかった。
全てに火をつけて、何もかも消し炭にしたいわけではない。
むしろ、それでも、例えどれだけ世界が憎くても。
私は確かに皇帝であるのだから、人を導くべき役目を背負っているのだから、帝国を脅かすものがいるならば防衛しなければならない。
ただ――それは『可能であるならば』に限る。
「この帝国は滅ぶだろう」
勝ち目はないのだ。
それはもう、あのテメレール公爵が嫌と言うほど説明してくれた。
あの猪突公が、どこまでも真剣に私たちを説得しようと必死に動いたのだ。
もう2年もすればモンゴル軍158000騎が押し寄せるのだと。
誰もが力を合わせて、このテメレールも犬畜生のように働くと眼前にてゲッシュを立てるから、モンゴルに一緒に立ち向かってくれ。
教皇猊下も、どうか神の加護を与えてくれ、神聖グステン帝国に住まう万民のための聖戦を行うのだと。
私は最後までそれに従うからと。
嗚呼。
――あれも、思えば哀れな女だ。
そんなことをしたところで、誰が一緒に立ち上がってくれるというのか。
自分が命懸けのゲッシュを立てるのだからと、真実本音で心の底から神の誓いを立てるのだから協力してくれと、そんな泣き言をほざいたところで誰が同意してくれるというのか。
人など身勝手なものなのだ。
それを信じる方が間違っているのだ。
人間は利己的で、あさましく、身勝手で、誰かが自分の代わりに手を汚してくれれば良いと常に思っている存在だ。
騎士も聖職者も市民も、誰もが自分の利益のため互いに闘争する『万人の万人に対する闘争』が神聖グステン帝国の現実であり、フェーデ(自力救済)が国家の法を上回るのが現実である。
人はまとまらないのだ。
哀れな民衆を暴力や不安から救済するための集合体たる『国家(コモンウェルス)』と呼べるものは、おそらく未だこの世には登場していないのだと思う。
このマキシーンが握り拳を作り、選帝侯や封建領主、商人や市民に対して騎士としての義務を呼びかけたところで、集まる力など知れている。
神聖グステン帝国がおかれた状況において、あと二年の期限付きではどう努力したところで、仮に異教徒への聖戦を起こしたとしてもモンゴルに対抗することは不可能だ。
敗北を喫するのが目に見えている。
それが現実だ。
ならば、最初から尻を舐めた方がマシだった。
そんな簡単な事を、どうしてもテメレール公は認めたがらないのだ。
自分こそが帝国を救うのだという幻想に取り付かれてしまった、哀れな騎士でしかない。
「……テメレール公の事を気にされているのですか」
「多少」
何度も何度も、本当に数えられぬくらいにテメレール公は私の殺害を目論んだ。
貴様などよりも私が皇帝にふさわしいという感情を、少しも隠そうとせぬ輩だった。
だが、どうしても嫌いにはなれない。
高慢で妙に捻くれているが、変なところで純粋に帝国騎士として生きようとする。
あの妙ちくりんな猪の事を、私は嫌いではなかった。
彼女が皇帝位の簒奪を目指して、この首を刎ねて『裏切者め』と唾を吐いたところで、恨むつもりなどないのだ。
それを許してやるぐらいには、私は彼女の奇妙な本性に好意を抱いていた。
もっとも、テメレール公は皇帝位簒奪どころか選帝侯とトラブルを起こしたようで、帝都市民で話題となっている男騎士に一騎打ちで殺されかけたと聞くが。
はて。
無論、あの悪魔超人レッケンベル卿を殺した相手というからには、テメレール猪突公に勝てても別におかしくはないのだが。
そもそもが、レッケンベル卿に勝てる男など現実に存在するのだろうか。
いるわけないだろうに、そんなバケモノ。
私は正直なところ、虚偽ではないかと疑っている。
まるでテメレール公が私に示そうとしたように、アンハルト王国でゲッシュを誓って、満座の領主騎士全てから軍権を差し出させただの。
ヴィレンドルフのカタリナ選帝侯が、その男欲しさゆえにアンハルトとの和平を承知しただの。
夢物語のような馬鹿話だけが聞こえてくる。
いや――今、気にする事ではない、か。
どうでもよいことばかり考えて、教皇の話などは他人事のように聞こえてしまう。
「このユリアも、彼女の事は気にかけております。ですが、帝都での彼女の評判は元々が猪扱い。まして、選帝侯にしてやられた状況では誰も彼女の話など真剣に聞かぬでしょう。状況を知れば、ほぼ全ての貴族が私と皇帝に同意いたします。心配する必要はありません」
その心配はしていない。
そもそも、私にとっては同意されず反対にあったところで、それはそれでよい。
別に、テメレール公が皇帝になりたいというならば、ならせてやってもよいとさえ思えている。
なったところで神聖グステン帝国という船は、もう沈む泥船だが。
私は私の一族さえ別な箱舟にのって逃げることが出来れば、それでよい。
「今重要視するのは、むしろケルン派です。私はかつて、教皇に成るためにケルン派という宗派の力を借りました。私たちは彼女たちの教義に触れました。精神に触れました。潜在的な技術を知りました。現世救済のための理念に触れました」
「それが異端であったと」
私は笑う。
かつて力を借りた宗派の連中を見捨て、自ら枢機卿に任命したケルン司教枢機卿を異端審問により殺そうとしている。
さて、どんな難癖を思いついたのだろうか。
「――私はケルン派が宗派の起こりからずっと、何を探しているのか、何を求めているのか、何に辿り着きたいのかにすら気づいてしまいました」
どうでもよいこと。
暴力教皇ユリアは狂っている。
信仰に狂っている。
彼女はかつて、教皇軍という強力な力を持ちながら、私と父が帝都ウィンドボナに監禁されているにも関わらず助けてくれなかった。
聖職者は、仲裁はしてもその暴力を皇帝位の争いに使うことを良しとしないと。
そのような事を、都合が良い建前や言い訳ではなく、本当にそう信じているから関わらなかった。
そうだ。
本当に心底何の疑問もなく、そのように考えているのだ。
その結果、本当に何の罪もない私の父親が飢え死にしても、それは神の意志であるから受け入れろとほざく。
私たちを助けることぐらい簡単に出来た癖に。
私は奇妙な好意をテメレール公に感じているのとは逆に、この教皇ユリアは吐き気がするほどに嫌いであった。
皇帝としての仕事があるから、仕方なく付き合っているだけだ。
ただ――
「私はケルン派の在り方には敬意すら抱いております。彼女たちには彼女たちの贖罪主像があり、その信仰は人々に救済を与えるのかもしれません」
不愉快な事に、この教皇ユリアの能力自体は高かった。
ありとあらゆる聖職者が争うコンクラーベにおいて勝ち上がったのは眼前の彼女であり、ルール無用の殺し合いにおいて、生き残ったのは彼女であるのだ。
さて。
そろそろ、この教皇に喋らせるのも不愉快になってきた。
「要点を話せ」
お前がどれだけケルン派に対して悪意を抱いていないことを話したところで、必要があるから異端審問を仕掛けて殺すんだろうが。
それを一々、これは仕方のない事だとか、くだらない戯言をほざいて理論武装するのは不愉快であった。
殺すのならば、ぐだぐだ言わずに殺すべきであった。
「私の話を聞いていただけませんか。マキシーン皇帝陛下」
「ケルン派を異端審問し、ケルン司教枢機卿を殺したければ勝手にすればよい。よいが、私は手伝う気などない。お前から話を聞いたところで、私が言うべきことなどこれだけだ」
抗いたいものが勝手に抗い、あのテメレール公がケルン派と組んで私に立ち向かうというならば、むしろユリアよりも好感を抱く事ができる。
それで彼女たちが私の屍の上に立ち上がり、モンゴルと闘うというならば。
それが神聖グステン帝国の正当な意思と認める事さえしてやろう。
そこまでやっても――どうせモンゴルには負けるがな。
「私は手伝わない。各々は好きな道に行き、好きなようにすればよい。敵も味方も」
そうだ。
この教皇は私の父親を見捨てた。
そして、私は別に自分の破滅など恐れていない。
ならば、コイツを助けてやる必要などどこにもないのだ。
「ケルン派についての話は最後までお伝えしたかったのですが、皇帝陛下の耳には届かないようですね。わかりました。私は私なりに行動を起こすことにしましょう。まずは手始めに、ヴァリエール・フォン・アンハルトを始末します」
「……ヴァリエール?」
はて、何故その名前が?
アンハルト選帝侯の第二王女の名前と思われるが、その名前が出てくる理由がわからない。
処分するのはケルン派ではなかったのか?
「アンハルトの第二王女殿下、ヴァリエールが帝都ウィンドボナに向かってきているのは御存じでしょうか?」
「知っている」
千人の旅団規模にて、アンハルト王都から出発したことは諜報網から伝わっている。
それがどうした。
「その際に、ケルン派が何か大事なものを――聖遺物にも等しい物を、旅団と共に運んできているようなのです。また、ケルン派の聖職者を帝都に大量に導き入れようとしている」
「……それで?」
仮にそれが本物の聖遺物だとしたところで、何の価値もない。
この世には魔法があり、奇跡もあるが、聖遺物が何か恵みをもたらした実例などはない。
あれは聖職者の宗派や教会の面子、寄付金集めの見世物としてあるだけだ。
「ケルン派への異端審問、その前哨戦を行うこととします。今帝都に拘束されて身動きがとれないケルン司教枢機卿、彼女が兵力をかき集める前に、そして聖遺物にも等しい何かを手にする前に。ヴァリエールの旅団を始末せねばなりません」
そして、と一呼吸だけおいて。
いつもの無表情ではなく、本当に何か純粋な好奇心を持つ人間性を見せて、呟いた。
「ケルン派の聖遺物に等しいものが何か、気になっておりますし」
はて。
このいけすかない教皇ユリアとは長い付き合いだが、このような表情を見せた事があったろうか。
私は気になったが――その時、教皇はすでに元の無表情に戻っていた。
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