第84話 祝福されますように

自分の非才な身が、酷く憂鬱であった。

何もできなかったのだ。

何もだ。

ミハエル殿が、歌っている。

甘く蕩ける様な、甘美で、官能的なソプラノで。

これが人生最後の曲であると、声高らかに歌っているのだ。

私が今回の事件において、与えられた立場は。

全ての、この事件解決に対しての見届け人である。

ポリドロ卿が仰られたのだ。


「ミハエル殿が、私の許可が降りるまで自害しないように。歌い続ける様に。最後まで見張っていて欲しい」


そう私に言い含めた。

だから、私が最後にできるのは、ミハエル殿の歌を聞き続ける事である。


「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」


ミハエル殿が、もはや狂うたように歌っている。


「世の罪を除き給う神羊」


ひたすらに歌っているのだ。


「彼等に永久に安息を与え給え」


これは、私への罰と言えるだろう。

今回の事件において、何も為し得なかった私への、罰だと理解していた。

ポリドロ卿のような深い思慮と、その発想に届かぬ、ヴェスパーマン家への罰。

これから死に行く、ミハエル殿の姿を眺めながら。

私はただ、この事件の終わりを待つのだ。

やがて――。

ひっそりと。

それでいて、ミハエル殿にはっきりと判るように。

リーゼンロッテ女王陛下とポリドロ卿が、ミハエル殿が歌うローズガーデンへと、姿を現した。


「ミハエル、死ぬつもりか」

「さようでございます。リーゼンロッテ女王陛下におかれましては、気を取り戻されたようで安心しました」


これで、何もかもが終わり。

ミハエル殿が、女王陛下の様子を眺め、その姿が安寧を迎えたと確信し。

その笑顔を迎えた時を以てして。

ミハエル殿の自裁が、確定したのだ。

今頃、放浪民族の座長は自裁をしているであろう。

もはや、どうでも良い話であるが。


「本当に――死ぬつもりか、ミハエル」

「そうなります。おさらばです、リーゼンロッテ女王陛下」

「ならば最後に一つ、小話を聞いていけ。ロベルトが生前、呟いた事についてだ」


あっさりと。

死を望んでいる、ミハエル殿の様子に気遣う事は無く。

あっさりとリーゼンロッテ女王陛下は、ロベルト様に関する一つの小話を口にした。


「私は以前、三人目の子が欲しくないかと。ロベルトに対して聞いたことがあった」

「ほう」


それはミハエル殿の興味を、少し惹いたようであった。

それがどのような話であれ、ミハエル殿は、ロベルト様の事であれば聞きたがったであろうが。


「もう、要らぬと言われたのだよ」


リーゼンロッテ女王陛下は、少し痩せ細った姿で。

幽玄の様な、消極的な美に溢れた姿で、小さく、それでいて皆に聞こえる様に呟いた。


「男の子が、一人欲しかった。だがミハエルが居るから、もう要らぬ、と」

「――」


ミハエル殿が、少しだけ肩を動かして反応し。

それでいて、拍子抜けしたような表情で、答えた。


「それだけでございますか?」

「それだけだ」


何故、死を迎える私に対して、そのような事を話すのか。

――その時のミハエル殿は、そういった疑問を抱えたようであった。

だが、どうという事も無いと。

ミハエル殿は、そう感じた様子で、口を開く。


「本当に、それだけの話でありますか?」

「それだけなのだ。お前が死を望んでいる事は、以前から知っている。死にたければ死ぬがよい。さらばだ、ミハエルよ」


女王陛下は、あっさりと、ミハエル殿の死を平然と口にするのだ。

酷く、冷たい人だ。

その時は、そう感じた。


「それだけであれば、おさらばです。リーゼンロッテ様、ポリドロ卿、そして、ヴェスパーマン卿」


それに対し、ミハエル殿も同様に、酷く冷たく答えたと思う。

ポリドロ卿は、酷く顔を苦渋に顰めていた。

どうにも、その後の展開を読めていなかったようなのだ。

ポリドロ卿は直情的ゆえに、人の心を時に激しく動かすであろう。

だが、変じてそれは、策略などにはとうと向かぬ。

そういったお人柄であるのだ。

だが、ミハエル殿はそれを好んでいたのであろう。


「おさらばです。ポリドロ卿。最後に貴方に御会い出来て、私は幸せでありました」


笑顔で、ポリドロ卿に言葉を投げかける。

ポリドロ卿が、コクリと頷く。

それに別れを告げ。

ミハエル殿が、自らの心臓を突こうとする。

ロベルト様から、子供の頃に与えられ、自らの母親を突き殺したというナイフであった。

だが。

私は少しだけ、空気というものが、今回の事件を通して、読めるようになったのだ。

ミハエル殿は。


「――」


自らの心臓を、もはや貫く事ができない。


「――何故」


嗚呼、そうだ。

呪っておられるのだ。

リーゼンロッテ女王陛下は、呪っておられるのだ。


「御慈悲をもて我を救い給え!」


悲鳴のような歌であった。

ミハエル殿が、レクイエムを歌う。

その歌声は、もはやソプラノではない。

男と女の声が相混ざった、全ての人なる悲鳴そのものであった。


「主よ、我祈祷(わがいのり)を聴き容れ給え!!」


ミハエル殿は、神など信じていない。

上っ面の、信仰だけを張り付けていた。

それは自分に対し、民族差別や迫害などを許した神などではなく、もはや別なるものを信じていたからだ。


「御前に俯伏し灰の如く碎かれたる心をもて、偏に希い奉る」


たった一つの、自分を救い、自分の総てを肯定してくれた。

たった一つの存在。


「嗚呼、我終遠(わがおわり)を計い給え」


ロベルト様の存在を以てして、リーゼンロッテ女王陛下は、ミハエル殿を呪っておられた。


「――」


死ぬことなど、許さないという呪いである。

祈りの言葉を何度も口にし、その心臓をナイフを突き刺そうとも。

ミハエル殿は、自らの心臓を突き立てる事が出来ない。

悲鳴が上がった。

男の声でもなく、女の声でもなく、だが、それゆえに全ての人の心を搔き乱す言葉であった。

自分の心臓ではなく。

ミハエル殿は、リーゼンロッテ女王陛下に、手にしたナイフの刃先を向けた。


「貴女は! 貴女という人は!!」


ミハエル殿の悲鳴に対し、女王陛下は、何も言わずに無表情を返す事で告げた。

先ほど女王陛下は一言、たった一言を呟いただけで。

リーゼンロッテ女王陛下は、呪っておられたのだ。

ロベルト様の望みを断る事など、許さないと。

ロベルト様の愛息たるミハエル殿は、この先の人生に幸せを見つけるべきであり、自裁することなど許さないと。


「女王陛下といえ、あのロベルト様の愛した女とて、許される事と許されない事がある!! 何故、あのような言葉を呟いた!! 私が、私があのロベルト様の息子であるなどと――」

「奇遇だな、ミハエル。私にも許せない事があるのだ。ああ、天地がひっくり返っても許されぬとも。あのロベルトの、お前への祈りを無視して。何もかも判らぬまま、お前への愛情を理解せぬまま、ロベルトの許へ行くなどと」


知ってしまった以上、自殺はできない。

ミハエル殿に対し。

リーゼンロッテ女王陛下は、静かに呪いの言葉を呟いたのだ。

お前は、お前が愛したロベルト様の愛息であると。

ミハエル殿は。

ミハエル殿は、自分の総てを肯定してくれた、自分の総てを愛してくれていた、と。

ロベルト様の息子であると認めた、その自身に対して。

その心臓に、ナイフを突き立てることができないのだ。

ロベルト様ならば何があっても、その愛息の死など望まないと。

ミハエル殿は、それを理解してしまったのだ。


「貴女は嘘をついている! ロベルト様が、そんな事を仰ったはずがあるまい! 私を死なせたくないなどと、身勝手な判断で嘘をついた!!」


悲鳴が続いている。

ミハエル殿の、何もかもを呪う悲鳴が続いていた。

自然、頬に涙が零れ落ちた。

ミハエル殿が、何をしたと言うのであろう。

死なせてやれと思うのだ。

この場を用意したポリドロ卿でさえ、リーゼンロッテ女王陛下には何も言えなかったと思うのだ。

ミハエル殿は、何か悪いことしたか?

この世に対する罪悪を働いたか?

被差別民たる放浪民族として生まれ、その放浪民族の旅団が手にする路銀を稼ぐために「要らぬ」と言われ睾丸を摘出され、女とも男とも判らぬ、酷く甘い、官能的な声色。

「たかがそれだけ」のために、その人生を奪われた人。

それを救ったロベルト様に、その復讐を認められ、これからの生を肯定され、たった2年もしない内に喪ってしまった男。

それも、自分と同じ民族の手によって。

地獄ではないか。

この世の地獄を生きてきたミハエル殿など、もう死なせてやれ。

リーゼンロッテ女王陛下でもなく、当然、この世の理屈を、空気を理解できなかった私などでもなく。

酷く、お優しいポリドロ卿ですらなく、当然、放浪民族など皆死んでしまえば良いと思っていたアンハルトの領邦民たち。

それですら、全てを知る人であれば、同じ慈悲を与えると思う。

それが、先ほどもミハエル殿が口にした。

その一句を諳んじる。


「……我終遠(わがおわり)を計い給え」


悲鳴そのものを、信じてもおらぬ神へと願った言葉なのだ。

死なせてやれ。

そう思う。

いや、願いすらしよう。

私は涙を一筋、頬に流した。

ミハエル殿の心など、今まで一度も考えた事すらないヴェスパーマン家の次女。

いや、かつて長女であった、あの気狂いザビ―ネですら、こう女王陛下に嘆願しよう。

もう、死なせてやれと。


「嘘などついていない」

「嘘だ! 貴女とて、この世に一人でもう生きたくもないから、その道連れを!!」

「私には、もうポリドロ卿がおる」


告白であった。

ポリドロ卿に対する、愛の告白であった。

私はそう感じたが、同時に理解もした。

それすら女王陛下は、ミハエル殿の死を食い止めるための呪いに利用しようとしていた。

ミハエル殿の奥底に眠る感情、激発を煽ろうとしていた。


「何度でも言おう。私にはポリドロ卿がいるのだ」

「ロベルト様は!」


怒りに満ちた声であった。

ミハエル殿は、それを発しながら、女王陛下に詰め寄ろうとする。

だが、出来ない。

あまりにも――。


「私の心の底には、ロベルトがずっといる。死ぬまでこのままであろう。いや、天国に行こうが、地獄に落ちようが、このままである。私は、ファウストに。ファウスト・フォン・ポリドロへの好意を抱いてなお、片時もロベルトの事など忘れた事はないのだ。愛欲すら、綯い交ぜしておる」


あまりにも、リーゼンロッテ女王陛下は、全てを告白しておられた。

全てが本音であると、誰もが理解できる声であった。


「私は、ロベルトを愛した故に、お前に呪いの言葉を吐いている。どうしても、そうせざる得ないのだ。お前は、ロベルトを愛していたか」

「貴女に、何が!」

「私は愛していた。何度でも言う。ずっと、このままだ。もう、何もかもがずっとこのままだ。私はこの世の何もかもが憂鬱と感じていた少女時代に、ロベルトと会った。どうも他の侍童に馴染まぬが。じゃあ嫌われているかと言うと、そうではない。その長身で筋骨隆々の容姿を馬鹿にされているかと思えば、その揶揄に本気で相槌を打って同意するような者が見つかろうものなら、さっきまで侮蔑の声を発していた者が激怒を始めると言う」


理不尽そのものの存在。

母親に聞けば、今考えてもよく判らぬが、素敵な人物であったという。

自分があの風貌を愛情混じりに揶揄するのは良いが、他人に言われると酷く腹が立つ。

そう人に思わせる人柄であったと。


「わけもわからぬ男であった。酷く、人間的魅力に溢れた男であったのだ。ああ、そうだな。私はロベルトとファウストが似ているかと思ったが、やはり違うのだな。そう、違うのだ。それぞれに良いところはあれど、違う人間なのだ」

「――陛下」

「私は、どちらも愛する事にした。今までの人生も、これからの人生も、何もかもをそうする事にしたのだ。まあ、お前もそうしろとまでは言わぬよ」


語り。

リーゼンロッテ女王陛下が、その理念も、本音も、嘘も、ロベルト様への愛も、ポリドロ卿への愛も。

何もかもを綯い交ぜにした語りであった。


「言わぬが。お前も判っておろう。ロベルトは、お前の死など、何があろうとも望んでおらぬのだ」

「私は、もう、何もかもが、嫌に――」

「幸せになれ。ロベルトが、天国で望んでいる事は、たったの一つだけであるのだ」


魔法使いでない、それでいて、そこら辺の魔法使いなど束になっても叶わぬ。

神聖グステン帝国選帝侯、アンハルト女王としての存在の総て、慈愛の総てを込めた。

たった一つの呪い語りであるのだ。


「ミハエルが祝福されますように」


もはや死にたいと望むミハエル殿に対し、ロベルト様に対し、人生の総てを縁とした男に対し。

何もかもを失った男に対して。


「ロベルトは、それだけを望んでいるだろう」

「……何も残っていない」


悲鳴。

祝福の言葉が、その呪いが、何に通じよう。

生きたところで、今後何が得られるのかという悲鳴であった。


「私に、何が残って――」

「私は一つの決意をした。お前にだけは一つ、後で話そうと思うのだ。この場では、話さぬがな。その一つの決意を聞くが良い」


私とポリドロ卿。

その二人に目をやりながら、リーゼンロッテ女王陛下は微笑んだ。

今まで、目にしたことの無いような、緩やかな微笑みであった。


「何もかもが。これ一つで、何もかもが救われるような気がするのだ。まあ。世間の誰にも理解できぬかもしれぬが。心待ちにしておれ」


二人に目をやった、と言いはしたが。

実際の所、私には少しばかり視線をくれただけであり、後はポリドロ卿に視線を固定している。

何もかも、さっぱりとしたような笑顔。

まあ、結論として。

リーゼンロッテ女王陛下は、この場を支配したのだ。

ポリドロ卿が密かに願っていたであろう、ミハエル殿の命を救う事。

ミハエル殿による死への嘆願を一時取り除く事。

私、ヴェスパーマン家が立会人として望んでいる、この事件の真なる解決を。

少なくとも一応において、リーゼンロッテ女王陛下は為されたのだ。

ならば、私が何かを立会人として呟く事など許されぬ。

このまま、ミハエル殿が祝福されますように。

少しばかり空気が読めるようになったマリーナ・フォン・ヴェスパーマンとしてはただただ、それを望むのであった。

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