第75話 ミハエルについて

歌が聞こえる。

アリア(独唱曲)であった。

王宮の庭全体に、その歌が響き渡っているのだ。

背筋がぞくっとした。

恐怖や、不快によるものではない。

しかして、感動や喜びによるものでもない。

何と言えばいいのか、この歌手はどのような意思を込めて歌っているのだ?

よく判断が出来ない、その困惑によるものである。

あえて表現するならば――怒号混じりの嘆きに聞こえる。

前世での聞き覚えがある。

誰もが、一度は耳にしたことがある曲であった。

夜の女王のアリア。

歌劇『魔笛』において、夜の女王によって歌われる『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』であった。

だが、作曲者たるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、まだこの世に産まれて落ちていないはずであるが?

いや、仮想モンゴル帝国と、トクトア・カンの出現は遅れた。

ならば、彼、いや、この世界では彼女かもしれない存在が早まって出現していても、おかしくはない。

だが、どうでもよいことだ。

武人である私の立場を考えると、モーツァルトと関わる事は生涯あるまい。

しばし、待つ。

ミハエルという、17歳の青年の姿――いや。


「青年?」


声はソプラノ、女声の最高声域を発している。

背はそこそこだ。

全体的に男の背が150~160しかない、アンハルトにおいては珍しかった。

170cmはあるだろう。

だが、その身体はやはりアンハルトの男であり、酷く細かった。

ちゃんと飯食ってるのか?

まあ、この異世界は剣と魔法のファンタジー世界であり、女性が男性を上回る力を容易に発揮する世界である。

あまり、外見のみで判断してはいけない。

身長2m超え、体重130kg、そのスペックは見たまんまの私が言う事ではないが。


「ふむ」


背こそあるが、容姿は女性に近い。

男性ホルモンが足りていないせいだろう。

酷く美形で、アンハルトの女性から見れば、男性の理想像と言ってよいだろう。

まあキンタマ無いそうだけど。

この男女比1:9の狂った世界で、誰が男の子を去勢しようなどと思うものか。

常軌を逸している。


「ミハエルは、9歳の頃に去勢されたそうだ」


リーゼンロッテが、私の横で呟く。


「各国を渡り歩く放浪民族でな。母親達に連れられ、あの素晴らしい声だけで金を稼いで旅をしていた。どこに行っても評判が良かったそうだよ。歌だけはな」

「はあ」

「だが、まあ放浪民族への対応など何処に行っても酷いものだ。先に言ったように歌や踊りだけは評判を得たが、何処に行っても国や町から、叩き出される」


旅芸人すら寄らぬ我が小さな辺境地、ポリドロ領。

ウチには何の関係もない話であるが。

ふと、放浪民族が自分の領地を訪れた場合の対応、それを考える。

――駄目だな、ウチでも叩き出す。

信用が出来ないし。

これは放浪民族に限った話ではなく、そも放浪者への扱い自体がそうなのだ。

定住する地を持たず、財産の全てを持って逃げる事の出来る人間に、何の信用がおけるというのか。


「改宗し同じ宗教になれども、所詮は放浪者。独特の文化を持ち、我らと融和せず、信仰においては上っ面。窃盗を当然の事のように行い、人食いの噂まである。まあミハエル自身が悪い事をしたわけではないが、放浪民族は信用できん」

「そうですね」


同意する。

先ほども言ったが、数日ばかり娯楽を提供してもらった後、多少の報酬を与えて笑顔で叩き出す。

出て行かねば、豚の餌になってもらう。

それ以外に、領主としては対応できん。

前世の知識としても、母マリアンヌからの教えとしても、放浪民族は信用に値しない。

この一介の辺境領主騎士に、世界地図は手に入らぬのだが。

元々は遥か東方から、この神聖グステン帝国に訪れたと聞く。


「彼女達は何故、わざわざ異国から西方に来たのであろうなあ。祖国はあったろうに」

「判りませぬ」


前世の放浪民族と、この世界の放浪民族とは全く異なる話だが。

前世においては、ヒンドゥー教における下層カーストだったから逃げ出してきたのではないかという説があるが、一説にすぎぬ。

正直、前世においてもよくわからぬルーツである。

この世界では研究など誰もしてないであろうから、判るはずがない。

だがまあ、不遇の出自か経歴である事は間違いないと考える。


「まあ、それはどうでもよい。ミハエルの事だ。ロベルトが、自分の歳費で歌劇場を作りたいと言いだしてな」

「はあ、芸術家を保護されようとしたのですか?」

「そうだ。市民への娯楽の提供なども理由である。そこで、ロベルトが提案したのよ。歌劇場の従業員に放浪民族を雇用し、アンハルト王国における放浪民族の定住化を考えてみないかと」


困惑の表情で、リーゼンロッテの顔を見る。

何考えてたんだよ、ロベルト様。

リーゼンロッテは、私の表情を見て苦笑した。


「ロベルトは妙なところというか、優しいと言うか、変なところというか、なんというか。時々、妙な事を言いだす事があった。放浪民族に人道的な同化策を考えたのだ」

「上手くいきましたか?」

「正直、何とも言えぬ。上手くいっているのか、いないのか。十分な待遇は与えているのだが。まあ、王都から逃げ出してはいないし、腕や首を刎ねるほどの悪さをしたとも聞かぬ」


それは上手くいっていると考えても、よいレベルではなかろうか。

前世においてはある「女帝」が、定住化政策を行ったが。

同化政策への反発と、その文化への不理解から定住化には失敗しているのだ。

とはいえ、まだ数年だから成功しているかどうかといえば、微妙だろうがな。


「ロベルトがミハエルの境遇を知ったのは、7年前であった。歌劇場の建設準備が整い、放浪民族を誘引し、王都へと集めた。そこでミハエルと出会った」

「激怒されたのですか?」

「太陽のように優しいが、酷く気の短い男であった。少し趣が違うが、直情的なところはお前そっくりであったよ、ファウスト。お前の言うとおり、大激怒した」


この世界、男は保護される立場にある。

数が余りにも少ない。

だが、ミハエルはその睾丸を母の手により摘出され、去勢されたと聞く。


「ミハエルの母は言ったよ。男娼にするしても、何の病気を持っているかもわからぬ放浪民族の男なんぞ、どこに行っても売れぬ。その子を孕みたいと思う女もおらぬ。幸い、我が集団の男種は足りていた。所詮は資産の一つに過ぎない息子だ。この声を維持するために、より稼ぎ手として役立ってもらうために、去勢した。何が悪いと」

「……ロベルト様は?」

「嵐のように怒り狂い、その場でミハエルの母を殴り殺そうとした」


そりゃ殺すわ。

私だって殺す。

続きが気になる。


「結末は?」

「まあ、園芸で鍛えた力で叩きのめした後に、ミハエルに尋ねたよ。君はどうしたい?と」


ミハエルの歌う『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』は、その歌の聞かせどころといってもいい何度目かのコロラトゥーラに入っている。

黙って、リーゼンロッテの次の言葉を待つ。


「……ミハエルは、我が手による復讐を、と答えた」

「自分の手で殺したのですか?」

「そうだ。当時10歳であった。ロベルトは、幼い少年に親殺しをさせることを躊躇った。酷く悩んだそうだが――最終的には自分の腰にぶら下げたナイフを与え、それを認めた」


壮絶な結末といっていい。


「ミハエルは、自分の母であった女の心臓を一突きにした。それでミハエルの復讐は終わり。その後は、一度言った通りだ。ロベルトが酷く憐れみ、その後の人生を心配して王宮に引き取った。ロベルト専属の侍童兼庭師としてな」

「今、歌っているのは? 庭師と聞きましたが」

「母は憎めど復讐は終わった。そして歌が嫌いになったわけではないそうだ。ロベルトがバラ園で練習する事を許してな、たまに王都の歌劇場で歌う事もあるのだ。今は次の歌劇の練習中だろう」


大体の事情は掴めた。

ロベルト様は酷く変わり者だが、近世的視観の持ち主で。

その性格は、多少違えど私に近いところがある。

そしてミハエルの人生には、憐れむものがある。


「まあ、とにかく話しかけようか」

「歌が終わってからでいいです」


今歌っている曲名は、皮肉な事にその人生に酷く相応しいものであった。

聞け、復讐の神々よ、我が呪いを聞け!

ミハエルの歌。

その歌詞は、少しばかり前世のそれと違った。

そんな事を考えながら、私とリーゼンロッテ。

そしてミハエルの声に聞き惚れているマリーナの背を叩き、三人してミハエルに近づいた。











「女王陛下におかれましては、ご機嫌麗しく」


ミハエルはその美しく甘い、官能的な声で呟いた。

なるほど、前世では聞く事のできなかったカストラートの声とはこういう物なのか。


「ロベルト様の暗殺事件における、再調査を行われると聞きました。是非、協力させていただきたく」

「もう見つからんさ。なに、今回は心残りの解消に来ただけだ」


リーゼンロッテは、少し寂しい声で答えた。

そして、横にいる私を紹介する。


「ミハエル。お前が会うのは初めてであったな。ファウスト・フォン・ポリドロ卿だ」

「王宮にて、ヴァリエール様に会いに来るのを何度かお見かけしました。よくロベルト様に似ておられます」


そんなに似ているのか?

さすがに、私のような巨躯の持ち主は二人とおらぬと思うのだが。

そういえば以前にヴァリエール様から、一度だけよく父上に似ていると言われたことがある。

外見ではなく、雰囲気が、とのことらしいが。

ロベルト様が亡くなられた当時といえば、私は初陣にて山賊を殺していた頃である。

王都に行った事は無く、当然一度も御会いした事は無いので、よくわからない。

ミハエルが、私の顔をじっと見る。


「何か?」

「いえ、本当に似ておられます。ポリドロ卿」

「ファウストで結構です」


私は、にこやかに笑いながらミハエルに手を出す。

ミハエルはその手を握り返した。


「……本当に、よく似ておられます。ロベルト様の手も、園芸や農業による豆でゴツゴツしておりました」

「はあ」


ミハエルは華奢なように見えたが、その手は園芸による豆ダコがついており。

腕には、バラの棘を引っかけたような傷があった。

庭師というのは本当であるようだ。

握手をほどく。

ミハエルは、その美麗な顔を陰らせながら、昔を思い出すように呟いた。


「何故、ロベルト様は何故死んでしまわれたのでしょうか。何故あの時、女王陛下は私の死をお許しにならなかったのでしょうか」

「ロベルトに付き添うために死にたいという、あの嘆願の事か」


死の嘆願?

殉死の概念は、この色々入り混じった異世界ファンタジー世界にも無かったと思うのだが。

フェイロンの東にあるであろう、列島ではあるかもしれんがね。


「認められるわけがなかろう。そのような事を死んだロベルトが望む物か」

「私は、ロベルト様に救われました」


ミハエルが、ポツリと呟く。


「私のために、怒って頂きました。私の復讐を、肯定して頂きました。私に、人間としての生を与えてくださいました」


ミハエルの声に、震えが混じる。


「私は母を、この手で殺しました。きっと地獄に落ちるのでありましょう。ですが、天国と地獄に別れるまでの、その黄泉路においてはロベルト様に付き添えたかもしれませぬ。もう遅いですが。私は――」


酷く甘い、官能的な声色で嘆いている。

決して涙をこぼす事はなく、その震え声も強引に抑えようとしていたが。

その声は、どこまでも悲しそうであった。


「私は、あの時死にたかったのですよ。リーゼンロッテ女王陛下」

「何度でも言おう、ロベルトはそのような願いを喜ばぬ。天国で今頃、死から5年経っても全く成長していない事を嘆いているだろうさ」


男が、そう嘆くものではないと言いたいところであるが。

ミハエルの人生を知ってしまったからには、なんとも言い難い。

リーゼンロッテが、慰める様に優しく語り掛ける。


「ミハエルよ。当時の事は覚えているか。ロベルトが死んだあの日の事だ」

「忘れるわけがありません。あの日の夕、ロベルト様がいつものバラ園の散歩に向かわれました。私は他の侍童と一緒に茶と菓子の準備をしておりました。いつもより帰りが遅いため、私がロベルト様を迎えに行こうかと悩んでいたところ、バラ園からヴァリエール様の悲鳴が」


第一発見者がヴァリ様なのは変わらず。

そしてミハエルに現場不在証明があるのも、変わりはなし。

さて、どうしたものか。

推理ものならばミハエルを疑ってかかるところであるが、これは現実である。

今の話を聞くに、ミハエルがロベルト様への悪意を抱いていたとは到底思えず、私の直感でもミハエルが犯人等とは感じられないのだ。

駄目だな、何も変わらん。

調査の進展はない。


「ロベルト様には、私以外にも4名の侍童が専属で付いておりましたが。5年の間に行儀見習いを終え、領地に帰ってしまいました。内1名は、リーゼンロッテ女王陛下が重用なさっている実務官僚の夫となり、王都におられますが。呼びましょうか? 今でもたまに会います」

「いや、結構だ」


可能な限りの全ての調査をやり直すつもりではあるが、期限は一か月しかない。

そこまで無罪が明確であれば、追及する意味は無い。


「ミハエル、少しばかり話がしたい。バラ園のガーデンテーブルに来ないか?」

「判りました、茶と菓子を用意してまいります。しばらくお待ちください」


ミハエルが、その侍童としての正式教育を受けた優雅さで、私達に向かって綺麗な礼を行う。

さて、どこまで情報が入手できるかね。

本当にどうして死んだのやら。

私は天国にいるロベルト様に嘆息づくため、空を仰ぎ見た。

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