第73話 エウレカ!

血の小便が出そうだ。

マリーナ・フォン・ヴェスパーマンは地獄の苦しみを味わっていた。

もう、バラ園行きたくない。

行きたくないのだ。

この数日、女王陛下やポリドロ卿と一緒に、バラ園にて調査を行ったが。

マリーナは明確な失敗をしたことを自覚していた。

もう嫌というほどに理解した。

あそこまでポリドロ卿と私とで、露骨に態度を変えられれば、いくら空気が読めない私でも判るというのだ。

ポリドロ卿にはニコニコした顔で、全ての会話に朗らかに応じる女王陛下。

対して、私の言葉には全て否定的であり、たまに耳元で舌打ちをする女王陛下。

その舌打ちの度に、心臓と胃が引き攣りを起こして、血の小便を漏らしそうになるのだ。

というか、リーゼンロッテ女王陛下が完全に勝負服。

優雅なドレス姿で、その王家一族の自慢である赤毛の長髪によく櫛を通し、カモミールの匂いをふんわりと漂わせる。

最初に出会った時点で、アホではあるが聡い姉なら気づいて、ポリドロ卿に謝りながらもダッシュでその場を逃げたのではなかろうか。

いや、異常に勘が良い姉の事だ。

最初から、女王陛下の懸想に気づいたかもしれない。

あの面白そうな事には猿のような好奇心で首を突っ込みたがるザビ姉が、王配ロベルト様の暗殺事件に興味を示さなかったのを、私は理解すべきであったのだ。


「リーゼンロッテ女王陛下は、ファウスト・フォン・ポリドロ卿に懸想している」


その事実が横たわっている。

自分は空気が読めない子だと、ザビ姉に言われたことがある。

ザビ姉は品性と理性が払底しているじゃない、と言い返した事がある。

童の頃の事であった。

幼き頃の事を想い出しながら、泣く。

あの頃に戻りたかった。

何故、私は大人になってしまったのであろう。

何故、私は空気が読めないのだろう。

何故、ヴェスパーマン家はここまで追い詰められているのであろう。

何故、ザビ姉ではなく、愚かな私が当主になってしまったのだろう。

そもそも諜報統括なんて役目、空気が読めない私には無理だったのだ。


「全部、私のせいだ。私が馬鹿だから、こんな事になってるんだ」


自害してしまおうか。

いや、ここで死んでしまえば、それこそヴェスパーマン家はお終いだ。

妹に家督を譲ったところで、もはや済まされる話ではない。

ヴェスパーマン家はどうなるのだ。

私は家族や、雇用している使用人達の事を考えた。

私の肩には、ヴェスパーマン家の全てが懸かっているのだ。


「私がしっかりしないと。私が、しっかりしないと。ヴェスパーマン家が潰れちゃう」


ボロボロに泣きながら、水晶玉を見つめる。

魔法の水晶玉であり、通信機としての役割を果たす。

ヴェスパーマン家が、アンハルト王家のためにコツコツと数代かけて構築した情報網である。

アナスタシア第一王女殿下にお縋りする。

もはや、残された道はこれしかない。

アナスタシア第一王女殿下とは未だ連絡が付かないが、予定ではそろそろ道中の街に辿り着くはずだ。

街には諜報員を一人忍ばせていた。


「すでに連絡は済ませてある。諜報員は、必ずアナスタシア殿下に渡りをつけてくれるはず。きっと、そのはず。いや、間違いなくやってくれ――」


自分を落ち着かせるために、独り言をつぶやく。

知能は、産まれてこの方、かつてないほどに回転していた。

マリーナ・フォン・ヴェスパーマンは死ぬほど追い詰められていた。

もう自分が死ぬのはいい、自分が馬鹿なんだから仕方ない。

だが家を潰すことだけは、貴族として許されなかった。

繰り返すが、マリーナ・フォン・ヴェスパーマンは死ぬほど追い詰められていた。

それゆえに、知能は異常なまでの発達を短時間に遂げた。


「……私、間違ってなくない?」


ピンチはチャンス。

そんな言葉が、マリーナの頭に浮かんだ。

エウレカである。

古代の天才数学者が、形状の複雑な物体の体積を、正確に量るための手段を導き出した時の言葉であった。

まさにエウレカ!(見つけた!)である。

血の小便が出そうなほどに、死ぬほど悩みぬいた挙句の結論であった。

何も間違っていない。

そうだ、マリーナ・フォン・ヴェスパーマンは、何も間違ったことはしていないはずである。

水晶玉が光る。

通信機たる水晶玉が、魔法力を消費する代わりに通信を行う。


「なんだ、マリーナ。あまり諜報員を使うな。王家が諸侯の土地に諜報員を潜らせてる事が知られると、拙い。当然、諸侯も潜り込まれている事ぐらいは承知の上だろうが、表向きになると困るのだ。私がお前を見込んだのは、ヴェスパーマン家の諜報網が欲しいからであって、ハッキリ言ってしまえばお前個人としては空気が読めないところが……」

「申し訳ありません、アナスタシア第一王女殿下。至急、ご報告したいことがありまして」

「何だ。早く言え」


爬虫類じみた鋭い眼光。

将来アンハルト王家を継ぐものとしての、その威圧感は凄まじいものがある。

あの憤怒の騎士たるポリドロ卿ですら、アナスタシア第一王女の視線を受けると怯えている。

マリーナは、今までアナスタシア第一王女の前ではあえてハキハキとした受け答えをすることで自分を誤魔化してきた。

マリーナは、アナスタシア第一王女に心底恐怖していたのだ。

だが、今のマリーナの心は微動だにしない。

水晶玉越し、だからではない。

覚悟を決めたのだ。

マリーナ・フォン・ヴェスパーマンはこの時、血の小便が出そうなほどにまで追い詰められて、ようやく諜報統括たるヴェスパーマン家の当主として覚醒したのだ。


「リーゼンロッテ女王陛下が、ポリドロ卿に王命を下されました。内容は王配ロベルト様の、暗殺事件に対する調査です。ポリドロ卿は領地への帰還をお止めになり、王宮に滞在しておられます」


単刀直入に喋る。

マリーナはこの言葉だけで、英明な殿下であれば、全てを理解されるだろうと思った。

今まで、自分は空気が読めない馬鹿な女だと自嘲していたのだが。

全て、馬鹿馬鹿しい事なのだと、今になっては思う。

そう、マリーナはエウレカ(見つけた!)したのだ。

読むべき空気を見つけたのだ。


「……あの、クソババアが!」


殿下は激昂した。

当然である。

アナスタシア第一王女殿下とアスターテ公爵は、ポリドロ卿に懸想している。

それは情報として知っていた。

更に、ポリドロ卿はヴァリエール様の婚約者でもあるのだ。

邪魔して何が悪い。

私は何も間違ってはいない。

舌は、もはや自分の物ではないかのようにベラベラと回りそうであった。

アホではあるが演説の異才を持つ、家から放逐された、かつての姉ザビーネ・フォン・ヴェスパーマンのように。

もはや、ザビ姉と慕う事はあるまい。

ここに至ってマリーナ・フォン・ヴェスパーマンは、自分の姉ならば現状まで「読み切った」事にも気づいた。

怒りは覚えたが、まあ自分が愚か「だった」のだから仕方あるまい。

マリーナは、数分前の自分を酷く滑稽に思った。


「私は邪魔しました」

「何?」

「私は殿下のために、妨害工作を行いました。ポリドロ卿に対し、かつての姉であるザビーネに必死に渡りをつけるよう頼み込んで、調査に参加しました。ポリドロ卿はまだ純潔です」


嘘も方便である。

実際、やってる事は傍から見れば、妨害工作そのものである。

事実である以上、何の問題もない。


「もちろん、それには多額の費用が必要となりましたが……」

「よくやった! 金は補填してやる! クソババアの歳費からな!!」

「有難うございます」


マリーナは、ヴェスパーマン家が数代積み上げた貯蓄の半分を、ザビーネに奪われた。

これは恥ずべき事である。

だが、数日後にはちゃんと補填の目途を立てたのだから、御先祖様達がお怒りになる事はあるまい。

激昂するアナスタシア第一王女の前で、マリーナはゆるやかな笑みを浮かべた。


「いつお戻りになられますか?」

「一か月で帰る!」

「承知しました。ポリドロ卿の王配暗殺事件における調査期間も、丁度一か月であります。私はその期間、妨害工作を続けます」


何の事はない。

気付いてしまえば、簡単な事であった。

これからのヴェスパーマン家が忠誠を誓うのは、アナスタシア第一王女殿下である。

リーゼンロッテ女王陛下ではないのだ。

だが、それまではバランスが重要となる。

今はまだ、リーゼンロッテ女王陛下の時代である。

お怒りになられたリーゼンロッテ女王陛下が、私の首をお刎ねになる。

首を捻じ切られ、玩具にされてしまう。

それだけは避けねばなるまい。

妹はとてもじゃないが、諜報統括たるヴェスパーマン家の当主には就けないであろう。

スペアのスペアとして教育がおざなりになっており、能力が足らないのはもちろんある。

だが、それだけではない。

一言で言ってしまえば「ぬるい」のだ。

こればかりは、死ぬ気にならなければ辿り着けない境地であった。

なるほど、ザビーネがあそこまで異常に知能を発達させたのも、今のマリーナにはよく理解できた。

かつての姉は、初陣を経験することで変わったのであろうか?

推測にすぎないが、そうだろうと思う。


「マリーナ、お前変わったな」

「ええ、変わったと自覚しております。但し、間違いなくいい方向であると理解しております」

「よろしい。私ことアナスタシアは、お前に対する見解を修正しよう。お前は酷く優秀になった。諜報統括たるヴェスパーマン家の当主として、相応しい顔つきになった」


お褒めにあずかり、至極光栄です。

マリーナは頭の中だけで、その言葉に答えた。

ここで調子に乗れば、アナスタシア第一王女殿下は「そういうところが駄目なんだ」と激怒するのは判っていた。

マリーナは、確かにエウレカ!したのであった。











小娘が。

リーゼンロッテは激怒した。

マリーナを一目見ただけで理解したのだ。

コイツ、覚悟を決めて来やがった。


「おはよう、マリーナ」

「女王陛下におかれましては、ご機嫌麗しく」


リーゼンロッテは、マリーナへの心理的圧迫を一週間かけて行った。

いずれ血の小便が出て、ベッドの上で寝込むことになるであろう。

人心掌握術として、正の方向だけではなく負の方向においても、リーゼンロッテはよく理解していた。

あと一日も圧迫すれば潰れる。

マリーナは、バラ園から消えて失せるであろう。

もうすぐだ、もうすぐ美酒が手に入る。

ファウスト・フォン・ポリドロ卿という美酒が、この手に落ちる。

落ちるはずだったのに!

マリーナ・フォン・ヴェスパーマンは潰れるどころか、一人の貴族として覚醒を始めていた。


「まだファウストは来ていないが? 随分と朝早くから、私の部屋まで尋ねて来た理由を聞こう」

「アナスタシア第一王女殿下およびアスターテ公爵より、伝達がありました」

「ほう。聞こうではないか」


なるほど、アナスタシアと連絡をとったのか。

私はマリーナを睨みつける。

だがマリーナは、今までのビクビクオドオドした様子と違い、何を気負った様子もなく呟いた。


「首を洗って待ってろ、との事です」


実際には、その後にクソババア!とでも罵りが付いたのであろうが。

それを口に出さない程度には、この目の前のマリーナという女は空気が読める様になっていた。

今までのマリーナとは違う。

殺すか?

一瞬、殺意が芽生えるが、さすがに本当に殺してしまうのは拙かった。

マリーナが空気を読めないアホから、本当に優秀な人材として成長したなら、尚更な事である。

さすがに有能な人材を殺すのは躊躇われた。

一つ試そう。


「で、お前はどうする?」

「私は女王陛下にお仕えする身であります。リーゼンロッテ女王陛下の邪魔をするつもりはありません」


ここでアナスタシアに味方すると言うのであれば、この場で殴り倒して、そこら辺の空き部屋に転がしておくつもりであった。

ファウストには、今日はマリーナは休みのようである、とでも言えばよい。

だが、あくまで私の邪魔をするつもりはないと。

空気が読めるようになったようだな。


「ならば、消え失せろ。家に帰って寝るがよい」

「今すぐ、そうしたいところです。ですが、私にもアナスタシア第一王女殿下への立場という物がありまして」

「ふむ」


マリーナは、もはや私に心の底からの忠誠を誓ってはいまい。

忠誠のベクトルは、すでにアナスタシアに向かっていよう。

だが、そんな事はどうでも良い事なのだ。

本当に大事なのは、ファウストを手に入れるための邪魔を、この女がしないかどうかなのだ。


「あと少しだけ、時間をください。その後は殴り倒して、私をそこら辺の空き部屋にでも転がしてくだされば言い訳も立つでしょう」

「アナスタシアへの、お前の最低限の面子は立つと言う事か。私は娘に激怒されるであろうが」

「リーゼンロッテ女王陛下におかれましては、その辺りも織り込み済みでしょう? 私とて、アナスタシア様に役目を果たせなかった無能呼ばわりされる事を覚悟の上です。リーゼンロッテ女王陛下に抵抗したものの、敗れたという言い訳だけは立てさせてください」


その通りだ。

後でアナスタシアやヴァリエール、アスターテには激怒されよう。

だが知らぬ。

そんな事、もとより覚悟の上である。

ファウストさえ抱き落とせば、後は優しいファウストが私を庇ってくれる事まで計算に入れていた。

なるほど、なるほど。

悪くはない。

私は手を差し出した。


「お前の取引条件を呑んでやろうではないか」

「有難うございます」


マリーナは、私の手を強く握り返した。

些か、所詮は配下にすぎぬ小娘にしてやられた感は残るが。

そんな事は、もうどうでもいい。

私の目的は、ファウスト・フォン・ポリドロをこの手中におさめる事。

バラ園やベッドの中で、もうなんだか凄い事をするのだ。

もう一度。

もう一度、短い間でも良いのだ。

この手から離れてしまった太陽をもう一度、この手中に収めるのだ。

他人に知られれば、馬鹿げた事に労力を使っていると私を蔑む事であろう。

だが、私にとって、この行為は悲痛な祈りそのものであった。

ようやくマリーナが消えてくれる。

リーゼンロッテは、深く深くため息をついた。

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