第一話 『喪失』
浮かんでは消えていく思考回路、ざらついた初夏の空気が醸し出す不快感だけが、至って平常であった。
その感情は、私が今直面している状況を鮮明に認識させるに至らしめた。
ここは学校の教室で、それも授業の真っ只中で、今の今まで自分は呑気にも白昼堂々と居眠りをこいていた。
何たる羞恥だろう、常日頃真面目な人間として評価されるよう努めてきた…と自分では思っているのだが全くこれではらちが明かないではないか。
万が一嘲笑を誘うようなふざけた寝顔を晒していたら、陰口を叩かれたり妙なあだ名がついてしまうのではと不毛な考えを巡らす。
私の名前は知念のどか、「ごく普通の女子高校生」というのはあまりに使い回された言い回しだが、自身の人間性を現すのにこれ程適切な表現が思い浮かばないのだから致し方ない。
何か突出した才能がある訳でも無ければ、かと言って人より際立って劣っている所もない、成績は一般的、容姿も平均以上でもそれ以下でもない。
流行りの曲や食べ物を嗜み、学業や部活動に勤しみ、将来に対する漠然とした期待と不安を胸に抱えているそんな、どこにでもいる高校生。
強いて言えば陸上競技に傾倒しているのだから、体力には自信がある。
もっともこの特徴に関して、男性心理としては女性のか弱い一面に保護本能がくすぐられる物なのであって、男に体力で勝る女の需要など期待できないのではないかと、少々悲観的に捉えているが。
まぁそんな事はどうだって良いのだ、この退屈で空虚な時間を無事乗り切る事が出来たなら、夏本番の風呂上がりに冷房の効いた部屋でくつろぐような至福の時が待っているのだから。
何を隠そう、今日は若者を中心に人気沸騰中のヴィジュアル系ロックバンド、Luciferのライブに参加する当日だ。
V系は奇抜なルックスだけが取り柄などと侮ることなかれ、視覚のイメージに反さない強烈なキャラクター性がおり成す独特の世界観、ハードロックからポップスまでこなす楽曲の多様性、どれをとっても完璧と形容するに他ならない。
有名アニメとのタイアップも決まり、今まさに絶好調の彼ら、特に私がぞっこんなのはベースを担当している狩魔で、俗にいう推しと言う奴だ。
ミュージシャンとしての技量もさることながら、生粋の中二病という設定から垣間見えるメンバーとのコミカルな掛け合いに愛着がわいてたまらないのである。
しかし今か今かと待ちわびていると、無情にも時の流れと言う物は非常にゆっくりと進んでいるように錯覚してしまうのだから、出来るだけLuciferの事は頭の片隅に追いやるよう努めた。
そして退屈な授業と他愛無い瞑想の果てに、校門を軽やかにくぐりながらライブ会場というただ一点を目指すのだった。
閑静な住宅街を抜けると、都会と言う名の鉄くずで出来た森へと差し掛かる。
立ち並ぶビルや看板の群れは、目まいがする程鮮やかに各々を主張していて、それは絵の具をかたっぱしから混ぜ合わせたみたいに、どす黒く退廃的な印象を形成していた。
それに加え、人込みやら街宣車やらがかき鳴らす音が何層にも重なって、大変心地よくない音色を奏でているので、より一層不愉快であった。
眉を顰める私の右肩に不意に、柔らかい感触が被さる。
か細い指先の向こうに目をやると、丁度私と同い年くらいの少年が、ぜえぜえと息を枯らしながら今まさに何か伝えようとしているではないか。
前述の音があまりに騒がしかったので、その人にそうされるまで全く存在に気づかずにいたのだ。
彼は、三日三晩餌にありつけず衰弱した捨て犬みたいだった。
くっきりとした眉から程近い位置にある大きな瞳、筋の通った鼻と厚い唇はどれも所謂端正な顔立ちを形作ってはいるのだが、なかなかどうしてそのような不細工な印象が付きまとう。
というのも、その身なりが目に余るほど貧相なぼろ雑巾同然であった為で、私は即座に触れられた部分が汚れていないか確認した後、渋々彼の言葉に耳を傾ける。
「もうすぐ、この町にとてつもない災厄が襲ってくる!
化け物だ、ていうのは物の例えとか誇大表現なんてものじゃなくて、本物の、モンスター!
大勢人が死ぬ事になるんだ、皆を非難させなきゃ!」
あまりに唐突である。
神の導きとかご啓示だとか、そういう不確かな物を信じる人がいるとは聞いていた、それにしたって、何気ない世間話から入って相手の警戒心を解くとか、そういう段階を踏んでから畳みかけるのが基本ではなかろうか?
初対面の人に結婚を迫るくらいにこの人の発言はぶっ飛んでいて、恐いや不快やらの感情は吹き飛んでただ呆れるばかりであった。
「そういうの結構なので」
と捨てるように吐いてその場を後にする私だったが、状況は想定していた物より少しばかり厄介な予兆を運んでくる。
なにしろその少年、親の仇でも見つけたかのごとく執念深く私に付きまとうではないか。
来るもの拒まず去る物追わずというように、一度逃がした獲物は潔く諦めるのがせめてもの美徳ではなかろうか?
相手にするだけ時間の無駄であると悟ったので、あとは空気同然にあしらってやり過ごすのが得策であろう。
とはいえ、一方的に荒唐無稽な話を聞かされるというのも癪に触るし、不服ではあるがこうして同じ場所に居合わせ同じ時間を共有している以上、私からも何か話しかけてみる事にした。
言っておくが、彼の突拍子もない発言に興味を持ったとかでは断じてない。
これからしようとしている事は、ただ見知らぬ人とでも挨拶を交わすように、私にとってごく当たり前の事で、そこにある感情など何処まで行っても無関心のソレに過ぎない。
何を話しかけようか、いくつかの質問が頭に浮かんだが、最も当たり障りが無く無難なのはこれだろう。
「名前、なんて言うの?」
「俺?だよね…
霧也…塩ノ谷霧也!」
直後、それは突拍子も無く訪れた。
確かに爆発音だった、勿論人生で一度たりともそんな音を直に聞いたことはなかったが、それでもハッキリと断言することが出来た。
遠い国の凄惨なニュースで聞いたあの音と全く同じそれは、直前まで確かにあった私の色んな感情まで真っ新に吹き飛ばしてしまったようだ。
「まさか…こんなに早く来るなんて想定して無かった!
いかなきゃ!」
霧也と名乗った少年は、一目散に音のした方向にかけ出した。
根拠なんてものは無いが、ここで彼を追わなかったら、後悔とか悲痛といった類の後味の悪い感情が心に残るような感じがして、気が付くと私もその方向を目指して走っていた。
目的地まで迷わずたどり着くのは容易なようだ、何しろ大勢の群衆が逃げていく方向と逆方向に進めば良い訳で、それは同時に事態の異常さを色濃く反映していた。
どれくらいの距離を走っただろうか、余り覚えていない。
正確には忘れてしまったという表現の方が正しくて、何故なら私は目にしてしまったのだ。
崩壊した建造物、瓦礫の山、その中でうごめいていた。
自分の知る限り、こんな生き物は見た事がない。
強いて言えば二本脚で直立している事から人間に似ている、しかし決定的に違う。
気味の悪い芸術作品と人間とを、無理やり針と糸で縫い合わせたみたいな、悪趣味な造形をしたそいつの存在は極めて受け入れがたい物で、まるで夢の中の出来事のように実感が無くただぼんやりとその輪郭を捉えていた。
夢うつつを彷徨う私を揺さぶり起こすかのように、霧也の焦燥を含んだ声が響き渡る。
「やるしかないのかよっ!」
そう言うと彼は、速やかにズボンのポケットに手をやる。
気が動転しているのか、中の物を取り出すのに苦戦している仕草を見せた後、ようやくポケットから出した手に握りしめられていたのは注射器状の器具だった。
霧也がこれから何をしようとしているのか、推測するのに5秒と要さなかったし、私は生肉を食らうくらいに健康的配慮に欠けたその行為を全力で阻止しようとしたのだが…
「ああぁぁぁ!」
遅かった、彼は苦痛に叫び悶えたかと思えば一転、力なく首を前に垂らし枯れ木のように動かない。
その右腕に容赦無く突き刺さる注射針が、全てを物語っていた。
思った通りだ、素人が医療行為に手を出すなんて馬鹿げた事するから…いや待って、思ってたよりだいぶ深刻なんですけど?
ひょっとしてマジで死んでる?
声をかけようとした直後の出来事に、私は状況を飲み込めないばかりか危うく喉に詰まらせてしまう所だった。
何が起きたのか、ありのままを伝えるのであれば私は霧也に突き飛ばされた。
その男は、さっきまで自分だった物は死んだとでも告げるかの様に、冷たく淡々と語り始じめた。
「今置かれているこの状況において最善の行動を模索した結果、お前がそこにいる事があらゆる行為の妨げになるとそう結論付けた。
そして俺が感じている最大の疑問、この場で最も重要である事を今お前に問う。」
「俺は、誰だ?」
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