第83話




「己の世界に生きる理由——己のいるべき場所——それを見つけられなかったら、白い光になってしまうということ?」

 ときわは自分の中で何かがカチリとハマりそうな予感がした。もう後一歩で答えにたどり着けそうな感じだ。 

「今の僕にはここにいる資格がない。それは僕が繭の中から抜け出したから。ここは迷い子のための場所なのに、僕がいてはいけないということは、今の僕は迷い子じゃないということ」

 ときわは一つ一つ口に出して考えた。今までに貰った言葉はすべて大事なヒントだった。

「繭に入る前の僕と今の僕の違い。それは——」

 繭の中で、ときわは広隆がこの世界に迷い込んだ理由を知った。自分とは違うと思っていた兄の傷ついた心を知った。

 それを知って初めて、これまで広隆から与えられてきた愛情が本物だったと信じられた。広隆のような強い人間には自分の気持ちは分からないと決めつけて、どこかで受け入れることを拒んでいた愛情を素直に受け入れることが出来た。

 そうだ。広隆だけではない。母も祖父も祖母も、ずっと愛情を持って接してくれていた。劣等感や自己嫌悪でそれを受け入れることを拒んでいた自分が、勝手に自分には価値がないと思い込んで世界から逃げ出した。


 でも、違ったのだ。自分はずっと愛されていた。そして、必ず戻ってくると信じてここへ送り出された。

 信用されている。信じて待ってくれている人がいるから、元の世界に帰る価値がある。待っている人がいるから、帰る必要がある。

「——必要……」

 ときわは小さく呟いた。その瞬間、ときわの中でカチリと音がしたような気がした。

 心の中に幼い自分の姿が浮かんだ。兄が戻ってくるのを待っている小さな自分。もしも、あの時、広隆が戻ってこなかったとしたら、自分はどうなっていただろう。

(嫌だ。兄さんがいないのは——兄さんが消えてしまうのは嫌だ。僕には兄さんが必要だ。あの頃も、今も)

「僕もかきわも、元の世界に帰る必要があるんだ……」

 消えていった過去のときわやかきわ達は、このことに気付けなかったのか。元の世界を必要としている自分、必要とされている自分を見つけられなかった孤独な魂は、迷うことに疲れてこの世界の一部になってしまった。

(ああ、そうか)

 ときわは唐突に理解した。

(今、わかった。どうして人々が、この世界をマヨヒガと呼んだのか………)

 ときわは目の縁ににじんだ涙をぬぐった。

 この世界に迷い込んだときわとかきわがぐえるげるの森を目指す理由もわかった。

——その泉は、見る者にとって必要な場所を移すのだ。

 今の自分があの泉を覗けば、きっと元の世界が映るに違いない。元の遠野の光景が、そこで待っている広隆の姿が、映るに違いないのだ。

——その泉に飛び込めば、映った場所にすぐに行けるのじゃよ。

 ときわは目の前の白い空間をきっと見つめた。どこにいるかわからない少年の声に向かって言う。

「君の言う通り、僕はここにいるべきじゃない。僕はもう迷い子じゃないから。必要な場所を知っているから。僕はときわという名の迷い子じゃない。僕は、僕の名前は——広也だ。今掘 広也だ」

 こんなにもはっきりと自信を持って自分の名前を口に出したことはないと、ときわ——広也は思った。

 次の瞬間、強く背中を押されて、広也は体勢を崩した。そしてそのまま、急流に押し流されるように体が勢いよく運ばれていく。流れに逆らう暇もないまま、広也の目の前に丸い鏡が現れた。薄青くて、キラキラと光る丸い鏡——

(違う。あれは——水面だ)

 広也の体は水鏡に叩きつけられた。一瞬だけ、硬いものに当たったような感覚がしたが、痛くはなかった。ただ、急に息が詰まって苦しくなった。視界が白黒して、突然体がぽんっと投げ出された。次いで、背中と尻に衝撃と痛みが走った。


 呻きながら目を開けると、そこは真っ白な空間ではなかった。



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