第40話
「洞穴まで戻るのよっ、早く走ってっ」
そう叫んだ秘色の声に被さるように、後ろで声が上がった。
「緋色っ」
振り返ったときわは、地面に膝をついた少女に跳びかかる白い化け物を見た。
「緋色っ」
かきわが緋色に駆け寄ろうとした。
「ええいっ」
秘色が手に持った薪を思いっきり投げ付けた。薪は一匹の狒狒の目に命中した。耳障りな悲鳴が上がり、狒狒の群れは一瞬ひるんだ。その隙にかきわが緋色を抱き起こし、秘色は再びときわの手を取って走り出した。
ときわも必死で走った。後ろを見る余裕もなかった。薪を失ったことで生まれた「次はない」という思いが全身をつき動かしていた。
「見えたっ」
洞穴から漏れる明かりをみつけ、秘色が叫んだ。
「入って、早くっ」
四人は秘色、ときわ、かきわ、緋色の順で洞穴に転がり込んだ。ときわは胸を押さえてへたり込んだ。喉がぜいぜいとかすれた音をたてる。湯気でも立ち昇りそうなぐらい顔が熱かった。
「緋色っ」
かきわが悲痛な声を上げた。顔を上げて初めて、ときわは緋色の衣が真っ赤に染まっていることに気付いた。
緋色は右肩を押さえながら小さくあえいでいる。流れ出る血が茜染めの袴を暗い紅に染め変えていく。
「緋色っ、しっかりしろっ」
かきわの声に、緋色は心持ち顔を上げた。血の気を失った顔は真っ青で、息することさえ辛そうだった。
「かきわ……」
やっとのことで緋色はそれだけ口にした。だが、口の中にあふれた血のせいでそれ以上何も言えないようだった。
「しゃべるなっ。なんとかしてやるからっ。絶対助かるからっ」
そうは言うものの、かきわにもどうすればいいのかわからないようだった。
その時、秘色が緋色に歩み寄り、彼女の腰に下げられた朱色の鈴を手に取り、それをかきわに手渡した。
「これで、いいんでしょ」
秘色がそう尋ねると、緋色は安心したように頷いた。
その瞬間、緋色の全身が淡く輝き、あっと思う間もなく、彼女の姿は霧のようにかき消えた。
「緋色っ?」
かきわは慌てて辺りを見回した。ときわは茫然としてその様子を眺めていた。ただ一人、秘色だけが冷静だった。
「緋色は死んだのよ。巫女は死んだら消えてしまうの」
秘色の口調が、ときわにはひどく冷たく感じられた。
「そんなっ……」
かきわは呻いたっきり二の句が継げずにがっくりと肩を落とした。
「悲しむことはないわ。巫女は死んでもまたよみがえる。緋色も次のかきわを待つために霧の里によみがえる。あたし達は土に還ることを許されていないから」
「そんなことっ」
ときわは思わず声を上げた。
「悲しむななんてっ、ひどすぎるじゃないかっ」
ときわは両の手で顔を覆った。大粒の涙がぼろぼろと流れ出した。
緋色の死の悲しさよりも、人の死を目のあたりにした恐しさのほうが涙をあふれさせているのだということは、ときわだけが知っていた。
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