#9 ユズハの商売、立ちはだかる「極渦」

 五千億とは、なかなか絶妙なところを突いてくる。現実的で、しかもそこそこまとまった金、という印象を与える額だ。

 黒いビロードの上に並んだ宝石珊瑚の一つ、小振りの紅珊瑚がセッティングされた指輪を、私は取り上げた。

「このリングなら。五千億クレジット、そんなところでしょう?」

 何か言いたげな顔で、ユズハはギャング男に目を遣り、そしてうなずいた。

「はい。そのお値段なら。お譲りできますが……」

共通液体通貨リキドマネーは使えるだろうね?」

 私は二人に訊ねる。

「もちろん。金属コインでないと受け取れない、なんてことを言ってたら、南方で商売なぞできませんからね」

 借金取りのほうが答えた。


 液体通貨を引き出す精算孔スロツトのついた専用の容器を、男はちゃんと用意していた。その封印容器シールドに、私はアンプル・ウォレットをセットし、五千億クレジット分の共通液体通貨リキドマネー投入サーブする。

「いいお客さんがちょうどいて、良かったですな。それでは、私はこれで」

 黒服の男は、約束通り去って行った。後には再び、私とカイネリ技師長、それにユズハの三人が残る。揺れる列車、リズミカルなレールのジョイント音。

「ありがとう、ございました」

 彼女は、丁寧に頭を上げてくれた。

「いや先生、わしはあんたに惚れ直しましたぞ。見事、ユズハさんをお救いになった」

 技師長も、感心したようにうなずいている。

「いや、どうせ買うつもりだった品です。ただ」

 彼女の目を、私はまっすぐに見つめた。

「こういう商売やりくちは、あなたには似つかわしくないのではありませんか? あの男は、借金取りじゃありませんね。こういうお芝居を繰り返していると、どうしても慣れが出て、不自然なくらいに呼吸が合うようになる。私の言葉に対する君たちの反応は、明らかにコンビであることを示していましたよ」


 私が話している間、彼女の顔は次第に紅潮して行った。

「一体、どういうことです?」

 カイネリ技師長は、混乱したような様子で、私とユズハの顔を交互に見た。

「若く、美しい女行商人が、見るからに質の悪そうな借金取りに脅されている。『一個でも売上があれば……』という彼女の言葉に、同情した客は思わず品物を手に取る。そういうことですね? そんなことをしなくても、私はちゃんと買うつもりだったのですよ。あの男は、恋人か何かですか?」

「恋人なもんですか。兄です」

 吐き捨てるように、彼女は言った。

「こうやって、私たち兄妹は生きてきたのよ。この、ろくでもない世界でね。前にも一度だけ、見抜かれたことがあったわ。そいつも、同じことをした。ちゃんと品物を買ってから、お説教。でも」

 彼女は丁寧に頭を下げた。

「お客さまは、お客さま。お買い上げ、どうもありがとうございました」

 顔を上げた時、ユズハはもう微笑んでいた。強い女だ。


「いや、驚きました。さすが先生は、専門家だ。あの二人がグルで芝居を打ってると、すぐに見抜いたんですなあ」

 狭い通路を時折ふらつきながら歩いて、一緒に部屋に戻る間、カイネリ技師長はしきりに感心していた。

「頼もしいことです。こちらの仕事も、ぜひよろしくお願いしますぞ」

 実は、彼にも話していないことがあった。ポケットの中にある紅珊瑚のリングは、私の見立てでは一兆クレジットくらいしてもおかしくない、立派な品物だったのだ。

 しかし、あの場面であのように持ち掛ければ、彼らはとにかく現金キャッシュを手にすることを優先するだろう。仕入れ値を考えても、損失までは出ないはずだ。結果は、読み通りだった。

 つまり、私は状況を利用して、宝石珊瑚を五千億に値切ったというわけだった。しかし、お互いにだまし合う勝負の場面である。持っている技能をフルに使っても、問題はないはずだ。

 おかげで、良い土産が出来た。


 三日目の昼食後、今までになく大きな町に到着した列車は、その中心にある駅で長時間停車した。機関車を付け替えるらしい。

 郡部諸街区連接鉄道ディジーチェーンの本線はここで終わりで、ここからさらに南へとまだいくらか伸びている路線は、「極地支線」という別線の扱いだ。一日一便のこの列車を除けば、走っているのは貨物列車だけとのことだった。ほとんどの乗客は、ここで下車した。


 反対のホームに接する、古びた石造りの駅舎越しに、高層ビルがいくつか並んでいるのが見える。戦争アトミック前に流行ったような、四隅の柱や窓の周囲をテラコッタで装飾し、さらに尖塔を載せたような重厚な古典様式のビルが多く、シティ高度集積地区コア・エリアを大幅に縮小したような眺めだ。

 彼方には電波塔らしい、飛びぬけて高い鉄塔がそびえるのも見えた。都市と呼べる規模を有するこの町は「風境区」という名前で、南方最大の町として、そして深部地方への玄関口として広く知られていた。


 技師長と並んでホームに立ち、さらに南へと延びるレールの彼方に目を遣ると、空に直立する壁のような巨大な黒い雲が立ちはだかっているのが見えた。あの下は、激しい暴風雨になっているはずだ。

 南方深部の環境が過酷だと言われるのは、常に吹き荒れるその嵐の中で生きて行かなければならない、というのが最大の理由だった。

「あれが『極渦』か」

 私は思わず身震いした。

「わしらにとっては、あれが空です。もっとも、重耐候アーケードから出ることなど滅多にありませんがな」

 平気そうな声でそう言いながらも、カイネリ技師長の表情は険しかった。

 ホームの売り子から弁当を買った後、機関車の付け替えが完了して、列車はようやく再び「極地支線」を走り始めた。

 ガスタービン駆動らしいその機関車は、嵐が吹き荒れてでもいるようなやたらと大きなジェット音を立てて走ったが、間もなくそんなことは気にならなくなった。列車がいよいよ本物の嵐、極渦の下に入り、激しい暴風雨に包まれるようになったのだった。


(#10・第一章最終話 「嵐の下、重耐候アーケード『べトラ』へ」に続く)

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