第25話 脳が溶ける

 元アイドルに、元漫画家? 


 桐井には、変化球がありすぎる。

 今日初めて出会ったのに、驚嘆する事実が多すぎて頭が追い付かない。



「お2人ともそんなに硬直しないでください。そんなに珍しいことではありません」

「「いや、珍しいわ!」」



 つい、ツッコんでしまった……おまけに美葉と声が重なった。

 俺が「すいません、続けてください」と言うと、桐井はお茶を一口飲んで話を再開した。



「アイドルといっても、中学生の時の話です。『ココナナッツ 』ってご存知ですか? 私、今29歳なので、お2人はご存知ないかもしれませんね」



 美葉は小首を傾げている。

 しかし、俺は知っている。


 というか……まじ⁉︎



「それって伝説のアイドルユニットですよね! 俺見てました! というかファンでした! めっちゃかわい――」



 俺が興奮して早口で話していると、突然太ももが強くつねられた。


 「痛ッ」と短く叫びながら横を向くと、何故か美葉が頬を膨らませている。


 美葉のお怒りポイントは、いつもよくわからない。



「ご存知なんですね。10代の頃に1年半しか活動していなかったので、誰も知らないと思っていました」

「いや、同級生の男子に大人気でしたよ! どっちの方ですか?」

「私はココの方です」

「え、ココ! ショートヘアでハツラツとしてた方ですか? 今と雰囲気が全然違いますね」

「あれは事務所の方針だったので……」

「あーやっぱり、そういうのあるんですね。でも俺は2ndシングルの――」


「アイドルの話はもういいです。それで、どうしてそれが今の引きこもり生活に関係があるんですか?」



 美葉はいきなり話を遮った。流し目で彼女を見ると、かなり不機嫌そうだ。

 俺はあわよくば話の流れでサインを……と思っていたので、少ししゅんとした。



「そうですよね、失礼しました。実は私の漫画の認知度が高まった時、ある記者が私が元アイドルであることを嗅ぎつけたんです。そこから記者に追い回されるようになってしまって……」

「それはお辛いですね」

「はい……元々アイドル活動での誹謗中傷が苦痛で人前に出なくてすむ職業を選んだのです。それなのに私生活を監視されるようになり、精神的に追い詰められてしまいました」



 他人に噂をされたり、監視されたりする辛さは痛いほどわかる。

 俺は最後の3か月間、会社の人間から好奇な目を向け続けられてきた。それから逃げ出したい、とずっと思っていた。


 桐井も相当辛い思いをしたのだろう。



「それが引きこもりの原因なんですか?」



 美葉は構わず質問を続ける。



「はい、そうです」

「ちなみに、何故そんな有名な方が『コーポ夜桜』に? もっとセキュリティのしっかりしたところの方がいいんじゃないですか?」



 確かに、美葉の意見は正論だ。漫画家として成功を収めたのなら、金銭的には困っていないはず。なら、セキュリティを気にした方がいい。



「実は、記者につけられている時期に大家さんにご相談したのですが、その方が幹夫さんだったのです。そうしたら、逆に私が絶対に住まなそうな場所に引っ越した方が安全なんじゃないかとおっしゃってくださったんです。生活のサポートはするからって……それで、『コーポ夜桜』に引っ越してきました。幹夫さんのおっしゃる通り、あれ以来記者とは遭遇していません」



 桐井の話を聞き、全ての話が繋がった気がした。



「つまり桐井さんがおじいちゃんを好きなのって……」

「はい。幹夫さんが私を救ってくれた恩人だからです」



***



 桐井さんの部屋を出た瞬間、美葉はその場に蹲ってしまった。



「美葉、大丈夫?」

「……ちょっと、疲れちゃいました……感情が」



 『感情が疲れる』。俺はその感覚が痛いほどわかる。

 俺は七香の浮気現場を目撃した日は頭の処理が追い付かず、様々な感情が綯い交ぜになっていた。


 美葉もきっと、大切な祖父が20代女性の恋愛対象になっていたことや、祖父が死ぬまで『コーポ夜桜』に住み続けたいという思いなどを聞いて、感情が乱れているのだろう。


 俺は美葉の前に背を向けてしゃがんだ。



「送ってくから、乗りなよ」

「な……い、いいです。恥ずかしい……」

「泥酔してた時は俺の腰が砕けそうになるほど体重を預けてたじゃないか」

「な! ば、ばかぁ……」



 美葉は後ろから俺の頭をポカポカと叩いた。

 だが、すぐにその手を止め、首に腕を回してきた。



「……ちょっとだけ」

「……うん」



 俺は美葉を背負い、立ち上がった。

 意識があるせいか、初めて出会った日の泥酔状態の時よりはだいぶ軽く感じる。


 しかし、背中に豊満な胸が押し当てられ、鼓動が加速した。

 

 特に、階段を下りる時。

 1段降りるたびに、むにっ、むにっ、と胸の感触が背中に伝わってくる。おまけに美葉の吐息が耳にかかるので、身体はかなり熱くなっていた。


 何より、初めて会った日と比べ、美葉に対する感情は大きく変化している。


 だから、触れ合うことに喜びを――



「なめろう」

「ふぁ、ふぁい……」



 突然、美葉が俺の耳元で囁いた。

 生暖かい息に耳を擽られ、心の変な部分が刺激される。


 久々に味わった、感情がふわっと浮遊する感覚。



「お風呂、入る? 私の家で」



 ……脳が溶ける。そんな感じがした。

 

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