譚ノ間
「珍しいな」
朝早くから出掛けていた紫月が戻ってきたのは、夕暮れ時だった。
ちょうど今から夕食の仕込みをしようとしていた所である。
いつも外に飲みに行っているのなら深夜頃に帰ってくることの方が多いのだが珍しく早く帰って来た彼女に、煉は夕食はいるかどうかを聞く。
もちろん、彼女の返事は夕食を食べる、だ。
「滅多に表情を変えない煉がそんな顔をするのなら、たまには不意打ちをするのも悪くないね」
疲れたー、と居間に入るなりクーラーの電源を入れ、夏仕様に冷感枕を抱き寄せると着物の裾が乱れるのも構わずに畳の上に寝転がった。
「お嬢。はしたないぞ」
「煉しか見てないから良いのー。足ぐらい見えても今の時代、はしたなくないよ」
よくないだろう、という言葉は昔から言い過ぎて言い飽きたので溜息をつくだけに留めた。
鰹のたたきが出来るには下ごしらえがあるのでもう少しかかりそうなので、煉は紫月には先に風呂に入ってもらう。
彼女が上がる頃には下ごしらえも済んで部屋も程よく涼しくなり、すぐに出せるだろう。
「そういえばどこに行っていたんだ?」
「ん? あぁ、病院だよ。じっ様に少しばかり用があってね」
涼しくなってきた所で彼女は体が冷える前に風呂へと向かって行った。
普段ならば病院であったとしても葉山のじいさまの所になど絶対に行かないだろうに。
大切な話でもあるのならば別として。
やがて、紫月が風呂から上がった。
艶やかな黒髪をタオルで丁寧に拭きながら、煉のご飯を待っている。
すっかり涼しくなった居間に煉は彼女が風呂に入っている間に作っておいた食事を運び込む。
「わぁいっ。鰹のタタキ! この匂い、藁焼きだね。煉、土佐ノ鶴!」
やはりか。
煉は用意して木桶に入れた氷水で冷やしておいた硝子の銚子を紫月の前に盃と一緒に並べる。
さっそく酒に口をつけて、鰹のタタキに舌鼓を打ちながら紫月は幸せそうな表情をする。
あまり酒を飲まない煉は白ご飯と一緒に。
「あ、そうそう。ご飯が美味しくて話をするの、忘れていたよ」
不意に紫月が口を開いた。
話……恐らく“鬼”についてなのだろう。
煉自身、買い物をしながら商店街で話を聞いていたが最近、熱中症で病院に多くが運ばれているというくらいだった。
ご飯を食べながら、煉は紫月の話の続きを待つ。
「葉山のじっ様が言うには、熱中症で運び込まれているんじゃないんだってさ。まぁ“人”だからこの気温と相まって熱中症だと診断しているみたいだけど」
やはり“鬼”なのかと問えば紫月は頷く。
誰なのか、目途はついているのかと聞いてみれば、彼女はただただ微笑みを浮かべ、鰹のタタキを頬張った。
特定できているらしい。
今日、病院を訪れたのもその為だったのだろう。
「危ないことだけはするなよ」
「ボクが“鬼”に負けるとでも?」
「闇が減ったのにも関わらず“人”の心が陰っている時代だ。今まで出会ったことのない“鬼”が出てもおかしくはないだろう?」
それはそれで、面白いね、などと紫月は言うのだ。
「とにかく、そろそろ喰い時だと思うんだよね。いつものことながら義理姉様からもさっさと終わらせろって言われているし」
だから、そろそろ動こう。
そういうことらしいので煉は頷いておいた。
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