第5話 五月川とカゲロウ。 03章
一年でもっとも湿気が多い時期、梅雨の到来だ。今年はいつもより早くて、昨日からずっと雨が続いている。この時期の雨は全体的にじっとりとしていて、春に降る雨の様にしっとりと、少し寒さが増すものとは違う。そんな陰湿なものがこれからの夏に向けて必要になってくるのは知っているけれど、緑川の部屋から見える大きな川は、いつにも増して流れが激しく、遠くから見るとまるで大きな蛇が唸りをあげて進んでいるみたいで、自然の脅威しか感じられない。
昨晩、時々行く喫茶店で幽霊騒ぎがあって、何だかんだと緑川のマンションに泊めて貰っていた。俺が目を覚ますと辺りに彼の姿はなく、隣の部屋のベッドで毛布に包まっていた。
「・・・・・・緑川おはよ~ まだ寝てる?」
「・・・・・・んっ ・・・お・・・おは・・・よぅ・・・・・・直ぐいく。」
いつも俺が起きると、何だかんだしっかりと身支度を済ましている緑川が、絵画の柄の毛布を頭から被って寝ぼけている様子は初めてみた。
(昨日はだいぶ消耗させちゃったからなぁ~ 朝ごはんでも作っておいてやるか!)
俺はそう思い、リビングを抜け台所に向かった。けれどそこは至る所がきれいに片付けられていて、どこに何があるのか分からない。決して広い訳ではなかったけれど、いつも彼が飲んでいるコーヒーや、パン、鍋やフライパンなどの姿がなくて、他の部屋と違ってすごくシステムチックになっていた。
(っていうか・・・・・・ そもそも俺、全く料理出来ないじゃん・・・・・・)
せめてコーヒーぐらいと思って目についた戸棚を端から漁って、なんとか「Coffee」の文字が入った袋とジョウロみたいな形のヤカンを見つけられた。水を適当に入れて、沸騰させる。そのままガラス棚の中に入っていた彼のお気に入りのマグカップにコーヒーとお湯を注いで完成だ。
(よし! 後は緑川が起きてくるのを待つだけだっ!)
ちょうどそのタイミングで歌舞伎の様な頭をした緑川が起きてきた。
「おはようー お? コーヒー入れてくれたんだ? サンキュー!」
目元にはくまが出来ていて、見た目にも疲れが伺える。彼は俺が持っていたマグカップをそのまま手に取り、一口飲んだ。
次の瞬間、ものすごい勢いで流し台へと行き吐き出してしまった。俺は慌てて彼に近づくもシンクから少し顔あげて、恨めしそうな目でこちらを睨みつけた。
「うげぇ・・・・・・ お前、豆そのまま入れただろ⁉ ぺっ! ぺっ!! らずもねぐ苦ぇ・・・・・・」
「––––––えっ⁉ ごめん! コーヒーって豆なの?」
「んー! もういいから座って待ってろ!!」
水で口を濯ぐ彼を残して、言われた通りさっきまで寝ていたソファに大人しく座ることにした。
(慣れないことはするもんじゃないなぁ~ けどあんな言い方しなくてもいいのに・・・・・・ )
そんなことを考えながら手持ち無沙汰になった俺はベランダに出て、はるか下にある濁流を見下ろす。昨日からの雨で水かさが増して、橋手前にある中洲はだいぶ小さくなっている。その一方で少し遠くを見ると、どこまでも続く灰色の雲と、霧のような小さな雨粒が織りなす町の様子はどこか幻想的で、とても同じ世界のように感じられない。
「まだ雨降ってる?」
その声に振り向くと、緑川がトーストの乗った皿とマグカップをもってこちらの様子を伺っていた。
「うん。 もう小雨になってるっ」
「それじゃまた部屋干しかー そう言えば知ってるか?」
ガラステーブルの上に持っていたものを並べながら続けた。
「あそこの橋に雨の日霊が出るって話。 ちょうど真ん中辺りで川を眺めてるらしい。」
「それってあの男の子の幽霊?」
「たぶんなー 近づくといつの間にかいなくなってるらしいから、ちゃんと見た人はいないみたいだけど。 ただ面白いことに晴れてる日には現れない。 決まって雨が降ってる日限定らしいんだ。」
「なんでなの~?」
「俺が直接見た訳じゃないから憶測だけどー 死んだ時の状況とか、場所なんかに依存して一時的に力が上がることがある。 あの霊は雨がそれなんだろうなー それで霊感があるやつに目撃されちまうってなとこだと思う。」
彼はそう言って、手を合わせてから熱々のトーストにかぶりつく。俺も定位置となったソファに座って、トーストを1枚手に取る。いつもだったら、きつね色に焼かれたふわふわのパンを脇目も振らず口に運ぶが、その時の俺の頭の中は、あの橋の上でひとり佇む先輩のことでいっぱいだった。だからマグカップの中身が何なのか確認せずに口に運んでいた。
「っん⁉ うげぇ~ これ牛乳じゃん! オレ牛乳飲めないの知ってる癖にひどっ!!」
「フッフッフッ! いつ気がつくかと思ったら! ハッハァ! さっきのコーヒーのお返し! それにアレルギーって訳じゃなくて味が嫌いなだけだろ⁉」
「・・・・・・そうだけど~」
「牛乳飲まないと背伸びないぞー?」
「成長期は高1で終わったよぉ~」
仕方がなく、牛乳をパンで押し込みながら食べる俺と、終始ニヤニヤした顔で見つめてくる緑川。
食べ終わって特にこれといった話題もなく、ゴロゴロし始める。ゆっくりと進む時間の流れの中で、変に気遣いすることなく彼は読書を、俺はナンパした女の子達にメッセージを。別に一緒にいる時にする必要はないけれど、同じ空間にいるだけでなんとなく落ち着く。とは言え、時々トイレに立つ緑川が横を通る時、わざわざ俺のお腹をくすぐってきたり、脱いだ靴下を顔に投げてよこしたりと、ちょっかいを出して来る。それに対して俺も少しオーバーなリアクションで2人の時間を楽しんでいた。
そんなまったりとした昼下がり、俺はいつの間にか寝息を立てていたようで、目が覚めると4時を過ぎていた。テーブルの上の食器は片付けられ、台所では緑川が何やら夕飯の支度をしてるようだ。
「おはょ~ いつの間にか寝ちゃってた~」
「おう! 今日どうする? 夕飯食べてく?」
「いや、いいよ~ 流石に2食もご馳走になるのは悪いよ。 そろそろ帰るっ」
「そうか? まだ雨降ってるし、気をつけてな?」
「疲れてるのに、ありがとう! また来るねっ!」
「ん! またな!」
幾何学模様のエプロン姿で野菜を切っている緑川に別れを告げ、ひとりマンションを後にする。
お昼より少し強くなった雨の中、駅までの道を進む。今日は土曜でそれなりに人や車の通りも多い。緑川のマンションがある住宅エリアには買い物が出来る場所はコンビニぐらいしかなく、商店街やショッピングモールがある所に行くには、その手前にある川に掛かった橋を通らなくてはいけない。だから俺も例に漏れず、2車線道路の脇にある歩道を歩いて橋を渡っていく。
今日は雨だ。予想していた通り、橋の真ん中辺りに男の子の姿がはっきりと見える。だけど他に逃げ場もなく、傘で顔を覆いながらゆっくりと横を通り過ぎようとした。段々と近づくけれど、先輩はずっと手すりから身を乗り出して川の様子を眺めている。何事もなくやり過ごせると思った矢先、後ろから声を掛けられた。
『 やぁ! 待ってたよ! 』
振り向くと腰に手を当て、しっかりとこっちを見ている鈴木先輩の姿があった。
「・・・・・・この間はすみません。 あの時オレ別に・・・・・・」
『 いや別に気にしてない! それより今日は時間ある? 少し面白い発見をしたんだ! 』
そう言って俺の持つ傘の柄を無理やり引っ張って、駅の方向へ歩いて行く。
「どこいくんですか? そんなに引っ張ったらまた転んじゃうっ」
『 ここじゃ目立つし、ゆっくり話したいしね! 』
俺は霊感のない人から見た自分の姿を気にしながら、着いた先は橋の下だった。緩やかに流れる川の向こう側には緑川のマンションが見え、この間先輩と話をした場所のちょうど反対側に位置する。そこはちょうど階段になっており、その一番上の段に2人並んで腰を下ろす。
「強引ですねっ 何度かつまずきそうになりましたよ?」
『 ごめん、ごめん! でもこうでもしないと、また逃げられると思ったから! 』
ニコッと笑う先輩の顔はとてももう死んでいる人の様には思えない。
「それで? どんなおもしろい発見をしたんですかぁ?」
『 まぁその前に。 君の話を聞かせて欲しいんだ! 大学は楽しい? 』
「・・・・・・楽しいですよ~ 講義は高校の時と違って専門的で難しいですけど、刺激的ですし~ 何よりどの先生も個性的で。」
『 だよなー 特にウチの大学は灰汁が強いっていうかー けどその中でも一際目を引くのが、美人な桜井先生! 』
ここで自分の知っている人の名前が出てくると思わなかった俺は、少し前のめりになった。
「先輩もあの哲学の講義、受けてるんですかっ⁉」
『 うん! 1年の時に! 講義は難しくて、テストは微妙だったけどねー だけどあの声! 話の内容より声に魅了されちゃってね! 』
「分かりますっ! オレなんて唯一眠くならない講義ですからっ!!」
俺の反応がおもしろかったらしく、お腹を抱えて笑う先輩。
『 あぁいう人がもし彼女だったらって、変な妄想しちゃうよなぁー 』
「はいっ! あっ、でも鈴木先輩、彼女いるんじゃなかったでしたっけ?」
『 そうだけどー あの人は別枠? あくまで妄想だし浮気の内には入らないでしょー っていうか赤城くんは彼女作らないの? 』
「オレですかぁ~? 実はまだ彼女出来たことなくってぇ・・・・・・」
『 マジで? それじゃまだ童貞? 』
「・・・・・・はいっ・・・・・・ どうやったら彼女って出来るんですかねぇ?」
『 おっ! それじゃ特別に俺が教えてあげよう! 』
「是非お願いしますっ!!」
時々吹き抜ける風が、雨のせいで少し冷たい。だけど橋の下だから濡れる心配はなくて、ゆっくりと色々な話が出来た。気がついた時にはもう辺りは暗くなっており、直ぐ上を走る車のヘッドライトが闇夜の雨のカーテンを露わにする。
俺のお腹がさっきからグウグウ鳴っていて、目の前で楽しそうに話をする鈴木先輩に聞こえてしまわないか気が気じゃない。
その時、俺のスマホが電話の着信音を鳴らした。暗い場所に慣れた目でその明るい画面を覗くと緑川からだった。出ようか迷っている内に切れてしまい、ヒビが入った画面の向こうに不在着信のアラートが残る。
『 ・・・・・・さて、と! そろそろ暗くなって雰囲気も出てきたことだし、本題に移りますかー 』
先輩はそう言って、あぐらを搔いて俺の方へ向き直った。
『 ここ2、3日の間、色んなとこに行ってたんだよねー 商店街とかモールとか、赤城くんの他に話が出来る人がいないかって。 けど結局、普通の人はいなかった。 』
「普通の人ですかぁ?」
『 うん。 話し掛けて反応したのは怪我した人だったり、顔色が真っ青だったり、高いとこから落ちても死なない人だったり、鎧を着た人だったり・・・・・・ 』
さっきまで普通の話をして、楽しそうにしていた鈴木先輩の口から次に発せられる言葉を、俺は予想していた。そしてそれは今となってはあまり聞きたくない言葉だった。
『 ・・・・・・たぶん俺、もう死んでるみたいなんだ。 』
「・・・・・・。」
世界がまるで止まったかの様に静かになった。さっきまでしていた雨音も、近くを走る車の音も聞こえなくなった。
俺が答えに困っていると、それに反して目の前の彼は含み笑いを始め、終いには大笑いになった。その声は橋の下に反響して、少し不気味な感じがする。先輩はひとしきり笑うと、目に溜めた涙を拭った。
『 ––––––ごめん! その反応なら最初から分かってたみたいだね? 』
俺はムスッとした表情で先輩を見つめて、こう切り替えした。
「そうですよっ! オレは元々霊感が強くて、鈴木先輩にあんまりいい影響を与えないから、関わらないようにしてたんですっ!!」
『 なるほどね! だからこの間逃げたんだ? 』
「・・・・・・はいっ」
『 それじゃー そんな赤城くんにひとつ頼み事があるんだけど、いいかなぁ? 』
「・・・・・・なんですか?」
笑っていた顔を無理に真面目な顔にして、俺の目の前まで近づけた。
『 来週の土曜日。 ちょっと付き合って欲しいんだ。 このままじゃ心残りが出来て成仏できない! 』
「1週間後ですねぇ・・・・・・・。 特に予定もないんで大丈夫ですよ? 何するんですかぁ?」
そこで先輩は急に離れて立ち上がり、一度満面の笑みを浮かべてから、雨が降る闇の中に向かって走っていった。慌てて俺も立ち上がるが、その姿はもう見えない。けれどどこからともなく声が響いてくる。
『 10時にここで待ち合わせ! 遅れるなよ⁉ 』
姿が見えない相手に、俺はあまり乗り気ではない了解を伝えて、橋の下から出る。雨はもう止んでいて、雲の隙間から星空が見える。一度橋の上を見上げるけど、そこには誰もいなかった。
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