#02 かもしれない

 あの日、彼は、突然、思いもよらない出来事で深淵へと誘われてしまったわけだ。


 人を、一人、轢き殺したとされてしまったのだから。仕事も失ったであろうし、人間関係も暗転したに違いない。あの時から彼の人生は社会から隔絶され、落伍者とも言い換えられるものになったわけだ。言うまでもないが、それには同情する。


 それでも奈緒子の死について真相が知りたい。


 どうしても知りたいのだ、僕は。


 心を鬼にする。悪鬼羅刹の心にもなる。事の真相を知る為にはな。


 だからこそ、今、背に隠れている性悪探偵にでも事件解決の依頼をしたのだから。


 意を決し、ドアを、改めて軽く三回ほどノックする。コンコンコンとキツネが鳴いたようなノック音が辺り一面に響き渡る。あ、僕はタヌキだったか、ホワイが言うにはな。などといらない事を考えているとドアの向こう側から大きな声で一喝される。


「うるせぇ。だから、話す事は、何もねぇッ!」


 彼は、苛立っている。焦ってしまい、後ずさりさえしそうになる。


 大丈夫。


 言い聞かせる。強く。自分へと。


 静かに目を閉じる。息をゆっくりと吐き出す。


 また、軽く三回ほどノックしてから、無理にでも言葉を紡ぎ出す。


「思い出したくないもない事は分かります。ただ聞いて下さい。もしかしたら事故ではないと証明できるかもしれないのです。無罪が証明できるかもしれないのです」


 無罪という言葉が利いたのか、静まりかえる。


 ハウが、口笛を止めて、大事な事を言い放つ。


「かもしれないじゃ、弱いよね。無実を証明できるって断定しなくちゃだわさ。やっぱ、ケンダマンは素人さが抜けないよね。ちょっと期待したけど期待外れだわさ」


 ここからは見えないが、後ろ頭に手を回し、白い歯を魅せて笑っているのだろう。


 てか、お前らがやらないから、仕方なく僕がやってるんだろうが。


 とも言いたいが、言っても無駄だな。クソッ。


 深呼吸をして、また目を閉じてから天を仰ぐ。


 ある程度の間、沈黙が場に鎮座して動かない。


「うっせぇ。黙れ」


 ぼそり、と一言。


 想定していないと言われれば嘘になるが、それでも期待のソレを裏切られる応え。


「あの事故の事は忘れたいんだ。思い出したくもない。誰とも話したくない。頼むから帰ってくれ。で、もう二度と来るな。じゃなければ、それこそ警察を呼ぶぞ?」


 と続けて、また沈黙が一気に駆け込んできた。


 僕は眉間にしわを寄せ、ため息が漏れてくる。


 事故には、加害者と被害者が在る。被害者が事故を思い出したくないと考えるのは当然なのだが、加害者とて思い出したくないと考えるのは言うまでもない。ここに来るまで、彼が居れば、話が聞けると高を括っていた自分の愚かしさが恨めしい。


 交通事故とは、そういうものか。誰も得などしない悲劇でしかないというわけか。


 と、脱力してしまって、打つ手がなくなった。


 もはや虚ろな目で空を見上げるしかなかった。


 フムッ!


「よろしい。少しばかり気まぐれを起こしましょうか。もちろん今の頑張りに対しての酔狂心とも言えるものです。では、いくらか後ろへと控えてもらえますか?」


 山口君。


 フーが背から逃れて、数歩、前へと進み出る。


 その足取りは力強い。いや、あくどいと言った方が、より正確か。


 あとで何かしらがあるパターンが通常だが、今回は、どうなんだ?


 兎に角。


 そののちハウに目配せをしてからホワイに来いとばかりに右手のひらで合図する。


「OKッ」


 とハウは小声で言って、ひと頑張りしてきますか、背伸びをする。


 ネコが欠伸した時に出る音らしきものを立ててからハフぅといった息を吐き出す。一方でホワイはフーに近寄ったあと何やら耳打ちをして、また静かに佇む。多分、彼の心の内を暴いて、的確なアドバイスをしたに違いない。と思うと同時に……。


 ハウは身を翻して、軽妙なステップで、どこかへと消えていった。

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