第8話

 この夜が終わる前に、ガゲツは牢屋から開放され、霊山を下っていた。

 自力で脱出したわけではない。カグヤが逃がしてくれたのだ。

 ガゲツは考えていた。カグヤのことを。そして、彼女の言葉を。


 ガゲツが眠りから起こされたのは、真夜中のことだった。

 メシの時間かとも思ったが、なんの匂いもしない。


 カグヤは、今日、日が昇ったときに儀式がおこなわれると言った。


 ガゲツは儀式がそんなすぐに始まると聞いて驚いた。そういえばいつ彼女が生贄になるのか聞いてことはなかった。


 カグヤは鎖を外し、ここから逃げろ、と言った。


 なぜ、と問い返すと、ここは儀式が終われば襲われると言う。


 わけがわからず黙り込むと、彼女は説明してくれた。


「わらの『灰』を狙っておるのだよ」


「ハイ?」


「そういえば、言っていなかったな。わらが原初の火に身を捧げれれば、『灰』がうまれる。その『灰』を喰らったものに不老不死をあたえると伝承にはあるのだ」


 ガゲツは鼻を鳴らして切り捨てた。


「でたらめだ」


「そうかもな。だが、この『灰』を求めて何人もの皇帝や王が争い、この世に混乱を招いた。散々繰り返された歴史だ。今回もどこから聞きつけたのか、この霊山を何千もの兵が囲んでいるそうだ」


 ただ、複数の国が集まっているわけではないから戦争にはならんことだけが幸いだな、とカグヤは言った。


 だが、なにが幸いなのか、ガゲツにはわからなかった。


「ここに向かっているのは現皇帝の……何某だったかな。忘れたが、とにかく儀式場に兵を連れて上ってきている。儀式が終わり次第ここは戦場になるだろう。それに巻き込まれる前に、おまえはこの山を下りろ」


 やたらと難しい言葉が多かったが、およそ理解した。襲われるから逃げる。それだけだ。


 ガゲツは解き放たれた手足をまわし、調子を確かめた。問題なく動ける。火傷の痕が多少引き攣るように痛むが、気になるほどではない。

 それからカグヤに手をひかれ、出口まで案内された。


「ここをまっすぐ下ればふもとにでる」


 そこは細い獣道のようなところだった。


「では達者でな、ガゲツ」


 カグヤは手を離し、微笑んだ。それはすべてを諦めたような――透明な笑みだった。


 そのとき胸のうちに込みあげてくるものがあった。なにかをせずにいられないような。


 ガゲツは眼を細めて、いままで繋いでいた手を見た。

 誰かと手を繋いだのは初めてだった。

 どこへ行っても、追いたてられ、命を狙われる日々だった。

 こんなやさしい行為があるなどはじめて知った。

 唄を聴いたのもはじめてだった。嫌悪や殺意以外の眼で見られることも。

 まるで胸のうちが温かくなるような、そんなやさしい気持ちがあるなどはじめて知った。


 だから手放してはいけないと思った。

 まるで本能のように。

 そしてその手をカグヤに向けてのばした。いままで感じたことのない感情にしたがって口をひらいた。


「おまえも来い」


 その言葉を聞いたカグヤは眼を見開いて固まった。いま聞いたことが信じられないというように、ガゲツの手を見つめている。


「早くしろ。ここは襲われるんだろう」


 その言葉に、ようやくカグヤは反応した。いつものように渇いた笑みをうかべて口をひらく。


「なんだ。そこまでして、わらを喰いたいか?」


 ガゲツは首を横に振った。


「オレは自分よりも強いものは喰わない。喰いたいが喰わない。前もそう言った」


 その言葉に、まるで怯えるかのように――


 ――カグヤの笑みが崩れた。


「……わ、わらは、行けない」


「来い」


 ガゲツはさしだした手をおろさなかった。


「駄目だ。わらが行ったら世界が、太陽が堕ちてしまう……」


「放っておけばいい」


「で、できない……」


「なぜだ」


 カグヤは答えずに頭を振った。まるで泣き出すことを我慢する童子が、イヤイヤをするように。


「来い。自分が生きるために」


 再度呼びかける。

 それに応えたのは、喚くのような割れた声だった。


「できない……っ。わらにはできないっ! わらは巫女だ! 生贄になるために生きてきたのだ! ほかの生き方など、わらは知らぬ! 巫女でいるのが大嫌いなのに、巫女でなくなったら、どうやって生きていいいのかさえ……わらには、わからないんだ……ッ!」


「だったらオレが教えてやる! 自分のためだけに生きる方法を! 生きるために生きることをッ!」


 とうとうカグヤは泣きだした。透明な雫が頬を伝わり、祝福の証である聖痕に落ちた。


「来い!」


 ガゲツはさらに手をのばした。


 カグヤがそれを掴もうとするように手をあげた。


 だが、


 それはガゲツの手をとることなく、横に振られた。


「――炎よ」


 カグヤの聖痕が陽炎のように揺らめいたかと思うと、その手から炎が迸った。 

 それは火柱となり、天にそびえるような炎の壁となった。まるでガゲツとカグヤの間を裂くように。

 ガゲツは炎の熱に炙られ後退していた。


「なぜだっ、カグヤ!」


 その姿は炎に遮られて見えない。ただ声だけが応えた。


「やっぱり、わらは行けないよ……っ」


 その声は泣いていた。


「おぬしが来いと言ってくれて、うれしかった。いままで誰一人として、わらに巫女以外としての生き方を認めてくれなかったから。おまえだけだ。おまえだけが、わらに生贄ならなくてもいいと、生きていてもいいと言ってくれた。うれしくてうれしくて……本当に、生きたいと思ってしまったよ」


「だったらオレと来い!」


「できないよ。おぬしがそう言ってくれるから、なおさらだ」


「なぜだ!」


「おぬしに、生きていてほしいと思ってしまったからだよ」


 ガゲツはその言葉に声を詰まらせた。


「世界のために死ぬのは嫌だが、おぬしが生きる世界を護るためなら、死んでもいいと思ってしまった」


「オレは大丈夫だ! 世界がどうなろうと生きていける! いままでずっと、そうやって生きぬいてきたんだ!」


「うれしいよ。そう言ってくれるおぬしの存在が。おぬしがいてくれたおかげで、わらはこれが運命だと諦めずに、自分の意志で原初の火に身を捧げられる」


「なにを言っている!」


「遺言だよ」


「カグヤぁ!」


 ガゲツは心の底から湧き出るものに追いたてられるように拳を握り、それを炎の壁に打ち下ろそうとした。


 だが、それを察したかのように、炎一部が弾け、爆風に吹き飛ばされた。


「クソっ」


 悪態をつきながら、身を起こし再び炎の壁に突っ込むも、結果は同じだった。


「ガゲツ。わらはもういいから生きてくれ。わらのぶんまで」


「――カグヤ!」


「おぬしの言葉ひとつひとつが、うれしかったよ。ふふ、生きるために生きるか、なんて素敵な言葉だろうな」


「だったら生きればいい!」


「そうさな。ああ、本当に生まれ変われるのなら、おぬしと生きてみたいな。でも生まれ変わったらわらには炎の祝福の力はないのか、それだとおぬしに喰われてしまうな」


 まるでふざけるように言う。涙にぬれた声で。


「いや、それ以前に四百年もおぬしは生きていないか、いやおぬしは鬼だからな。のう鬼はどれくらい生きていられるのだ? 四百年以上も生きていられるのか?」


「カグヤ! 生きるのは今だ! 死んで生まれ変われるなんて本気で信じているわけじゃないんだろう!」


「ああ、わかっている。これは世迷言だ。それでも、もう一度おぬしに逢いたいと思うよ」


 その言葉を最後に、カグヤの気配が遠のいていく。


 それでもガゲツにはどうしようもできない。

 だから叫んだ。


「四百年、生きてやる! だから絶対に逢いにこい! 絶対にだ! おまえに生き方を教えてやる! 聞こえるか、カグヤああああああああっ!」


 その声がカグヤに届いたかわからない。

 それでもガゲツは聞こえた気がした。


 ――ありがとう……と。


 それからガゲツは獣道のように細い道を下りている。

 脳裏に浮かぶのはカグヤのことばかりだ。

 あんなに吠えたてていた胸のうちは大切なものを失ってしまったかのように穴があいている。


 ずっと、命の危険と隣りあわせに生きてきた。

 こちらを殺そうとするものを殺し返し、その肉を喰らうことで生きてきた。生きることが戦いだった。

 周囲はすべて敵だった。殺すか殺されるかでしかなかった。強くなければ生きられなかった。


 それなのに、たったひとりのやさしさに触れて、ガゲツは弱くなった。

 人の子のように名をあたえられ、子守唄をうたってくれた。人など簡単に引き裂ける爪のある手を握ってくれた。


 あのときはわからなかった。だが自分はうれしかったのだ。ただそれだけのことが、たまらなく、うれしかったのだ。


 カグヤはガゲツの言葉ひとつひとつがうれしいと言ってくれたが、それはこっち台詞だった。

 それなのに、カグヤは死にに行き、ガゲツは彼女に救われて生きながえている。

 カグヤは生きろと言った。自分の分まで生きろと。


 そんなとき、前方から草や枝をかき分ける音が近づいてきた。

 たくさんの人間たちと鉄の匂いがする。兵と武器の匂いだ。カグヤが言っていた現帝の何某という輩の兵が霊山を登ってきているのだろう。すぐに気づかなかったのは迂闊としか言いようがない。

 眼の前の草木が切り払われ、大量の人間が姿を現せた。鉄の鎧で武装した兵が鉄の剣で草木を薙ぎ払っている。

 兵の中心には輿があり、そのうえには枯れ木のようにやせ細った老人がいた。豪華な衣装に身をつつみ、欲望に濁りきった眼で生にしがみつこうとしているようだった。


 あれが皇帝何某だろう。

 その隣には金でできた腕輪をした大柄な武将がいた。

 あちらもガゲツ――鬼の存在に気づいたようだ。 


「化物がッ、そこをどけ! 殺されたいのか!」


 戦闘にいる兵たちが剣と槍を向けてきた。

 ガゲツは言われるがままに横に退き、道を譲った。

 強い敵と立ち会ったときは、相手に敵意がなければ歯向かわない。殺されると思ったら逃げる。

 それは生きるうえでは当然のことだった。

 だから、ガゲツは戦わない。たとえ臆病者と罵られようとも、嘲弄をあびせかけられようが変わらない。


 だが、横に退いた瞬間、ガゲツの胸の中でなにかが疼いた。

 眼の前を大量の兵が通っていく。

 そのなかで、ガゲツは輿の上にいる人物――現帝に声をかけていた。


「おまえはなんのためにここを登るんだ?」


 現帝は鬼が人の言葉を喋ったことに、驚きを隠せないようだが、興がのったのかしわがれた声で答えた。


「知れたこと。この不死の山では、四百年に一度だけ、ある一族によって不老不死の薬がつくられるのだ」


 その声には生への執着がこびりついていた。


「不老不死の薬は皇帝であるわしにこそ必要なのだ。わしが永遠に生き、愚民どもを導いてやらなければならないのだ」


 その眼は欲望に濁りきり、その奥には死への恐怖に染まっていた。


 死にたくない。死にたくない。永遠に生きてこの世の享楽を貪りつくしてしまいたい。死にたくない。生きていたい。永遠に。惨めに老いたくない。死にたくない。死んでなるものか――白く濁った瞳がそう訴えていた。

 まるで亡者が生を羨み、生を渇望するかのごとく山頂に手のばしていた。


「そうか」


 ガゲツも同じように山頂を見た。

 あそこにはカグヤがいる。

 この男が言う不老不死の薬とは、彼女が燃えて残った『灰』のことだ。それを喰おうとしているのだこいつは。

 そう思うと胸のうちで疼いていたものが、ふつふつと滾りはじめた。


 ――ああ、こいつが『灰』であろうと、カグヤを喰らうのは許せないな、とそう思った。


 思った瞬間、身体は動いていた。

 竜巻のごとく、鋭い爪を振りまわし、眼の前の人間を肉塊に変えていた。

 鮮血があたりを染め、血臭が鼻の奥を刺激した。

 それは完全な奇襲だった。

 何千もの兵に怯えて、身を縮こまらせちた鬼が突如として豹変したのだ。


「カグヤには指一本触れさせない」


 彼女は自分の意志で世界を護ることを選んだのだ。

 だったら、それまでは自分がカグヤのことを護ろう。それが彼女にもらったやさしさに返せるものだ。それがガゲツが彼女のためにしてやれる唯一のことだ。


「この化物がぁっ!」


 周囲にいた兵が進行をやめ、槍を突きだし襲いかかってくる。

 ガゲツはそれを避けずに突っこんだ。爪で鎧に護られていない首筋を裂き、絶命したその兵の身体を盾にして、体当たりをするように突進する。そしてあたるが幸いとばかりに爪を振るい、牙をむいた。


 ――化物めっ! 化物め化物め化物化物バケモノバケモノ――


 そんな声がこだまするように、兵たちが口々に喚いていた。


 ガゲツは血に染まった爪を振るいながら言った。


「違う。オレはバケモノじゃない」


 笑みを深めて牙をむき、誇らしく、彼女にもらった名をなのる。


「オレは――ガゲツだ!」


 身のうちから次々と力が溢れるようにわいてきた。


「ぐるああああああああああああああああああああああああああああっっ!」


 吼えた。

 口が裂け、咽もつぶれよとばかりの咆哮をあげ、眼前の敵を屠ふっていく。

 剣で腕を切られようと、槍で足を縫いとめられようとも、決して止まらない。

 ただカグヤを害しようとするものを、片っ端から薙ぎ払っていく。


 彼女はガゲツのために世界を救うと言った。

 だったら、自分はカグヤのために戦おう。

 たとえ、それが勝てない戦いであろうとも、何千もの敵がいようとも、それで死ぬことになろうとも、後悔はしない。


 それは自分のためだけに生きてきたガゲツにとって、はじめて他人のためにする行動だった。


「――っぁああああああああああああああああああああああああああああっっ!」


 天にも届けとばかりにガゲツは吼える。


 そのとき――


 ――天が陰った。

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