40 魂の嫁、その愛

 空のグラスを傾けると、田中の頭を踏みにじっていた男がさっと動いた。


 まるで私の使用人かのように、彼は空のグラスを注ぐためのボトルを持ち上げた。


「む、鈴木、他にもう残ってないのか?」


「空ならそれで最後よ。ないなら冷蔵庫の中にあるものでも出してあげなさい」


「あるのはビールとチューハイと……後は割り用のウォッカしかないな。待っていてくれ、ひとっ走り――」


「そこまでしなくてもいいわ。鈴木と同じ物でも頂戴」


 今の私はなんでも美味しく飲める。


 プルタブを開けると渋々といった様子で、渡辺がグラスに注ごうとしてくる。


「いいわよこのままでも」


「不覚だ……ユーリアたんにこんな安物を口にさせてしまうとは。ユーリアたんが来るとわかっていればこんな無様な真似をせずに済んだというものを……」


「ずっと思っていたんだけど、私を呼ぶときに付ける、その『たん』ってなんなの?」


 奪い取るようにして缶を手にすると、ずっと気になっていたことを指摘した。


 おそらくは敬称の類なのだろうが、一度も耳にしたことのない言葉だ。


 もしかすると、彼らの世界では極一般的に使われているものか。私に従順なこの男のことだから、悪口の類ではないだろう。ユーリア様とか、ユーリア嬢とか、そういったものに類ずる敬称なのかもしれない。


「気持ち悪いオタクが、萌えキャラを呼ぶときに使う敬称」


 と、答えを返してきたのは、息絶え絶えに立ち上がった田中だった。


「『ちゃん』の幼児語だったり、タイプミスだったり、方言だったり色々あるけど、渡辺のようなオタクが使うときは、気持ち悪い意味での敬称で間違いない。つまりユーリアが気持ち悪いオタクに粘着されている証」


「まだ苦しみ足りないようだな、田中!」


 また田中に襲いかかった渡辺。今度はあっさりやられることなく、その拳を田中は受け止めた。間髪入れずもう一つの拳は必要に腹部を狙うも、それもまた受け止めた。


 力は拮抗したか。まるで力比べをするようにそのまま押し合っている。


「可哀想な話だけど貴女は、息をしているだけで渡辺に性的搾取をされている。虎視眈々と、その身体を貪らんと狙っているから気をつけて。その缶は後で回収されて舐め回されるから、自分で処分するのを推奨する」


「俺の想いは邪な気持ちだけでは断じてない! ユーリアたんの心を一番欲さんほどに、俺は心の底からユーリアたんにこの愛を、そして魂を捧げている!」


 なんていつか屋上で聞いたようなことを渡辺は叫んだ。


 そういえばさっきも君の夫だとかなんとか、バカみたいなことを言っていた。


 これだけの言葉を吐かれておいて、私も気づかないわけがない。


「へー……渡辺。貴方、私のことが好きなのね」


「そんな軽い気持ちではない。君は俺の魂の嫁だ」


 からかうように言ってやったのに、渡辺に躊躇はなかった。


 魂の嫁だなんて告白、聞いたこともない。


「大丈夫、ユーリア。貴女のことはわたしと佐藤が守る。気持ち悪い粘着質でねちょねちょしていそうなオタクの手は、指一本触れさせない」


「渡辺のリアルユーリアルートは、絶対に潰してやるから安心してくれ」


「次元を越え、ついに辿り着いたこの世界。その夢の前に立ちはだかり邪魔をするというか……! 鈴木には悪いが、貴様らカスは全員葬り去ってくれる!」 


「葬り去るのはいいけど、あんまり家の中で暴れないでよ」


 諍いを起こす三人を見て、鈴木は投げやりな様子だ。


 ここまで争っておいて、よく険悪にならないものだと驚きを通り越して呆れてしまう。この四人は、そういう意味での信頼関係があるのだろう。


「ユーリアもこれから大変ね。冗談みたいだけど、渡辺のあれは本気なのよ」


 かつて私に対抗意識していた女の声が、私のことを心から憐れんだ。


「そうらしいわね。中々気分がいいわ」


「へ?」


「は?」


「え?」


「ほう……!」


 私の返事にそんなに驚いたのか、四人が変な声を上げる。


「気持ち悪いオタクの愛情が、気分がいいだって……?」


「ユーリア、貴女正気で言ってるの……?」


「貴女は渡辺の気持ち悪さをわかっていない」


「ふっ、やはりユーリアたんは魂の嫁。純粋なる俺の愛の深さが伝わったようだ」


 最早咎めるような口ぶりをする三人に、優越感に浸るかのような渡辺。


 ラクストレームの家では男尊女卑が煮詰まっている。お父様には女として生まれた瞬間から見放され、生んだ張本人は女腹だと罵られたことで私を憎んだ。兄たちの態度は言わずもがな。それ以外の家の者たちも、腫れ物に触れるかのようだった。


 だから私は生まれてこの方、愛情というものを注いでもらったことはないのだ。


 リリエンタールのお姫様のように美しく育ったのなら、少しは周りの態度も変わったかも知れないけれど、貧相な身体に育ってしまった。


 学園に入ってからは男も女も惹きつけることなく、一人でずっと生きてきた。


 そんな愛のない世界で育ったのだ。初めて向けられた惜しみのない愛情が、素直に嬉しかったのだ。


 というわけではない。


「だって笑えるじゃない。あのカノン・リーゼンフェルトの顔と声が、ユーリア・ラクストレームを愛しているんだなんて音を鳴らすのよ。最高に滑稽ね。渡辺、貴方はそれだけで価値があるわ。ええ、面白すぎて好意の一番高いところに、つい貴方の名前を置いてしまったわ」


「どうだ見たかカス共! 純粋なる愛を持って接すれば、自ずと正しき答えは返ってくるのだ。転生したときは、なぜ主人公たる蒼一ではなくカノンなのか煩悶したものだが、やはり愛した世界は正しく俺を導いてくれた! 正しき行いには正しい結果がついて回ってくる! カス共とは違うのだカス共とは! 世界は、そしてユーリアたんは俺を選んだのだ!」


 得意げなカノンの顔と声がバカみたいな音を鳴らす。


 私への愛を叫ぶその様は本当に滑稽だ。バカみたいに面白すぎて、つい笑ってしまった。


 そして我が事ながら驚いた。こんな風に笑う機能が自身に備えられていたとは。


「面白いものを見て笑ったのなんて初めてよ。渡辺、貴方のことは気に入ったわ」


「俺は君を笑わせるために、この世界へ辿り着いた男だ。これで終わりじゃない。これから一生かけて、君を笑わせ続けてみせるさ」


 生真面目なカノンの顔で、私に愛をささやきながら片膝をつく。


 今度こそ吹き出すほどに笑ってしまった。


 リーゼンフェルトの名すら下に見る、選ばれた者という自負と優越感と特権意識。存分にそれが宿っていたはずの肉体が、よりにもよってユーリア・ラクストレームの前に跪いている。


 面白い玩具が手に入れた子供の気持ちが、生まれて初めてわかった。


 もし願いが叶うなら、私はカノンの魂を人形にでも入れて、蘇らせることを選ぶだろう。そしてこの光景を見せて、その感想を聞かせてもらうのだ。


 悪趣味と思われるかも知れないが、私の趣味など端からよくはない。つまらない人生に彩りがもたらされるならと、世界を終わらす計画に一口乗った、自分勝手な独りよがりな女だ。


「そこまで言うのなら、貴方の愛というのが、どこまで本気のものなのか。まずは形で見てみたいわね」


「形?」


「ええ、愛なんて言葉だけならいくらでも嘯けるでしょう。貴方の愛というものを、見える形で表現して。私を笑わせ続けてくれるのでしょう? 期待しているわよ」


 考え込んだ渡辺を見て、ニヤニヤと口元が緩んでしまう。


 この男の愛情自体には興味はない。だからといってこの男を困らせたいわけでもない。


 ただカノンの身体で、今度は一体どんな滑稽な姿を見せてくれるのか。それを試してみたくなったのだ。


「止めておけ。絶対にろくなことにならんぞ」


「そうね、嫌な予感しかしないわね」


「気持ち悪いオタクの脳みそからひねり出される愛情表現なんて、絶対に後悔する」


 三人から投げかけられる声。


 それは無茶ぶりをする私を咎めるものでもなく、私に振り回されんとする友人を思うそれでもない。どうせガッカリするとか、つまらないとかでもなく、本当に私を案ずる音であった。


「ふっ、これで考え込むだなんて、俺もまだまだだったな。常日頃の、ありのままの自分の姿を見せればいいだけだった」


 私に夢中で、三人の声が耳に入っていなかった渡辺は、リビングの扉を開いた。


「ついてきてくれユーリアたん、俺の愛の形、ありのままの表現を君に見てもらいたい」


 カノンの身体で、これ以上どんな滑稽なものを見せてくれるのか。


 大きな期待こそはしていないが、それなりに楽しみながら私はその背についていく。


 佐藤、鈴木、田中。


 彼らは渡辺のことを心から正しい形で理解し、私を案ずるその声は正しいものであった。


 人の愛情とはここまでおぞましく、気持ち悪く歪むものなのかと。


 私はそれを思い知ることとなったのだ。

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