第35話 彼の人

 サクサクと落ち葉を踏む音に、思わず歌い出したくなる。

 レナロッテの暴走事件から早一ヶ月。久しぶりに街へ出向くことを、ノノは楽しみにしていた。

 ノノが培養瓶でメンテナンスの間、フォリウムとレナロッテが好き勝手に食料を使ったお陰で、小麦粉はおろか、他の調味料や保存食の備蓄も乏しくなっていた。


「まったく。お師様とレナって、日常生活を送るのが下手なタイプなんだよね」


 ぶちぶちと独りで愚痴る。炊事も洗濯も掃除も。森の小屋の家事は、狐の子がいなければ正常に回らないのだ。


「ほんとに、ボクがいなかったら、あの二人の生活はすぐに破綻しちゃうんだから」


 言ってから、ふと気づく。

 ……なんでボク、レナを頭数に入れてるんだろ?

 以前まえはお師様のことだけ考えていれば良かったのに……。

 眉間にシワを寄せて唸りながら森を歩いていると。

 突然、ガサッと熊笹の藪が揺れた。

 ノノが警戒して振り返ると、そこにいたのは……。


「あ!」


 思わず驚きの声を上げたノノに、藪を掻き分け現れた人物は足を止めた。

 筋肉質で長身、短い黒髪の三十がらみの男性は、


(ブルーノ!)


 数ヶ月前、ノノが森の畔であったその人だ。今日は軍服ではなく、チュニックにマントという普通の旅人風の出で立ちだが間違いない。

 何故、レナロッテの元婚約者が森の中にいるのだろう?


「もし、そこのご婦人」


 怪訝そうに見つめるノノに、先に話しかけてきたのは男の方だった。


「あなたはこの森の住人か?」


「まさか! この森に人は住んでませんよ。あたしゃ街の者で、山菜を採りに来たんですよ」


 ノノは老女を装い人当たりよく答える。この姿で会うのは初めてだから、ブルーノは老女が青年薬売りと同一人物だとは気づいていない。

 男は落胆した様子で「そうか」と呟くと、気を取り直したように顔を上げた。


「では、一ヶ月ほど前に起きた事件は知っているか? 街に魔物が現れ、この森に逃げ込んだらしいのだが」


 知ってるも何も当事者だ。しかし、そんなことはおくびにも出さず、ノノはにこやかに、


「ああ、噂になってましたねぇ。憲兵さんが退治したとか」


「その魔物が退治された場所を知らないか?」


「さあ。知りませんし、知ってたって、そんな気味の悪い場所近づきませんよ」


 老女はああ怖い、と身震いする。

 男は眉尻を下げて、諦めのため息をついた。


「そうか。引き止めて申し訳ない。道中お気をつけて」


「いえいえ。軍人さんもお気をつけて」


 ノノはにこやかに頭を下げて、その場を去ろうとして――


「……待て」


 男は剣呑な声を出す。


「貴様、何故俺が軍人だと知っている?」


 ――自分の失策に気づいた。


「え? あたし、そんなこと言いました?」


 ノノは精一杯とぼけるが、


「言った。確かに」


 ……さすがに誤魔化されなかった。

 細かい奴だな、とノノは内心舌打ちする。

 どうこの場を乗り越えるかと考えを巡らせている間にも、男は大股で近づいてくる。ひくり、と鷲鼻を動かす。


「妙な気配がする。……貴様、人間か?」


 男の問いに、老女の顔が歪んだ。

 ……こいつ、やけに勘がいい。

 我知らず、ノノは唾を飲み込む。ここは一旦逃げた方が良さそうだ。

 老女と男が睨み合う。

 意を決して、ノノが一歩後退あとずった……瞬間。


 ザシュッ!!


 目にも留まらぬ速さで腰の剣を抜いた軍人が、老女の身体を逆袈裟に斬り裂いた。

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