09
それはまるで、スコールの如く
「お嬢様、お待たせいたしました」
「クリス!」
私が部屋に入ると、すぐにアリスお嬢様が飛びついてきた。
先日、ジャックから歩行許可が出たからはしゃいでいるのよ。可愛らしいわ。
そんな彼女の頭を撫でつつ、私はお嬢様に話しかける。
「どうされたのですか?」
「あのね、あのね! ……あら、なんだったかしら?」
「ふふ、そんなことあります?」
「待っててね、今思い出すから」
昔のお嬢様も、結構天然な部分があった。
仕事はできるし他人への気遣いもできるのに、たまに抜けるの。特に、自分のことになるとね。
自分の婚約者に対して、本来ならば愛をささやくところ「ハーブを一緒に育てませんか?」や「ハンバーグのひき肉は何派ですか?」とか色気ゼロの手紙を送ったり、誕生日プレゼントを受け取った時「とても綺麗なボックスですわ。これは、どなたにお渡しすればよろしいのでしょうか?」と、自分のものだと認識してないところとか。
今思えば、恋とか愛とかにかなり疎いお方だったな。
今目の前で必死に何かを思い出しているお嬢様も、そんな雰囲気がある。
だから、カイン皇子と会っても話し相手としか思っていないように振る舞うのでしょうね。
「ああ、そうよ! 思い出したわ。カイン皇子が、お庭の一角を私の土いじりに使って良いって!」
「それはそれは」
「嬉しいわ。ねえ、ジャックに許可を取って城下町に出かけたいの。お花の種を買いたいわ」
「後ほど聞いてみましょう。それに、もう一つ良いお知らせがありますよ」
「……え、なあに?」
私から離れたお嬢様は、クルクルと回って喜びを表現しながら窓辺に落ち着いた。その軽快な足先に笑いつつ、ゆっくりとした足取りで私も続く。
サレン様のお姿をしたアリスお嬢様。
言葉にすると、それはとても均等の取れないものに感じる。でも、視界に入れてしまえばとてもしっくりとくるの。
あの時逃げてしまった私を許した彼女に、今度こそ忠誠を誓いたい。そう思わせてくる不思議な力を、アリスお嬢様は持っている。
そんな彼女は、少しだけ開け放たれた窓から吹く風へ気持ちよさそうに身を任せている。
ブロンズの髪がなびく度、私の視線は釘付けになった。それは、陽の光が当たってキラキラと輝く。まるで、宝石のように。
「ロイヤル社に問い合わせたところ、1週間後にあの記事を載せたお方との打ち合わせがあるそうです。どうされますか?」
「本当!? 行くわ!」
「かしこまりました。では、ジャックにはその外出許可もいただかないとですね」
「ありがとう、クリス!」
良かった。
お嬢様の笑顔を見られただけで、私の憂鬱な気持ちは全部吹き飛んだ。
元老院とのぎこちない関係、グロスター伯爵領の問題に、犯人探し、それに、居なくなったシエラ。ここを出れば、私は色々な問題に直面する。だから、今だけ。今だけは……。
「そういえば、お嬢様が初めてハーブを植えた日も、こんなカラッカラな陽気でしたね」
「そうだった? 私、あまり覚えていないわ」
「はい。あの時、私は洗濯物を干していて……」
今だけは、昔の思い出に浸らせてちょうだい。
そうすれば、先ほどからしている頭痛も吐き気も治ってくれると思うの。
***
晴天とは、まさに今日みたいな日を言うのでしょうね。
パトリシア様の案内で来た川辺は、崖の間に流れていた。流れるお水に太陽の光が差し込み、キラキラと輝いている様子が見ていて飽きない。
私、こういう場所に来たの初めてかもしれない。アリス時代も、あまり外に出ていなかったし。
でも、パトリシア様は良く来るのですって。行きの馬車の中で楽しそうにお話されていたのよ。伯爵令嬢なのに、こんなお転婆でよろしいの? 今日だって、かなりの軽装だし。ちょっと心配になってきたわ……。
なんて。
川辺に到着したら、そんな心配は吹き飛んだ。
「パトリシア様! こっち、お魚が泳いでいますわ! 大きいですわっ!」
「ふふ。ベル嬢ったら、はしゃいじゃって」
「ほら! 今跳ねたの、見ました?」
今日の調査は、パトリシア様と私、それにイリヤとアインスとサヴァンの5人で来たの。川を見に来たわけじゃないのは、百も承知よ!
それよりも、伯爵令嬢なのにパトリシア様はお付きが1人でびっくりじゃない? 聞いてみたら、「私がサヴァンしか連れて行かないの。お父様も諦めているわ」とのことだった。そこ、諦めちゃダメだと思うのだけれど……。
でも、今はそれよりも自然がすごいのよ! あのお魚は、なんて名前なのかしら?
植物の名前ならわかるのだけど、お魚の名前は全く知らないわ。ベルの好物のサーモンだって、切り身はオレンジ色だってわかるけど、泳いでいる時の姿はよくわからない。まさか、あの切り身がそのまま泳いでいるわけじゃないし。
「あれは、鮭と言ってこの辺りじゃ良く見られるお魚なんです。ある季節になりましたら、川の流れに逆らってもっと上流へと行くのですよ」
「鮭……ってサーモン!?」
「え、ええ。サーモンですけど……。ベル嬢は、サーモンがお好きなの?」
「あっ……。ごめんなさい、1人ではしゃいでしまって。えっと、食べたことがなくて。でも、気になってて……」
やだ、私ったら。ちょうどサーモンのことを考えていたものだから、飛びついてしまったわ。
ベルが好きな食べ物として認識してるのだけど、私自身は食べたことがないのよね。
ここで嘘をついても仕方ないし、聞いているのはパトリシア様と近くに居るイリヤだけ。アインスは、サヴァンと少し離れて待機しているから聞こえてないだろうし、素直に答えても問題はないはず。サーモン食べたいし!
「ふふ、そうなのね。イリヤ、獲って来なさい。大物を!」
「ガッテン承知ィ!」
「え、ちょ、え、イリヤ!?」
嘘でしょ!?
パトリシア様がノリノリで川辺を指差すと、イリヤも負けじとノリノリでパンツスーツの裾を縛り上げ駆け出してしまった。止める暇もない。
危ないわ。川辺は石がゴロゴロしていて、少しでも走ったら転んでしまうもの。なのに、イリヤは運動神経が良いのか真っ直ぐ川へと突き進んでいく。……ああ、靴を放り出しちゃって、ダメよ怪我しちゃう。
慌ててアインスの方を向くと、
「今日は良い天気ですから、服が濡れてもすぐに乾くでしょうなあ」
「ええ、そうですね。こういうこともあろうかと、クーラーボックスを持参して良かったです」
なんて、サヴァンと一緒に微笑みながらお話をしてるじゃないの。え、良いの!?
というか、香料の調査は!? 鮭は、頑張っても香料に……斬新すぎるけどなりそう。
「イ、イリヤ、無理しないでね。流されでもしたら大変だわ」
「お嬢様あああ、イリヤ素手でお魚さんをゲットしますので見ててください~~~~」
「イリヤ! 大物よ、大物を獲るのよ!」
「任せてくださいいいいい!!!」
「……イリヤ、聞いてる?」
イリヤは、バシャンと川辺に飛び込み、楽しそうに水飛沫をあげている。なんだか、止めるのが忍びないくらい。
風邪引かないかしら? 毛布も持ってくるべきだったわ。
なんて心配を他所に、視線の先では腰まで水に浸かりながらも既に獲物を掲げて笑うイリヤが居る。せっかくパンツスーツの裾を折ったのに、あれじゃあ意味がない。
しかも、その手にはすでに魚が1本収まっているし。
あれが鮭? お口がウニッとしていて可愛らしい。顎がしゃくれてるって言うのかしら? とても愛嬌があるわ。お目目もクリッとしていて……。
あれを食べるの? ちょっとだけ、お屋敷で育てたい欲がある。
「獲りました~! パトリシア様、大きいですか!?」
「……え、獲るの速くない?」
「まだまだ! その倍は行きましょう!」
「!?」
「イリヤ、やります! まだまだ行きますよ~~!!」
「え、いや、ちょ……」
これは、止められないわね。
私は、クーラーボックスを持って駆け寄るサヴァンを横目に、楽しそうなイリヤとパトリシア様を見ながら笑うしかない。
その後ろで、アインスが魚を捌く準備をしているのも、もちろん止める気はないわ。知識豊富な彼なら、美味しくいただける部位を熟知しているでしょうから。
だから、どうして捌く道具を持ってるの? なんて突っ込んだら負けよ。
「イリヤ、がんばれ!」
「お嬢様あ、見ててください~! イリヤ、お嬢様にお腹いっぱいサーモンを~」
「ちなみにイリヤ、お嬢様はまだナマモノを召し上がれる胃ではないから」
「えっ」
包丁の刃を光にかざして確認しながら、アインスがイリヤに話しかける。すると、今まで楽しそうにしていたイリヤの動きがピタッと止まってしまった。
口元はまだ微かに笑みを残し、川の激しめの流れの中不自然に立ち尽くす。
あ、コレ泣くわ。
「……お嬢様、イリヤのサーモン食べられない?」
案の定、イリヤは私のいる位置からでも見えるほど目にいっぱい涙を浮かべてこちらを見ていた。その手には、いつの間にか本日2本目の鮭が握られている。
ビチビチと大暴れしてる鮭に、泣きそうなイリヤ。……言葉にすると結構シュールだわ。
そんなものを見せられたら、「食べない」なんて選択肢はない。
「た、食べる! 食べるわ! ねえ、アインス。焼き鮭なら食べて良いでしょう?」
「そ、そうよ! 焼きならベル嬢も食べられるわ!」
「焼き魚なら良いでしょう。では、火を起こしますね」
「私がやります」
「サヴァン、よろしく」
パトリシア様も、同じことを思ったのでしょうね。私と一緒に慌てだしたもの。
私たちは、靴が濡れない浅瀬ギリギリのところまで行ってイリヤへ懸命に話しかける。
すると、アインスとサヴァンも近くで動き出してくれた。私たちのように慌ててないところを見ると、大人ってすごいわ。……アインスは、なんだか苦笑してない? 気のせい?
「じゃあ、お嬢様はお召し上がりになれるのですね!」
「ええ、食べるわ。だから、たくさん獲ってちょうだい」
「はい! イリヤ、鮭100本行きます!」
「え」
やっぱり、止めた方が良かったかもしれない。でも、遅いわね。
パアアッと表情を明るくしたイリヤは、再度腕まくりをして気合いを入れると、持っている鮭をアインスに投げ次の獲物を探し出した。……本当、風邪を引かなきゃ良いのだけど。
そんな時だった。
「……?」
「どうしたの、ベル嬢。水飛沫でも飛んだかしら?」
「いえ……。あの、何か音が」
「音? 音って?」
どこからか、ドプンと何かが入水したような鈍い音が聞こえてきたの。魚が跳ねた音じゃない。もっとずっと、重めの音よ。
周囲を見渡しても、特に変わった様子はない。でも、気になった。
私は、そのまま川辺の浅瀬を沿って上流の方へと歩いていく。
「お嬢様、そちらは一気に深くなるのであまり行かないよう」
「でも、何か聞こえたの。川には入らないから、ちょっと見てくる」
「イリヤも行きます。アインスは、ここでパトリシア様とサヴァンさんをお願いします」
「わかったよ。お嬢様が落ちないように見ててくれ」
すると、後ろからびしょ濡れになったイリヤもついてきた。持っていた鮭は……アインスに渡したのね。
それに、いつの間にか靴も履いてる。これでイリヤが歩いても、怪我をすることはないわね。
なんて心配は、する必要がなかった。
なぜなら、歩き出して数歩でありえないものを目にして立ち止まったから。
「え……。イリヤ、あれ」
「キャッ!?」
「お嬢様は、ここに居てください! アインス、待機!」
「はい!」
きっと、ここに居る誰もが自分の目を疑ったと思うの。
私は驚愕し、パトリシア様は悲鳴をあげた。サヴァンは急いでパトリシア様のお目を隠すため両手を伸ばし、イリヤは流れが速く底の見えないところへと身を投げる。そして、アインスは足元にあった医療カバンを持って駆け出した。
「イリヤ、気をつけて!」
返事はない。
わかっているわ。水の流れる音が大きくて聞こえていないってことは。
でも、言いたかったの。
イリヤは、私の声が聞こえていないほど真剣になって水を掻いていた。全身ずぶ濡れになることを構わず、流れに逆らってある一点を目指して泳いでいる。
その視線の先には……。
「……あれは、人?」
「お嬢様、見ないようにしてください。イリヤさんが助けても、きっともう……」
上流から、人が流れて来たの。背中しか見えないけど、あれは絶対に人間だわ。
ってことは、さっきの音はあの人を投げた音だったの? そう思えば、重ための音だったのに納得がいく。
後ろでは、ワナワナと震えるパトリシア様がサヴァンに寄りかかってその様子を見ていた。恐れながらも、彼女は目を逸らさない。サヴァンに塞がれていた手を自ら跳ね除け、イリヤの方を向く。
私もそれに倣って、川辺に視線を向けた。そして、両手を胸の前で組み無事を祈る。今の私にできることは、それしかない。
そんな中、アインスは川沿いにシートを引いて治療の準備を淡々と進めていた。
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