誰かの匙加減で毒にも薬にもなる
「カイン皇子」
「やあ、……えっと」
「アリスです」
「ああ、そうか。アリスか」
「はい。何かご用件でも? あ、もしかしてこの身体の持ち主の方に?」
宮殿のちょうど真ん中、中庭から少し離れたこの部屋。
ここは、サレン殿が花嫁修行をするために用意した部屋だった。でも今は、アリスが使っている。……サレン殿の身体の中に突如目覚めた、アリスが。
僕がその部屋のドアをノックすると、すぐに彼女が顔を出してくれた。その顔はサレン殿の微笑みなのに、中身はアリスだって言うのだから世の中不思議に満ち溢れているよね。
第一皇子という立場で、僕はいろんな勉強を重ねてきたつもりだったけど……。まだまだ勉強不足だって感じているよ。
無論、彼女が嘘をついていることも想定できる。それはわかってるさ。でも、頭ごなしに全否定はよくない。彼女が嘘をついて、なんのメリットもないし。
隣国は今、この国との架け橋を探しているんだ。サレン殿が僕と婚約して籍を入れないと、その目的は達成できないだろう? そんな中「アリスです」なんてするのは、むしろデメリットでしかない。
だから、僕から見た彼女の行動の真意は、「不思議なことが起きた」って結論に今のところは至っている。
「んー、どっちでも。ロバン公爵が捕まらないから、暇してるんだろうなって思って寄っただけさ」
「そうなのですね。では、私でもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
「では、少々お待ちいただけます? 今、ジャックが私の体調を見てくれていたので」
「わかったよ」
アリスは、そう言って一旦ドアを閉じてしまう。
確かに腕まくりしていたし、脈でも見てもらっていたのだろう。途中だったようだし、申し訳ないことをしたもんだ。
回診の時間じゃないと油断していたが、そもそも今の彼女の状態が普通じゃないから。ちゃんと診てもらわないと、何が起きるのかわからない。
僕は、持参していたカバンの中から国史の教科書を手に取った。
明後日、試験があるんだ。合格は当たり前、1番も当たり前じゃなきゃいけないから、教科書丸暗記必須だよ。裏の出来事についても、もう少し別の文献で調べておかないとね。
どんなテスト内容なのか、今から楽しみで仕方がない。
「お待たせしました」
「では、私はこれで失礼します。……カイン皇子」
「……はい」
「明日朝、定期検診忘れないようお願いいたします。血液検査もございますので、くれぐれも寝坊や別の用事を入れないように」
「ヒッ……ヒィ」
「では、失礼します」
ドアが急に開いたと思えば、ジャックがニュッと出てきてサッと去っていく。相変わらず、無機質なお方だ。
ジャックは宮殿の侍医を、5年前からかな? 担当している。結構居るんだけど、いまだに慣れない。
僕的には、昔居たアドリアンの方が良かった。注射も痛くなかったし、僕の話も子ども扱いしないで聞いてくれたし。それに、勉強でつまずいたところも教えてくれた。侍医なのに。
ジャックも、悪い人ではない。ただ、僕と相性がよくないってだけ。あと、注射が痛い。
だから、別に布団被ってその時が過ぎるのを待って「寝坊した!」って慌てたフリしたり、「そういえば今日フランソワ先生に呼ばれていたんだ!」なんて言ったりしてジャックを困らせちゃう。この年になって何してんのか、僕にもわからない。あと、注射が痛い。……普通に痛い。
「ふふ。相変わらず、注射が苦手なのですね」
「……はは。変なところを見られてしまったね」
「誰にだって、苦手なものはありますよ。……私にだって」
「……アリス?」
ジャックの消えた方角を睨みつけていると、いつの間に居たのかアリスが笑い声をあげてきた。先ほどまでまくっていた袖は、下されている。ってことは、やっぱりさっき邪魔しちゃったんだ、申し訳ない。
アリスは、ドア前で神妙な顔つきになって下を向いてしまった。
でも、すぐにいつもの明るい彼女に戻る。
「ふふ! カイン皇子はそういうお顔もできるのですね」
「へ!? ど、どんな顔?」
「うーん、とても可愛らしいお顔です。陛下そっくり」
「……それって、褒めてるの?」
「さあ、それよりもお部屋にどうぞ。明後日、試験があるのでしょう? ご一緒させてくださいな」
「どうしてそれを?」
「ジャックがそう言っていました。「明後日に定期検診をさせると逃げられるから、明日に予定変更した」って」
「……恥ずかしい」
それをアリスに言わないで欲しい!!
ダメだよ、ジャック。それはプライバシーだ! ……多分。いや、僕が悪い。わかってる。
僕は、顔を熱くさせながら部屋へと入る。すると……。
「……?」
「どうされましたか?」
部屋の全ての窓が開け放たれていた。寒い季節にも関わらず。
それに、微かに甘い香りがする。これは……?
「あ、いや。なんか、良い匂いがするなって」
「ジャックも同じことを言っていました。私は何も感じないのですが……。苦手な匂いだったらしく、部屋を全開にして行ったのですよ。寒くてかないません」
「じゃあ、閉めようか」
「ええ、そうしましょう。お手を煩わせてしまい、申し訳ございません」
「そんなこと、思ってないよ」
部屋に入ると、とても甘い……そう、フルーツのようなさっぱりとして、それでいて、甘ったるい香りがした。でも、アリスは匂わないらしい。
きっと、僕のお腹が空いているからだ。やっぱり、さっきサリエルに言われた時サンドイッチをいただけば良かった。
僕は、アリスが向かった方とは逆の窓から順に閉めていく。
***
城下町を抜けて1時間。
思ったよりもだいぶ早めに、ジョセフが見つけた鉱山へと到着した。
「……ここか」
「結構近かったなあ。地図的に、もう少しかかると思ってたけど」
「思った以上に坂道がなかったから、馬も走りやすかったんだろう」
メンバーは、俺、シエラ、それに、ヴィエンの3人だ。本当はセヴランも連れていく予定だったのだが、先日の遠征で足を捻ったらしい。山道を歩かせるわけにはいかないから、その代わり机上の仕事を渡してきたよ。
俺たちは、馬をゆっくりと走らせ鉱山の中へと入っていく。
思った以上に広く、馬を走らせても問題ないほど整備されている。これなら、外の道の方がデコボコで走りにくい。とはいえ、外も他の道に比べてかなり綺麗にしてあった。
「観光化でも目指しているのだろうか」
「それ、あり得るね。馬を使わなくても歩きやすそうだから、領民たちが観光スポットにできるし」
「グロスターが考えそうなことだ。どうせ、入場料とか言って馬鹿高い金をふっかけるんだろう?」
「まあ、それはもう叶わないけどね」
なお、いまだに、グロスター夫人と領民長は見つかっていない。
グロスター伯爵とその使用人の検死は終わっているものの、遺体はまだ教会に運ばず宮殿の安置室に寝かされたままだ。遺体全員に毒物反応が出たとかで、このまま埋めるにはもう少し毒を抜かなくてはいけないらしい。
遺体は、毒の排出されるスピードが生きた人間より数百倍も遅いとか。今すぐ埋めると、棺桶から毒素が土壌に移ってしまうんだ。田畑で育てる食べ物に影響するからな。良くないよな。
まあ、それはさておき。
鉱山は、とても静かだった。
ということは、ここで鉱業活動は行われていないのだろう。そこまで大きい鉱山でもないから、加工や製錬をするなら機械音がするはずだ。それが聞こえないから、きっとここは試掘や採掘をするためだけの場所なのかもしれない。
「にしても、静かすぎないか?」
「まあ、稼働していないからね」
「なら、無駄足だったか。稼働してないなら、人の気配もないだろう」
「でも、道に真新しい足跡があるよ。誰かが出入りしてるのは確かみたい」
シエラが指差す方を見ると、そこには確かに足跡があった。
俺らは全員馬に乗っているから、足跡は別の誰かのものだ。しかも、先日雨が降ったばかり。ということは、直近でここを通った奴がいるということ。……なんのために?
「……これは、男性のものだな」
「だね。でも、靴を男性ものにして女性が歩いたってことも考えられる」
「確かに。これだけじゃ、なんとも言えんな」
「とりあえず、サイズ測って記録だけしとくよ」
「読み上げてくれれば、僕がメモするよ」
「頼む」
ヴィエンがサッと馬を降り、カバンから巻尺を取り出して計測してくれた。こいつは、昔から準備が良い。感心するよ。それを、記録してくれるシエラもこまめに動いてくれるから毎回助かっている。
俺は、こういう記録に手を出せない。隊長という立場だと、記録する側ではなく確認する側になるから。両方に関わってしまうとその書類の偽装もできてしまうとかで、法でそう定められているんだ。
その間、俺は周囲をゆっくりと見渡す。
ごく普通の鉱山で、特に変わったところはない。イリヤの取り越し苦労だと良いのだが。……いや、でもここで何かを掴まないと、また行き止まりになってしまう。
「記録終わりました」
「ありがとう。では、行くか」
「どんどん狭くなりそうだから、どこかで馬を休憩させておかないとね」
「もう少し登ったらにしよう」
何か、小さなことでも良いので手がかりを掴めますように。
そして、ラベルのしている事情聴取と先日判明した牢屋の記録改ざんと、何か繋がりがあれば良いのだが。
そう願いつつ、俺たちは手綱を握る。
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