どうしてなの?
月の明かりをここまでじっくり見たことがあったかしら。
それは、体内に入り込んでくるかのようにじんわり温かい。夜風が肌を通り過ぎても、月明かりのおかげで寒さは感じないの。不思議だわ。
「お嬢様、お身体が冷えますのでそろそろ中に入りましょう」
「……でも、アインスが」
ダイニングのバルコニーでアインスの帰りを待っていると、膝掛けを持ったイリヤがやってくる。
ここに来て、かれこれ2時間になるかな。
その間、お父様お母様はもちろん、ザンギフをはじめとする使用人たち全員が心配してここに来てくれたの。来た人の分だけ、ここに毛布が積み上げられている。……何枚あるか、数えるのが怖いわ。
流石に全部は使えないから、お父様が持ってきたものを肩に、お母様が持ってきたものを膝にかけて、あとはバルコニーの真ん中に備えられているテーブルに置いたのよ。
「お気持ちは十分わかります。しかし、ここでお風邪でも引かれたら……」
「……」
「お嬢様」
「……わかったわ。部屋に戻る」
「ありがとうございます、お嬢様」
私が諦めると、気が変わらないうちに、とでも言うように素早くイリヤが車椅子を押してくれる。
こんなわがまま言って、悪いことしちゃったな。後で、みんなにごめんなさいってしよう。
でも、その前にみんなの優しさを運ばないと。
せっかく持ってきてくれた毛布を、ここに置きっぱなしにするのは良くないもの。
「あ、待って」
イリヤを静止させた私は、膝掛けを取ってゆっくりと立ち上がりテーブルへと向かう。リハビリの成果もあり、こうやって数メートルなら歩けるようになったのよ。
でも、毛布を持ち上げようとしたところで、いつの間にか隣に来ていたイリヤに全部奪われてしまう。
こういうところ、過保護なんだから。
「私が持つわ」
「これは、イリヤのです」
「私にってみんな持ってきてくれたんだから、私が持つのよ」
「いいえ、実はイリヤのために持ってきてもらったのです」
こういうと時のイリヤは、絶対に譲らない。私だって、このくらいなら持てるのに。むしろ、体力つけるために持ちたいのに。
そう言うと、決まって「では、イリヤを持ち上げてください」って言われるの。無理なのわかって言ってるのだから、タチが悪い。
「イリヤは、私の車椅子を押すの。だから、これは私が持つ」
「イリヤは何でも屋なので、毛布を持ちながらお嬢様の車椅子を押すくらい朝飯前です。ふふん」
「じゃあ、イリヤ持つ!」
「どうぞ」
ほら! できないのわかってるようなこの表情!
今日は、なんとしても持ち上げてやるんだから!
私は、毛布を持つイリヤの後ろにゆっくり移動し胴体に腕を回した。エプロンのレースが手に当たり、少しだけくすぐったいけど我慢我慢。
「見てなさい!」
「え?」
まさか、本当に持とうと思っていなかったみたい。
イリヤはバルコニーの真ん中で、素っ頓狂な声をあげながら身体を硬直させてきた。
私だって、やる時はやるんだからね!
「お、お嬢様。ダメですって」
「なあに? もしかして、くすぐったい?」
「え、あ……」
でも、やっぱり持ち上がらない。
イリヤってば、見た目より結構がっしりしてるわ。
メイドさんって、お仕事で屋敷中動き回るから自然と鍛えられるのかな?
私も、リハビリでお屋敷のお掃除とかお洗濯してみたいな。イリヤにお願いしたら、一緒にやってくれるかしら?
そんなことを考えつつ抱きついたままイリヤの横顔を覗くと、なんとも言えない表情をする彼女が見えた。
月明かりが静かに差し、イリヤの顔色が真っ赤になっているのが視界に入ってくる。それに、ものすごい勢いで目が泳いでるのも。
「……イリヤ?」
「離してください……」
「え? あ、ごめんなさい。イリヤの言う通り、持てなかったわ」
「……いえ」
いつもと違う彼女に気づき急いで離れても、イリヤはこっちを向いてくれない。
もしかして、嫌なことしちゃったのかしら。調子に乗った私が悪かったわ。
私は、イリヤの全身が見れるよう数歩後ろに下がる。すると、夜風にメイド服の裾を揺らしながらも微動だにしない彼女の背中が、印象的に映りこんできた。
綺麗に2つ縛りされた髪、そこから見えるうなじから首のライン。その延長線上も見たいと思えるほどそれらは美しく、仄かな光の中でも輝きを放っているように感じる。
まるで、イリヤじゃないみたい。
「……イリヤ、嫌なことしてごめんね」
「……嫌じゃないです」
「そうなの? 無理しなくて良いわよ」
「無理はしてない、です……」
「イリヤ、こっち向いて。顔が見たいの」
「ダメです。お部屋に戻りましょう」
「……わかったわ、ごめんなさい」
怖くなって話しかけても、いつもの剽軽な彼女じゃなかった。
それに罪悪感を覚えた私は、素直に言うことを聞き車椅子まで歩いていく。先ほどまで感じていなかった寒さが、ここに来て私をいじめてくるの。
「部屋まで、お願いね」
「はい」
結局、毛布はイリヤが持った。車椅子の持ち手部分に器用に重ねて、そのまま押せるってすごいわ。
でも、部屋に着くまでの間、私もイリヤも一言も話さなかった。
こんなこと、初めて。
私は、もう絶対しないと心に深く刻み込む。
***
結局、アインスが帰ってきたのは次の日のお昼前だった。
相当疲れていたようで、いつもの愛想良い笑顔はない。それに、なんだか1日見ない間にやつれた感じもするわ。
「……アインス、お帰りなさい」
部屋で、お父様からいただいた事務処理のお仕事をしていると、そんな表情のアインスが入ってきた。カバンと聴診器を持っているってことは、私の様子を見に来たみたい。
「ただいま戻りました、お嬢様。昨日、お倒れになったとイリヤから聞きましたぞ」
「もう大丈夫よ。今は元気」
「確かに、お顔色は良いようですな。お仕事中かと思いますが、脈だけ見せてください」
「ええ。それより、アインスが辛そうだわ。この後、ちゃんと休める?」
律儀に一礼をしたアインスが、私の方へとやってくる。コツコツと靴を鳴らすその音すら、疲れているように聞こえるの。なんだか、申し訳ないわ。
アインスの負担にならないよう、脈を測りやすい姿勢になりましょう。
そう思った私は、車椅子を机から離して窓際へと寄った。すると、手首を掴みながら
「……温かいですな」
と、アインスが独り言をつぶやいてきた。
それは、私に聞かせるために言っている言葉ではない。無意識に口から漏れた言葉って感じに聞こえた。
アインスは、独り言を呟きながら先ほどまではなかった笑みを浮かべている。
「私、熱あるの?」
「おっと、失礼しました。ないですよ」
「良かった。アインスも温かいね」
「光栄です」
脈を測り終えた彼は、持っていたカルテに記録を取っている。横から覗くと、そこには脈や顔色、熱に関する記録だけじゃなくて、私が口にしたものや身長体重までもが記されていた。
……カルテって、こんな本格的なものなのね。そういえば、グロスター家には専属医療者って居なかったな。私が記憶している限り、屋敷で見たことはない。
「時に、お嬢様」
「は、はいっ」
記録を終えたアインスが、ペンを胸ポケットにしまいながら私の顔を覗いてきた。「カルテを見た仕返し」とでも言うように、私と同じ角度で覗いてくる。
……もしかして、見ちゃいけないものだったかしら?
急いで謝ろうとするも、アインスは全く別の話題を投げかけてきた。
「イリヤと喧嘩でもしましたか?」
「あ……」
そう。
昨日の出来事から、イリヤの様子がおかしいの。
別に、喧嘩はしていないのよ。
でも、いつもなら朝の着替えを手伝ってくれるのに今日はフォーリーだったし、朝食の席でも毎回横を陣取ってたのに後ろで見守るように居るし。おしゃべりもしてくれないし。
昨日のこと以外、原因が見当たらないの。
私は、意見を聞きたくて昨日あったことをアインスに聞かせた。
すると、それを聞いた彼は高笑いを始めてしまう。
「……アインス?」
「ははは! 失礼しました、お嬢様」
「私、もう一回イリヤに謝りたいの。おふざけが過ぎたから、イリヤ怒ってるんでしょう?」
真剣に話してるのに、アインスったら「これは良い話を聞いた」とか言ってくるのよ。
しかも、私の質問に答えずに窓の外を眺め出す始末。その横顔を覗くと、遠くの方を見ているような印象を受けるのだけれど。本当、どうしちゃったの?
「アインス? 私、謝りたいのだけれど」
「え? ……ああ、大丈夫ですよ。イリヤも、人の子だったってだけです」
「……?」
再度話しかけると、ハッとしたようにアインスがこっちを向きながら笑ってくる。状況のわからない私は、頭の上にたくさんの「?」を浮かべることしかできない。すると、
「今からイリヤを呼びますから、お嬢様はいつも通り接してあげてください」
「いつも通り?」
「ええ、普段と変わらず。それで、元通りになるでしょう」
「そんなので大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。お嬢様の主治医がそう言うのです」
それって、今関係なくない?
そう言おうとしたけど、アインスの堂々とした表情を前に、そんなことは言えないわね。
とりあえず、彼を信じてみよう。
「じゃあ、そうしてくれる? 疲れているのに、ごめんなさいね」
「いいえ。このくらいでしたら、今の私にとっては最高の息抜きになりますから」
「息抜き……? そんなにミミリップ地方の領民たちの治療が大変だったの?」
それは、気軽に聞いたつもりだった。
世間話みたいに、「今日天気良いね」レベルの会話をしたくて聞いただけだったの。
まさか、今イリヤに頼んでいる途中の答えが聞けるとは微塵も思わなかった。
「実は、領民の治療はしていないのです」
「え、何をしに行ったの?」
「どうせ、明日明後日には号外が出されると思うので言いますが……」
そして、アインスも世間話程度の軽い口調で私に話しかけてくる。
こちらを向きながら今まで見ていた窓の景色を指差し、
「あそこに見えるグロスター伯爵のお屋敷に行ってきたのです」
と、言ってきた。
そして……。
「お屋敷に出向き、グロスター伯爵と使用人の検死を担当して参りました。故に、お嬢様が温かいことにホッとしてしまいまして……お嬢様?」
それからの話は全く頭に入ってこなかった。
気づいたらいつの間にか居たイリヤを前に、止まらない涙をそのままにして、私は声をあげて泣いていたの。そんな私を、イリヤは慌てふためきながらも、最後はゆっくりと抱きしめてくれたわ。
きっと、私が正気だったら「嫌じゃなかったから、ダメだったのです」という彼女の呟きが聞こえていたかもしれない。
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