04

ある晴れた日に、遠い昔を思い出して



 始めから、違和感だらけだったんだ。

 お嬢様を食事に呼ぶことがおかしいと思った時点で、お止めすれば良かったんだ。



『お嬢様! お嬢様!』


 冷たいお水を口にしたアリスお嬢様は、突如立ち上がり全身を震わせ始めた。持っていたグラスを床に落とし、水がカーペットの中に吸い込まれて行く。

 その間も、アリスお嬢様は顔を大きく歪ませ、両手で首を押さえて苦しそうに血を吐き出していた。


『ア、アレ、ア……ゴフッ! ガァッ』

『お嬢様! 無理に喋らないでください! お嬢様!』


 直感的に、毒だとわかった。


 その血は、アリスお嬢様のドレスを真っ赤に染めていく。それに、吐いているのは血だけではなかった。

 昨日、自分が運んだ夕飯のスープに入っていたニンジン、ほうれん草色をしたものが、脳味噌のようなドロドロの液体に塗れて彼女のドレス、更には床を汚していく。


 俺は無礼を承知で、その口内に腕を入れ毒を掻き出そうと近づいた。その間も、グロスター家の人々が笑いながら何かを叫んでいたが俺の知るところではない。


 しかし、俺の手がアリスお嬢様に触れることはなかった。


『ハンナ! 離せ! どうして!』

『アレン。こいつはもう助かりません。今、死んでる途中なので、下手に『うるせぇ! お前にお嬢様の苦しみがわかるか! お前に、おま』』


 メイド長のハンナを始めとして、他の使用人が一気に俺を捉えてきたんだ。

 元々書類仕事しかしてこなかった俺は、その力を打ち負かすだけの体力がない。床に身体を押し付けられ、鼻に刺激臭を感じることしかできなかった。


『アレン、悪かったなあ。お前が懐いていたのはわかっていたのに』


 すると、目の前にジョセフがやってきた。視線はアリスお嬢様へ向いているが、俺に話しかけていたことは明白だった。


『だったら今すぐ止めさせろ! アリスお嬢様を助けろ! 家族だろ!?』

『はは、冗談。やっとここまで来たんだ。これで、口うるさい奴がいなくなったから思う存分女に金が使えるよ。アリスには感謝しないとな』

『お前ッ! アリスお嬢様が職務を担当してくださっているその報酬だぞ!? お前が使って良いものではない!』

『家族だから、良いのだよ。アリスが稼いだお金は、私たちのものだから』

『そんな都合の良い話が『ほら、ご覧。あんな醜い顔して。悪魔そのものじゃないか』』


 ジョセフはそう言って、俺の顎に靴の先を押し当てアリスお嬢様の方を向かせてきた。そこには、ピクピクと身体を跳ね上がらせながら毒に埋もれて行く彼女が居る。

 もう助からないことは、医学の知識がない俺の目から見ても明らかだった。


 見開いた瞳、必死に空気を吸おうとしたのだろう大きく開かれた口、眉間の皺は眉の形を失うほど歪み切っている。


「こんな素敵なドレス、着るの久しぶりだわ」


 アリスお嬢様がダイニングに入る時、俺に話しかけた最期の言葉がそれだった。

 今、そのドレスは元の色がわからないほど血と吐瀉物に染まっている。


 周囲には、グラスや食べ物の入っていた皿が粉々になって散らばっていた。先ほどまでは割れていなかったので、アリスお嬢様がのたうちまわった時に割れたのだろう。

 でも、今はそののたうち回ることすらできない彼女が、そこに居るんだ。


『君には感謝しているよ。アリスのご機嫌取りをしてくれたからね』

『畜生……畜生!』

『今日は、気分が良いからそんな口を聞いても許してやろう。ほら、見てごらん。アリスが……悪魔が地獄に旅立ったよ』

『……あ、あ、ああああああああ』


 感情の制御ができなくなり叫び声をあげると、再度顎を蹴られる。しかし、痛みよりもやるせなさが大きい。


 目の前には、微動だにせず床に突っ伏すアリスお嬢様が居た。ここからお顔は見えないが、もう息をしていないことだけはわかった。


『さあ、この日のために娘の墓を作ったんだ。おい、ハンナ。運ばせろ、庭のあの場所に』

『かしこまりました、旦那様』

『!? 何を言っている! すぐ墓に入れるというのか!?』

『おい、マリーナ、ドイット、あと誰だったかなそこの男。そいつを絶対に離すなよ。毒はまだ残っているんだ。同じ目に遭いたくなければ従うんだ』

『承知しました』

『おい! 止めろ! お嬢様から手を離せ!』


 グロスター伯爵は、ガタイの良い男を3人指名した。そいつらは、無表情になって俺を床に押し付ける。背骨が折れているのではないかと思うほどの激痛が、俺の体内を駆け巡る。


 しかし、それよりも怒りが優っていた。

 アリスお嬢様をまるで汚れ物のように運ぶメイドたち、それを見て大笑いしているグロスター家、そして、何もできない自分への怒りが。


『食事が済んでゆっくりしたら、庭に移動しよう。ほら、ハンナ。早く掃除をしてくれ。そして、料理長に隣の客間へ料理を運ぶよう伝えろ』

『かしこまりました、旦那様』

『食後の楽しみができて、嬉しいよ』

『畜生! 離せ、離すんだ! アリスお嬢様を連れて行くな!』


 どんなに叫ぼうとも、みんなが何事もなかったかのように日常へと戻って行く。

 それは、今目の前で起こったことが夢だったのではないかと錯覚するほど自然に戻って行くんだ。でも、床に散らばる鮮血も吐瀉物も、夢ではないと俺に訴えかけてくる。


 狂ってる。

 ここの人たちは、狂ってる。誰一人として、正常な人は居ない。


『アレンをどうされますか。お嬢様と同様……』

『いや、あいつは仲介屋から借りてきたやつだから殺すのはまずい。面倒だが、娘を埋葬する時までどこかに監禁しておけ』

『かしこまりました』

『私たちが食事をしている間、物的証拠は全部燃やせ。ハハハ! 証言が証拠にならない法律ってのは良いものだな!』

『本当に! これで、先方との取引が捗りますわね!』

『全く、手のかかる妹だったよ。賛同してくれれば、こんなことにはならなかったのに』


 俺は、そんな声を背中に聞きながら、3人の男に引き摺られるようにして別の場所へと連れて行かれた。

 廊下に出ても、もうお嬢様はどこにもいなかった。どこにも、どこにも……。

 全身の痛みよりも、息が止まるほど胸が痛い。



***



「……?」


 目を覚ますと、いつもの景色が広がっていた。

 味気ないベッドにサイドテーブル、それに、姿見がひとつ。カーテンの隙間からは、日の光が差し込んでいる。どうやら、朝になったらしい。……ということは、俺は寝ていたのか。


 なんだか、とても寝起きが悪い。背伸びをしてもスッキリしないのは、連日の仕事のせいだろうか。

 とても暗い夢を見ていた気がするも、何も覚えていない。俺は、その気分を変えるため、窓の方へ向かい一気にカーテンを開けた。


「眩しいな……」


 その光は、1日の始まりを知らせるもの。

 今まで感じていた憂鬱な気持ちが、それを見ただけでサーッと無くなって行くように感じる。


 今日は、なぜか休みをもらったんだ。演習場への出入りも禁止だと。何が何だかわからない。

 陛下には、ゆっくり休めと言われたが……。休む暇があるなら、身体を鍛えたいのに。


「……街に出るか」


 お父様とお母様に手紙を出そう。便箋がないから、それを買いに城下町へ行こうか。

 それから、武器屋を見て良い短剣があれば購入して、その後演習場で……は、禁止だった。急な休みだから家に帰ってもアレだし、不便だな。


 俺は、身支度をしながら姿見に自分を写す。

 白いシャツに茶色のベスト、タイは……黒しかないや。まあ、誰かと出かけるわけじゃないし、これで良いだろう。



***



 武器屋に行くと、店主に速攻追い出されてしまった。

 なんでも、陛下から直々に「アレンが来たら追い払ってくれ。あいつは今日、休暇なんだ」と言われたらしい。なんだそれ。


「……はあ」


 仕事で、武器屋を見たかったわけじゃないのに。趣味……は、違うか。でも、趣味に近い理由で見たかったのに。良いのがあれば演習場で試して仕事に使っ……あれ、俺ってこんな仕事人間だったか?


 予定が狂ってしまって途方にくれていると、ふとサレン様のお顔が浮かんだ。

 彼女は、香りものが好きだと言っていたな。あの日、出かけが台無しになってしまったお詫びに何か買おうか。


 そう思い武器屋の隣にある練り香水の店に足を進めると、見知った顔が。


「えっと、ベル嬢でしたか? フォンテーヌ子爵の」

「!? あ、えっと、ロベール卿。このような格好で失礼します、ご機嫌麗しゅう」

「かしこまらないでください。先日は、急にも関わらずお助けくださりありがとうございます」

「いえ、私は何も」


 練り香水の店前に、車椅子に座るベル嬢を見つけた。


 周囲を見渡すも、侍女が居ない。あいつが、外で主人の側を離れるわけないのにどうしたんだ?

 とりあえず、誰か来るまで隣に居よう。


「あの後、王宮付きの医療者に見せたのですが、対処が遅ければ後遺症が残るところだったと言われまして。騎士として、致命傷を負うところでした」

「そんなに深かったのですね……」

「ナイフが鋭かったみたいで。アインス殿にお礼をお伝えください」

「いえ、こちらこそ申し訳ございませんでした」

「……なぜ、あなたが謝罪をするのでしょう?」

「それは、兄……えっと、最後まで見届けられずに意識を失ってしまったので。私がお招きしたのに、失態でした」

「そんなことございませんよ。そのような体調の中、私のことをお気遣いくださり感謝しかございません」


 そう言って頭を下げると、「頭をあげてください」と焦られてしまった。その慌てようが、なんだか面白くて笑ってしまったよ。


 俺が笑うと、ベル嬢も一緒になって笑ってくれている。こんな明るく社交的な女性が、なぜ自殺なんか……いや、自殺とは限らないとアインス殿はおっしゃっていたな。俺も、自殺だとは思えない。


「今日は、おやすみなのですか?」

「ええ。陛下から、急に休暇を言い渡されまして」

「そうだったのですね。引き止めてしまって申し訳ございません」

「いえ、話しかけたのは俺……私ですから」

「ああ、そうでしたね」


 その笑いは、この晴天に相応しいと思うほどカラッとしたものだった。もっと近くで見たいと思い地面に膝をつけると、すぐさまベル嬢が慌て出す。


「お召し物が汚れてしまわれます。お止めください!」

「大丈夫ですよ、安物です」

「それでも、私なんかにダメです」

「私が良いと言っているのです」

「では、私が立ちます」

「え、ちょっ!?」


 ベル嬢は、本当に立ち上がった。立ち上がって、俺に向かって「さあ、お立ちください」と少し怒った口調で話してくる。

 その反応が予想外だったため、柄にもなく焦ってしまった。無論、すぐに立ち上がる。


「……負けました」

「ふふ。ロベール卿の焦ったお顔をこんな身近で見られたなんて、パトリシア様に自慢できますわ」

「……立ちましたので、お座りください」


 ベル嬢の身体は、予想以上に細かった。服を着ていても、その身体が骨と皮しかないのでは? と思うほど細い。良く見ると、血色も悪いし頬も痩けているし。これでは、いつ倒れてもおかしくない。


 俺が立ち上がったのを見た彼女は、そのままゆっくりと車椅子に腰をおろす。動いてしまったら座りにくいと思い、急いで車椅子の後ろにまわり取っ手を掴むと「お手間をおかけしました」と声をかけられた。

 それだけの出来事なのに、顔が熱い。太陽が照りつけているからだろうか。気恥ずかしくなった俺は、話題を変える。


「ベル嬢は、何を買いにこられたのですか?」

「練り香水を買いに。パトリシア様が香油を調合しているので、その参考にならないかなと。先日終わったお仕事の報酬をいただいたので早速来たのです」

「え、そのご体調でお仕事を!? フォンテーヌ子爵は何を考えているんだ!」

「あ、えっとお父様が悪くないのです。私が好きでお仕事をしていて」

「それでも、こんな……」

「私、お仕事が好きなのです。領地の敷地計算や月の水道料の試算を出すのが特に。昨日なんて、1軒あたりの試算を5分で終わらせたのです! 新記録です!」

「それは早いですね」

「あっ……。すみません、せっかくの休日にこんなつまらない話を」

「いえ。私も仕事人間らしいので、このようなお話は大好物です。今日だって、武器屋で……」


 まるで、子どもが新しいおもちゃを持ってはしゃいでいるような声を出してくる。本当にお好きなんだ。強制されているわけじゃなくて、安心した。


 俺が武器屋に規制を食らった話をすると、「それは趣味とは言えません」と言いながらベル嬢が再度笑い出す。やはり、趣味ではないらしい。


「ロベール卿は面白い方ですね」

「ベル嬢を笑わせられただけで、今日城下町に来た甲斐がありました」

「ふふ、お上手だわ」

「お待たせしました、お嬢様!」


 次はどんな話で笑わせようか。そう思っていると、店の中から燕尾服を着た男性が息を切らして走ってきた。ドアをバーンと勢いよく開けたため、ベル嬢も俺もびっくりしてしまう。


「ロ、ロベール様!? どうして……」

「……おや、今日はあのメイドじゃないのですね」

「以前もお会いしましたよね。こちら、私の専属執事のアランと申します」

「アラン……? 名前が似ているな」

「光栄でございます……」


 そうだよな。あいつは、こんなところにお嬢様を1人にしない。なんだか、アランが来て妙に納得してしまったよ。


「にしても、長時間お嬢様を1人にするのは感心しない」

「失礼しました……。こちらの店主が、車椅子はダメと申しまして」

「は? なぜ」

「元々狭いお店です。営業妨害になり兼ねませんから」

「それは、酷すぎる! 待ってろ、文句を言って「ロベール卿。大丈夫ですよ。私がアランにこのお店で買ってきてと頼んだのです」」

「でも……」

「車椅子で入れるお店もたくさんございます。その中でも、私がこのお店を選びました。客がお店を選ぶように、お店も客を選ぶのですよ」

「……わかりました」

「お気遣い、とても嬉しく存じますわ」


 やはり、このご令嬢は強いな。

 話していると、アリスお嬢様を思い出す。それほど、芯を持ったお方だ。彼女も、このような誰でも納得できるような説得力を持っていた。とても懐かしい。

 

「……赤いバラはお好きですか」

「え?」

「あ、いえ。私はこれで失礼します。お身体、ご自愛ください」

「ありがとうございます、ロベール卿。このお礼は、また」

「気にしないでください」


 全く。何を言おうとしたんだか。


 気を取り直した俺は、ベル嬢とアランに頭を下げ、そのまま町中へと戻って行く。

 ……そうだ、便箋を買いに来たんだ。すっかり忘れていたよ。

 


 後ろでは、「アラン、ありがとう」とベル嬢の話し声が聞こえて来る。

 それは、どんなに騒がしい町中でも、俺の耳に心地よく届くんだ。不思議なご令嬢だ、本当に。



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