第112話 分身7

「それでは変わらないではないか。いずれこの世界は食いつぶされ、壊れてしまう。そんな未来を変えるために人類は変わらなくてはならない」


「そん時はそん時だ。生物なんていずれは死ぬ。生きるか死ぬか。壊れるか壊れないか。それだけでいい。だから人類のことなんて考えるな。自分ただ一人ですら、変えることのできない人間にそんな大層なことが出来るわけがないだろう」


「それでは一向に前には進めない。停滞は退化と同義なのだ」


「だったらまず、あんたが変われ。世界を変えるのはそれからでも遅くはない」


「僕が変わる……」


「そしていま、あんたの目の前には俺が立っている。最初はあんたから『日本を救ってやる』とかそんなことを考えていたが、いまこうやって話していて俺の本当の使命と言うものが分かった気がしたんだ」


 疋嶋はそう言うと、振り返り、高くそびえたつバベルタワーを見上げた。そこからこのハコニワをじっくり見渡し、感傷に浸るような優しい表情をした。あきれ返るほどに広く、雄大に作られたこの世界を目で一周し、そして最後にヒキシマへと目を向ける。


「こんな広い世界を救えるはずないないのにな」


 疋嶋はそう言って笑いかけた後、人差し指のない手のひらを差し出した。


「俺の使命はあんたにこの感情を返すことだったんだ」


「僕に返すのか。お前が奪うのではなく」


「そうだ。八年前の交通事故で俺は死んだ。そしてあんたに体を譲った時に渡し忘れた物を今ここで渡す。そうすればあんたは救われるんだ」


「その忘れ物を受け取った僕がこの計画を止めるとは限らないだろう。そんなものがあっても、この新世界を完成させるとは思わないのか」


「思わないね」


「なぜだ。なぜお前はそこまで人を信じる」


「こう見ても俺はあんたの倍以上の時間、疋嶋陽介をやってきたんだぞ。自分の体は自分がよく分かっている」


「僕は楽観主義が嫌いだ」


「俺は楽観主義が好きだ」


「僕は世の中が嫌いだ」


「俺は世の中が好きだ」


「僕は人間が嫌いだ」


「俺は人間が好きだ」


「僕はあんたのことが大嫌いだ」


「俺はあんたのことが大好きだ」


 ヒキシマは人差し指のある手のひらを突き出した。言葉はいらない。無音と化したこの世界の中心で、二つが互いに歩み寄る。同じ歩幅で、同じ吐息で、二つは一人に近づいている。


「本当にいいのか」


「何も怖くない。元に戻るだけだ」


 二つの手のひらは日食のようにゆっくりと近づいた。そして重なり合った時、それは大きな干渉となり、二つが収束する。


 その瞬間、第一管理室のモニターは光に包まれた。先ほどまで見えていたハコニワの風景や疋嶋の姿が真っ白い光に飲み込まれて消え去った。


「何が起こっているのかしら。陽介は無事なの……」


 野島の悲痛に満ちた声が小泊に訴えかけた。


「分かりません。何が起こっているのか……私には見当も……」


 その光は延々と続く。何も把握できない研究員たちは唖然とその場に立ち尽くした。

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