第97話 盲愛6

 廊下の壁に背を付けながら、小さな声で答える。


「はい、私もここにいます」


「悲願は達成間近だ。今後のことは君に一任する。僕のパソコンの中身を士錠教授に削除される前に奪取するんだ。そこに君の役目と、新世界への全てが記されている。マグカップの数字は見たかね?」


「もちろんです」


「それが僕の隠しファイルのパスコードだ。人類の命運は君の肩にかかっている」


 この会話が疋嶋と染白が交わした最後の会話だった。それから染白は我が身を削り、疋嶋に注ぎ続けた盲愛の元、作業を始めた。染白の人生にとって疋嶋は無くてはならない存在へと変わっていた。そのために今後の人生を全て疋嶋の願望のために使いきる覚悟があった。例え、それが自分の命に関わることだとしても、その手を止めることはない。

 それが染白紅の存在理由の全てだからである。


 ゆえに染白はホテルのパソコンデスクから離れようとしなった。このデスクから離れ、疋嶋の役に立てなくなることは後頭部に感じた銃口の硬さよりも遥かに恐怖だった。


「君は死んではいない。だからそんなニヒルな事を言うな」


 蛭橋はこのような犯人を幾人も相手にしてきた。人生に絶望し、生気を失った人間は何をしでかすかまるで分からない。染白の弱くて細い後姿がそれを物語っていた。


「私はもう、人という存在を捨て去ったのですよ 。だから何度でも言います、私は死んでいるのです」


「そんなことはない。人はいつまで経っても人のままだ。だから大人しく、手を挙げなさい」


「私を逮捕するのですか」


「いや……話を聞かせて欲しいだけで」


 拳銃を突きつける蛭橋の背後から幡中がそう言った。しかしそれを遮るように蛭橋が真実の一矢を打ち込むのだった。


「そうだ。俺たちはあんたを逮捕しに来た。人は実に社会的な生き物だ。だから野生の掟は通用せず、俺たち人類は倫理と言うもので縛れている。だからここで殺しはしない。罪人を十把一絡げに死で償わせるのは、野生のやり方だ。だがあんたは先ほどから自分が死んでいると言っている。それは社会的な死か? それとも肉体的な死か? もしも後者と言うのなら俺はいま幽霊に話しかけているのか」


 蛭橋がそう言うと、染白の肩が震えた。

 椅子を引き、立ち上がると、振り返って蛭橋を真正面から見つめる。その瞳は鏡ように蛭橋の顔が映し出していた。

 そのあまりに唐突な挙動に幡中は慌てて、拳銃を構える。二つの銃口が染白に向けられても尚、その黒く深い銃口に怖気づくそぶりも見せなかった。


「やっと目を見てくれたか」


 蛭橋はそう呟くと、先ほどまで決して下ろさなかった拳銃をホルスターに収める。


「幡中、お前もそいつを下ろせ。もう必要ない」


 蛭橋の命令に少し疑問を抱いたが、険阻な顔をしつつも頷き、拳銃をホルスターに収めた。


「あんたが今立っているその足は偽物か。俺にはあんたが死んでいるようには全く見えない」


「それは時間というものを過去を主体として見た場合に限った話ですよね」


 染白はそう言った瞬間、不気味な笑みを浮かべるのだった。

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