第74話 災厄1
管理室には関係各所から怒りの電話がけたたましく鳴り響いた。その怒りは得も言われぬ、不安からなるものだった。
前世界に向けた脅迫、そしてその実態の掴めない犯人像。暗い霧がかった闇の中に取り残された大衆の恐怖の矛先は、おのずと東洋脳科学研究所に向けられる。
「やはり、この事件を引きおこした犯人は俺だったのか」
疋嶋が呟いた。その目には光が消え去り、動向は細かく揺れ動いていた。その言葉に対して、小泊は黙り込んだ。八年間、疋嶋の記憶の外にいた疋嶋があの画面の向こうに立っている。そして、それはテロリストだった。
この研究所に来た時から覚悟をしていた現実でも、いざ胸元に突きつけられると、息が苦しくなる。疋嶋は自分の胸に拳を当てながら、顔を見上げた。
「あと二十四時間であいつを止めなければならない。人類の救済? ふざけるな、人の在り方を人が決めるなど、おこがましいことだろ!」
疋嶋はバベルタワーが映し出されるタカマガハラのモニターに向けて怒鳴った。研究員一同が振り返り、注目が集まる。
これは弱い自分を吹っ切るための怒鳴り声だった。もう二度と隣で佇む野島に迷惑をかけたくない、野島の言った言葉が胸の深い部分をじりじりと熱く燃やしていた。
「陽介の言う通りね。この災厄を救うことができるのはここにいる私たちだけよ」
続いて声を上げた野島は疋嶋の隣に堂々と立ち、モニターに真剣な眼差しを向けた。疋嶋が野島の横顔を見ると、ほんの少しだけ首を傾け、片目を二回ほど瞬せた。
「しかし、私には画面に映る疋嶋さんが何を言っているのかわかりません。タカマガハラには二十四時間のセフティモードがあるのです。丸一日以上、ログインを続ければ、膠着した体に血行障害が生まれかねますので、勝手にログアウトするシステムがあるのです」
小泊がそう言って、頭をかきむしる。
だが疋嶋には「新世界の創造」という言葉よりも引っかかる部分があった。映像の中の男は「新世界に行く者は肉体という檻から解放される」と言った。しかしそれは人類にとっては死を意味するのだ。
この一連の演説は集団自殺をほのめかすものではないかとも考えたが、仮にその言葉が額面通りの意味であり、本当に魂だけの精神世界を創ろうしているなら話が変わる。それはこの世界には存在しない“人と脳を切り離す技術”を用いるということである。その時、疋嶋の脳内にはある言葉がよぎった。
「人が脳なのか、脳が人なのか……」
突如、呟いた疋嶋に小泊が声をかける。
なぜ、その言葉を知っているのですか。それは疋嶋さんの言葉ですよ」
「実はここに来る前に古い友人から聞かされたのですよ。俺と交わした最後の会話がこれだったって」
「まさしく、それは疋嶋さんがこの研究所に残した遺言です」
「これはどういう意味か分かりますか」
「それが、私たちには解けず、ずっと頭の片隅にありました」
「その言葉とこの事件は繋がっているのではないでしょうか。つまりその問答の答えが……」
「あの最後の『全ての答えは決した』という言葉の意味ね」
鋭く野島が付け加える。
「しかし、どうやっても脳と肉体を切り離すことは不可能だ……」
小泊は膝に手を突き、下唇を噛み締めた。
「それは僕が答えよう」
その声と共に第一管理室の扉が開いた。二足の足音とステッキの音。管理室の空気が一瞬にして変わった。
「所長……」
小泊や研究員たちが口々に呟く。
「社長……なのですか」
野島が上ずった声を上げる。
「士錠兼助……あんたを待っていたんだ」
疋嶋の真っすぐとした目が士錠の額を突き刺した。
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