第55話 対峙1

 習志野は日が沈み、夜になっていた。

 ほんの数時間前まで疋嶋たちが居た旧東洋脳科学研究所跡地の廊下に四足の足音とステッキの音が響いた。

 二人の大人が長い廊下を光の差す方向へ歩いている。今夜は満月だ。ネオンに阻まれない明々と輝く月明かりが、木々の間をすり抜け、所長の室の窓から差し込んでいた。

 閉ざされた扉を開き、月に照らされた二人の顔が露になる。それは士錠と上道だった。部屋の中に入ると、真っ先に机に向かった。

 引き出しを開け、手記を取り出すと、中身をぺらぺらとめくる。疋嶋は痕跡を残さぬように全て、ここに来たままの状態に戻してから去っていった。

 そのため、手記には元あったように写真が挟まれている。

 士錠はその写真の端を爪先で掴み上げると、闇夜に浮かぶ月に差し出した。


「どうやら、ちゃんと来たようだね」


 月光に照らされた写真の裏面が徐々に青白く、淡い光りを発し始めた。


「東堂さんたちですか」


「間違いないよ。僕は彼の指紋の形を覚えている。案外、肉眼でも要点を押さえておけば、一人の指紋と他者の指紋を見分けることは可能なんだよ」


 写真の裏面には一面に蛍光塗料が塗ってあった。そのため、疋嶋が触った場所は塗料が剝がれ、指紋が浮き出ていた。

 そしてこの蛍光塗料は紫外線によって反応する。この机の正面に立ち、日誌を読んだ場合、読み手が影となり、写真や日誌には日光が届かない。そのため、士錠は月から降り注ぐ微弱な紫外線を塗料に当てたのだ。


「じゃあ東堂さんは……」


「大丈夫だ。僕は里佳子を信じているから里佳子の信じている昔の疋嶋君を信じているよ」


「社長は昔の疋嶋さんのことは存じてないのですか」


「ああ、僕が彼と初めて会った時にはすでに人として重要な何かを失っていたからね。里佳子の言う人間像とは似ても似つかないよ。ほらこの手記だって」


 士錠はそう言って、手記を手に取った。ある程度ページをめくり、月明かりに照らすとそこには確かに疋嶋の指紋が映し出された。しかし最終ページを開き、月明かりに照らしてもそこには指紋が一つも見つからない。


「彼は途中で読むのをやめたんだ。里佳子の知る疋嶋君にはちゃんと人が人であるための偏桃体が働いている。彼は恐怖を知っているんだよ。だから途中で読むのをやめた。僕の知る屈強な弱さを持つ疋嶋君に勝つことが出来るのは里佳子の知る脆弱な強さを持つ疋嶋君だけなのだよ」


 士錠はそう言って手記を閉じ、尻のポケットに突っ込んだ。


「東堂さんたちには会えませんでしたね」


「僕の待ち人は里佳子じゃない。彼女のことは心より信頼しているからね。ここから先は自分で解を導かなくてはならないんだ。それまでは一まず僕の講義はお休みだよ。でもおいおい休んでいるわけにもいかないね、また新しいお客さんがいまから来るよ」



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