第29話 別世界5

「こんなことって……」


「あり得ない。俺たちは脳には埋め込んではいないものの、手の甲に埋め込まれたマイクロチップは普通に利用している。しかし疋嶋のマイクロチップはまるで六年もの間、ずっと脳内で放置されていた。つまりインプラントは済ませた上で、一度も利用しなかった……なにも記録が残っていないということはそういうことだろ」


 理論上は確かにそれで説明がつく。しかしそんな非合理的かつ意味不明なことをこの辞世で行うメリットなど一つもない。

 野島は首をひねりながら、別例を出す。


「ならこの八年間、陽介は世界に存在したことさえも怪しくなるわよ」


 これだけの情報化が進んだ世界。今ではマイクロチップ無しでは生活できない世界となっている。さらにマイクロチップとは自動的に色々な機器とのアクセスをしている。その全てに必ず履歴が残り、それを掻い潜るのは困難だ。

 特に脳内に埋め込まれたマイクロチップは器官の一部として機能するため、そこに登録された情報こそがその人の生きた証であり、初期化とは脳死を意味する。

 そして疋嶋のマイクロチップは全てのデータが喪失しているのだ。やはり、疋嶋陽介ということ男は情報システムから見れば、死んでいる状態なのである。

 この切迫した状態に真田は眼鏡を掛け直し、ある一つの提案をした。


「このまま、疋嶋の偽アカウントが現れるのを待ってみるか……」


「何を言っているの!? あなた陽介を殺す気!」


「こちらで疋嶋のアカウントは保護する。もしも二つのアカウントが同時にダイブしたらどうなるんだ」


「あなたふざけるんじゃないわよ」


 野島は著しく取り乱し、真田が羽織っていた白衣の胸倉を掴みかかった。


「別に疋嶋をダイブさせたままの状態で待つわけじゃない。一度目を覚ませてから、リアルワールドでタカマガハラを観察する。そして現れた瞬間を狙って、もう一度……たった一瞬だけでもログインを試みるんだ。そうすればこの謎が解けるかもしれない」


 殴られる危険を感じた真田は必死に弁明した。野島の女優仕込みの迫力に真田の唇は小刻みに震えていた。


「それでも陽介がダイブすることには変わりないじゃない。これ以上ダイブを続けるのは危険よ。分からないことが多すぎる」


 野島はそう言って、パソコンの前に立った。真田を押し退けると、マウスを操作して、強制ログアウトの画面を開く。


「これ以上、陽介をこのタカマガハラに近づけたくないわ。真実はこんな別世界にはない。これを創った人も利用している人もみんな肉体を持っている人間なのよ」


 素早い手つきでログアウトボタンを押し、タカマガハラから疋嶋のアバターをログアウトさせた。

 隣では尻餅をついた真田が眼鏡を直しながら、その様子を眉間にしわを寄せて見ていた。

 ログアウトさせたことで興奮が収まり、落ち着きを取り戻した野島はばつが悪い表情で謝った。


「ごめんなさい、取り乱してしまって……」


 深く頭を下げ、顔を赤らめている。こんな風に感情的に怒ったのは久しぶりだった。人は頭に血が上り、それが冷めた時には何とも歯がゆい恥ずかしさだけが残る。


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