殺戮にいたる山

 港町の上の空は晴れ渡り、太陽は高かったが、漁から帰る船や仕事を終えた漁師たちの姿はひとつもなかった。



 もうひとつの任務のため山へ向かったオレアンとホーネット、周辺調査のため自警団に残ったロクスターを抜いた四人は荒廃した市場を進んでいた。


 路傍で破れた腹を見せて転がる干魚を横目にクラーレが言った。

「港の統治は本来ポロニア小国が行なうはずですが、国は何をしているのですか?」

 先頭を歩くラジアータが首を振る。

「あらゆる場所から船が来ていた大規模な港だからな。形だけ国の保有だが、実質は有力な貴族たちがそれぞれ統治していたも同然なんだ。それをいいことに、今この惨状にも国は目を背けている」


 酒場の看板を覆うようにかけられた“閉店”の垂れ幕を指で弾いてゼンが言った。

「統治者ってのが五大貴族ってやつか?」

「そうだ。その内、アンブローズ家、セノバイト家、クルーガー家は既に逃亡し、残るソーヤー家も……」

 ラジアータは言葉を切り、通りの向こう側を見つめた。



 堅牢な鉄柵が牢獄のように囲む屋敷の前に一台の馬車がある。

 幌の中からは溢れんばかりの積荷が覗き、豪奢な椅子の脚や巻いた毛織物の束が突き出していた。


 黒髪の従者が馬に鞍を取り付ける横で、ドレスを纏った銀髪の少女が俯いている。

「あちらがソーヤー家の御息女だ。彼らももう駄目か……」

 ラジアータが沈鬱に呟いた。



 少女は鉄柵越しに彼らを見送るひと影に別れを告げているようだ。

「考え直してませんこと? 私たちと一緒に……」

 少女の不安げな声が響く。答えは聞こえない。

「天国のご両親も貴女を心配してるはずですわ。そうまでしてこの家を守らなくても……」

 柵の向こうの影がかぶりを振るのが見える。

「ハーデスティ様、お時間です」

 従者の男が言い、少女は何度か振り返りながらドレスの裾を摘んで馬車に乗り込んだ。


 馬車が細い土煙を上げて去った後、柵の向こうの人物だけが取り残された。

「あちらは?」

 クラーレが囁き、ラジアータが答える。

「私の雇い主のカリスお嬢様だ」


 柵の中のひと影が顔を上げる。

 先ほどの少女よりいくらか年上の、亜麻色の短い髪をひとふさ編み込んだ色白な女だった。

 彼女はゼンたちを見とめると弾かれたように屋敷の中に戻っていった。


「お嬢様!」

 駆け出したラジアータの背を見ながらカルミアが呟いた。

「ねえ、オレアンたちは大丈夫かな?」

「平気だろ。あいつ結構強いしな」

「しかし、ロクスターか彼らがこちらに来た方がよかったかもしれませんね。私はあまり交渉が得意ではありませんから……」

 クラーレが微笑する。


 太陽は目を射抜くように強さを増していた。



 ***



 オレアンとホーネットは自警団の男に導かれながら山道を登っていた。


 罠のように突き出す木の枝を剣で切り捨てながらオレアンが言う。

「しかし、近頃は辺境ほど魔物が多いな。その割に不自然なほど王都への襲撃がない」

 高い踵を泥に取られまいと足を上げながらホーネットが答えた。

「防壁の効果だと言うけれど、襲撃を通さない以前に襲撃自体がないのは不自然ね。テトロも疑問視していたのだけれど……」



 頭上を覆う木々が途切れた。

「もうすぐ山頂に出る。この辺にいるはずなんだが」

 進みかけた団員をホーネットが手で制した。


 茂みの先に光沢のある素材の織物のような何かが広がっている。

 それが獣道を埋め尽くして広がる巨大な蛇の尾だと気づいてオレアンは息を呑んだ。

「気取られないように辿っていくわよ」

 ホーネットは中心に毒を仕込んだ剣の柄を握って囁いた。


 蛇行する鱗の道が木漏れ日を反射してぎらつく。

 三人は慎重に歩みを進めた。山道を覆う木の幹には斬撃の跡が残っていた。


 木々の間から山頂に佇む影が覗き、オレアンは声を潜めて言った。

「ホーネット、蛇魔ラミアっていうのは女の姿の魔物じゃなかったか」

「ええ。上半身は女、下半身は大蛇の魔物よ。人語を操り––––」

 自分の唇に指を押し当ててオレアンが解説を遮る。

「何があったんだよ」

 焦れた自警団員の声に、オレアンは山頂から目を逸らさずに答えた。

「あそこにいるのは男だ」



 風が吹き抜け、茂みの枝葉が一斉に退いた。

 山頂のひと影が振り返る。


蛇魔ラミアを探しに来たのか」

 男の低い声が響いた。逆光で姿はおぼろげにしか見えない。大蛇の長い尾が佇む男の足元まで河のように続いていた。

「お前は誰だ。騎士でも自警団でもないな」

 オレアンの声に影が首を振った。

「俺も蛇魔ラミアに会いに来た。強いと聞いていた。だが、期待外れだった……」

 ホーネットの抑えた呼吸が響く。



「だから、殺した」

 日が陰り、光が隠していた男の姿が現れる。


 痩身痩躯に纏った詰襟の衣装は黒い布地でもわかるほどの返り血に染まり、長い裾の切れ込みから覗く腿のベルトには擦り切れた鞘を帯びている。

 同じく血染めの両手には飾り紐のついた二丁の板斧が握られていた。


 ひとつに結んだ黒髪が風に揺れ、病的な白い顔と赤い眼が覗く。

 男が片手を掲げた。その手には目を見開いた蛇魔ラミアの生首があった。



 一陣の風が吹いた。

「何だ、あいつは……」

 呟いた自警団の男の顔が、絵を描いた紙を半分に断ったようにずれる。切断された団員の顔が宙を舞った。


 鋼と鋼のぶつかり合う音が響いた。

 一瞬で団員を斬殺した男の斧をオレアンの剣が受け止める。


「刃ではなく柄を防いだか。いい判断だ」

 男が口元を歪めて笑う。

 刃が首筋に触れる寸前に柄に剣を当てて防いだオレアンが、腕ごと持っていかれそうな重圧に呻く。

「何者だ……」

 男が身を翻し、団員の死骸が地に崩れ落ちた。


 次いで襲いかかる板斧の表面を光の雨が叩く。

狂戦士バーサーカー!」

 ホーネットが放った毒針が斬撃を逸らした。

 男は足首の力だけで跳躍し、斧を振るった風圧だけでホーネットを突き倒した。


 オレアンが間髪を入れず切り込む。

 一閃した軌道の先には誰もいない。薙ぎ払った剣の先がわずかに重く沈んだ。


 剣に飛び乗った男が低く身を屈めた。

 刃を足場に放たれた男の爪先が眼前に迫る。

 オレアンは咄嗟に顎を引いて回し蹴りを避けたが、猛獣が突進してきたかのような勢いに吹き飛ばされ、山道の木に叩きつけられる。



 木にもたれてオレアンは血を吐いた。

 霞む目の前に暗い影がさす。

 振り下ろされた蹴撃を何とか交わしたオレアンが先ほどまでいた木の幹が抉れ、音を立てて倒れた。


 視界の端に炎のような赤い髪が揺れ、男とオレアンの間に割って入ったホーネットが毒の剣を刺突する。

 男は無表情に板斧を繰り、遠心力で翻った飾り紐で剣を絡め取った。


 オレアンが体勢を立て直すとともに剣を振り抜き、紐を断ち切る。

 ホーネットが素早く踏み込み、わずかに隙のできた男の懐に飛び入る。黒い袖にひっ先を突き込み、ホーネットは剣の柄を押した。


 男とホーネットが同時に飛び退る。

「打ち込んだのは退魔の毒、終わりよ」

 男は板斧を携えた腕を上げると、躊躇いもなくホーネットに刺された部分を食い千切った。

 己の肉塊を吐き捨て、男が血に染まった歯を見せる。

「今のはいい剣術だった。誰の仕込みだ」


 ホーネットは小さく瞳孔を震わせ、動揺を隠すように言った。

「教える義理はないわ」

聖騎士パラディンだな」

 男は満足げに笑った。

「そうか、あの男も来ているのか」


 オレアンとホーネットは剣を構えたまま、息を呑んで男に相対する。

 冷たい風が緊迫した間合いを吹き渡った。


 男は表情を打ち消すと、板斧の両方を片手に持ち替え、もう片方の手でオレアンたちを指した。

聖騎士パラディンに伝えろ。狂戦士バーサーカーが来た、と。俺は近々王都を襲撃する。他の魔物もだ。お前が来るまで俺は王都の人間をひとり残らず殺す。戦士を揃え、俺と戦う備えをしておけ、とな」

 男は獰猛な笑みを残し、一瞬で姿を消した。



 後を追おうと踏み出したオレアンをホーネットが止める。

「あれには追いつけないわ」

「あいつは何なんだ」

 オレアンは唇の血を拭って苦々しく呟いた。

「貴方は前世であれと交戦しなかったから知らないのね。狂戦士バーサーカー。魔物陣営だけど、魔王への忠誠心は欠片もない。強者を求めて彷徨う怪物よ」


 ホーネットは残された自警団員の遺体を見下ろした。

「あれに勝てたのは聖騎士パラディンだけ。彼との闘争を求めているのね。王都を襲撃すると言ってたけど……」


 山頂に再び光が射した。

 オレアンはホーネットの肩を叩いて踵を返した。

「港に戻ろう。蛇魔ラミアは死んだ。帰ってロクスターたちに話をするんだ」


 強烈な正午の日差しが山道に広がる大蛇の尾と大河のようなおびただしい血の跡を照らした。

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