黒旋風

 冷たい床に頬の皮膚が貼りつく感覚に、ゼンは目を覚ました。



 喉から手を入れられて内臓を掻き混ぜられたような痛みにえづくと、腹の奥から生温かなどす黒い塊が吐き出された。


「ずっとくたばったままかと思ったぜ」

 声に振り返ると、暗い部屋の石を積み上げた壁にもたれてスルクが座っている。



「ここどこだ……」

「大昔にあった刑務所の廃墟だ。人狼ウェアウルフどもに放り込まれてからいろいろ試したが、牢獄が魔力で強化されてやがる」

 身を起こしたゼンの肩にかけられた防寒着には血と硝煙の匂いが染みついていた。


「手前だけでも逃げられたんじゃねえのか……」

「馬鹿言え、部下を見捨てて逃げるような腑抜けに隊長が務まるかよ」



 ゼンが霜の降りた床に座り直すと、スルクが呟いた。

「あの女は何だ? 魔族だろうが狼とも違う」

「信じたくねえけど……俺と同じ魔王だと思う。他の魔物と違ってあいつにやられた傷が全然治らなかった。それに、あの髪も赤い光も……」


「大層な肩書きだが、監禁に関してはど素人だな。服も脱がさねえ、手荷物検査もしねえ」

 スルクは立ち上がり、軍服の下からナイフを取り出した。

「これ一本で脱出は無理だがな」と、指先で刃を弄ぶ彼の背後で獣の呻きが響いていた。



「警備は何とかなるとして、この牢が壊せなきゃ意味がねえ」

「抜け道はねえのかよ」

「あそこの穴だけだな」

 スルクは頭上にある石牢のひびを指した。冷えた空気が流れ込む穴には人間の頭がやっと通れるほどの幅しかない。

「せいぜい通れて首だけだ」


 ゼンはスルクに歩み寄って、手元のナイフと穴を見比べた。

「手前は俺を助けてくれた、だから」

「今度は俺が助ける番だってか? クソガキが粋がるなよ」

 吐き捨てるように笑ったスルクの腕を、ゼンの手がナイフごと掴む。


「だから、俺を殺す権利がある」

 スルクが怪訝な顔で見上げた。

「痛えし嫌だけどしょうがねえ。首なら通れんだよな?」



 ***



 牢の周りを警備する人狼ウェアウルフたちはその毛先が凍りつくのも構わず冷え切った監獄を歩いていた。

 その一体が立ち止まり、喉を鳴らす。


 ここで嗅ぐはずのない血の匂いに突き上げた鼻先を赤い雫が叩いた。

 瞳孔を細めた人狼ウェアウルフの前にべしゃりと音を立てて何かが降り注ぐ。


 集まった獣たちの間に熱く湯気を立てる肉の塊が次々と積もっていく。

 鼻を濡らした人狼ウェアウルフが顔を上げたとき、壁の穴から血まみれの球体が飛び出した。


 床で跳ねたそれが白髪の生首だと気づいた瞬間、魔物たちを弾くように黒い霧が噴出した。



 ***



 暗い監獄の天井まで跳ねた赤い水が滴り落ちた。


 全身にこびりついて乾き始めた血を拭いながらスルクが荒い息を吐く。ひびの入ったナイフを置いたとき、咆哮と衝撃音が響いた。



 壁に叩きつけられた獣が錆びついた檻を揺らして床に崩れ落ちた。


 両手に提げた人狼ウェアウルフを引きずりながら漆黒の鎧の魔物が突き進んでくる。

 溶岩のように歪な鎧から迸る黒い霧は、禍々しい熱で監獄に満ちる冷気を歪めた。

 陽炎を掻き分けるように鎧の魔物が両手を広げる。


 スルクは鋭い目をさらに細めて魔物を見た。

「終わったぜ」

 甲冑の奥から聞き慣れた声が響いた。

「クソガキにしちゃ上出来だ」

「上出来じゃねえよ。めちゃくちゃにバラしやがって。ゲロ吐きかけたしマジで死ぬかと思ったんだからなぁ」


 スルクは口角を吊り上げる。

「要塞に向かうぞ。奴らが奇襲をかけてるはずだ」

 ゼンは右腕を引き、黒い甲冑に包まれた拳を壁に叩き込んだ。



 ***



 銃声と悲鳴が響いた。


「敵襲! 第四防壁突破され––––」

 兵士の猟銃を構えた右腕と頭部が宙に舞った。


 弧を描く血の跡を一瞥し、ゴールディは死体の積み上がった要塞の廊下を進んだ。

「脆いものね」


 赤いペンキを乱雑に塗りたくったような壁の配管が裂け目から蒸気を漏らす。


 白い霧の中に置き去りにされた担架の上で蠢く影があった。

 ゴールディが手をかざしたとき、「待ってくれ」と兵士が叫んだ。


 担架の上の男が必死に両手を突き出す。


「投降する。戦わない奴は殺さないんだろ。動けなくて逃げられなかったんだよ……」

 引きつった声で負傷兵が哀願した。


 先刻己が両足を切断した兵士、ピトフィーを見留めて彼女は歩みを止める。

「なら、這ってでも避けなさい。手を貸してほしいの?」

 ピトフィーは首を振って上体を起こした。

「そんなんじゃない、ただ……」

 視界を覆う蒸気が彼の手の中に収縮され、ゴールディの胸を放たれた白銀の刃が貫いた。

「ベラドンナを、返せよ……」


 血走った目と、担架の脇に転がる緑の背表紙の本に視線をやり、ゴールディは息をついた。

「そう……」

 ゴールディの胸から氷の剣が引き抜かれる。

 傷口から溢れた黒い液体が彼女の身体に絡みついた。

「死にたいのね」

 ゴールディが甲冑に包まれた腕を掲げた。

 ピトフィーが硬く目を瞑る。



 彼の全身を引き裂くはずの閃光は、要塞の壁に衝突して粉砕した。

 担架の上には誰もいない。

 渦巻く煙の向こうに空間を抉り取ったような穴がある。

下等魔インプ!」


 恐る恐る目を開いたピトフィーの肩を青ざめた少女が掴んでいた。

「カルミア……」

 しがみつくように手の力を強め、震える声でカルミアが呟いた。

「どうしよう、助けちゃった。助けなかったら殺さないって言われたのに、何で……」



 壁を走って屈折しながら放たれた閃光がふたりを襲う。

 カルミアはピトフィーを連れて虚空に開けた穴に飛び込んだ。


 光が焦がした壁がどろりと溶ける。

「いつまでも逃げられると思ってないでしょう」

 砕けた瓦礫を縫って響いた冷たい声にカルミアが頭を抱えた。

「もう、言われなくてもわかってるよ!」


 猛攻を掻い潜りながらピトフィーが呻き声を上げる。

「一度要塞から出られないか、それかスルク隊長を呼べれば……」

「無理だよ。長い距離転送すると魔力が尽きるし、相手の場所がわからないと繋げられないし、もう死にそう……」

 カルミアが膝をついた。蒼白な顔には脂汗が浮かんでいる。


 崩れかけた壁の影に隠れたふたりの元に、鎧の擦れ合う音が迫っていた。

「王都から援軍を呼ぶのは……」

「そんな遠いとこ無理……それに呼ぶならせいぜいひとりが限界だよ……」

 カルミアが弾かれたように顔を上げた。

「どうしよう、強くて、呼んだら来てくれそうなひと……」



 虚空に黒穴が開き、カルミアが顔を入れて何かを叫んだ。

 穴の向こうからくぐもった男の声が響く。

「あの、誰と話してるの?」

 ピトフィーが足の傷を抑えながら不安げな声を投げかけた。

「話しかけないで、集中してるんだから! ……だから、ゼンが連れてかれて、要塞もめちゃくちゃで、早く来てくれないとみんな死んじゃうよ!」



 カルミアの声を搔き消すように爆音が響いた。

 煙幕の中で細身の鎧が徐々に輪郭を表す。

「見つけた」


「もういいから、君だけでも逃げてくれ!」

 ピトフィーが震える手を銃のように持ち上げた。


 砕けた瓦礫を足場に魔物が黒い旋風のように駆け抜ける。

 影が翻り、鋼鉄の刃に似た腕が一閃した。



 響いたのは肉の潰れる柔らかな音ではない。

 鋼と鋼がぶつかり合う鋭い衝撃だった。


 虚空から突き出された剣がゴールディの腕を弾き、押し返す。

 彼女が白い顔に驚愕を浮かべた。



 空間を裂いた穴から鈍く光を放つ靴先が現れる。

 次いで全身を表した男は、髪と同じ黒色をした騎士団の制服に身を包み、紫紺の瞳で敵を見定めた。

 カルミアが両目を閉じて昏倒する。


「何者?」

 男は剣を構えたまま静かな声で答えた。

「王都の騎士、勇者陣営の剣士ソルジャー・オレアン」


「王都の騎士がどうしてここにいるのかしら」

「聞くな。俺にも答えられない」


 ゴールディが眉間に皺を寄せた。

「ふざけているの?」

「真剣なんだ」

 オレアンの髪はわずかに乱れ、制服のボタンは上から二つ目を掛け違えて三つ目が外れている。



 ゴールディはすぐに表情を打ち消した。

 乱反射する光が壁中を駆け抜け、赤い輝きが地を蹴って駆け出したオレアンの剣に映り込んだ。

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