桃花源
深夜のリアン山要塞は暗く、魔物の油を煮た蒸気が冷えて壁中に霜を降ろしていた。
配管に固まった氷柱を砕く兵士たちの脇をすり抜けて、ゼンは自分の白い髪に触れた。乾いてぱさついた毛先にまだ女の体温が残っているような気がした。
ゼンは廊下の角を曲がり、簡素な鉄の扉を小さく叩く。
「カルミア」
戸を開けた少女は目をこすってゼンを見た。
「どうしたの」
「なぁ、
カルミアは不安げに目を泳がせて言う。
「魔術は使うなって言われてるし……こんな夜中に何しに行くの」
ゼンは答える代わりにポケットから薄紙に包まれた物を差し出した。夕食に出た穀物を固めた保存食だった。
「夜明け前にもう一度開けておくから。見つからないで戻ってね」
ゼンの目の前に黒い輪が広がり、冷えた空気が流れ出す。
「現金な奴だよな……」
そう呟いて空間の裂け目に踏み出した彼を見送ったとき、背後で足音が響いた。
カルミアが身を竦めて振り返ると、スルクが立っている。
「何してた」
「別に……眠れなくて」
「外でも見てたのか」
スルクは廊下に立ち込める冷気を払うように手を振った。
「脱走なんて考えるんじゃねえぞ」
「逃げて行く場所なんかないよ……」
カルミアが自嘲するように笑うと、スルクはしばらく黙ってから口を開いた。
「そうかよ」
踵を返しかけたスルクは足を止めてカルミアを見た。
「ここはそういう奴らの居場所だ。他で生きていけない奴らが集まる。行くあてがなけりゃここにしとけ」
カルミアが答える前に彼は暗い廊下に姿を消した。
***
服の襟や袖から容赦なく入り込んで暴れる風に身を震わせながら、ゼンは白一色の光景を見渡した。
烟る雪原に月光を受けて鈍く輝くような影がある。
狼たちを従えたゴールディが雪と同じ色の顔に微笑みを浮かべた。
「来てくれたのね」
「来いって言っただろ……」
ゼンは白い息とともに吐き出した。
「ずっといたのかよ」
「そろそろ来るんじゃないかと思ってたの」
彼女は長い外套の裾を広げて雪の上に座り、隣を指した。
ゼンが戸惑いながら腰を下ろすと、狼がするりと脇をすり抜け、湿った鼻や濡れた毛を押しつけた。
「気に入られたみたいだわ。仲間だと思ってるのかしら」
ゴールディがそっと狼を膝に導き、横目でゼンを見た。
「貴方に少し似てるもの」
「嬉しくねえよ……」
「毛色の話よ。ほら。この子、ここだけ白いの」
狼の額の毛をひと房摘んで彼女は笑う。
ゼンが自分の髪に手をやって黙りこむと、ゴールディが顔を上げた。
「本当は来てくれないんじゃないかって思ってたわ。要塞の警備は厳しくないの」
「まぁ、何とかなった」
「抜け道があるの」
ゼンの逸らした視線を追う彼女の瞳が雪明かりでわずかに輝いた。
「魔力が使えるとか?」
「あぁ、俺じゃねえけど……」
ゴールディはしばらくゼンの横顔を見つめていたが、ふと表情を緩めた。
「貴方の名前を聞いてなかった」
「ゼン」
彼女が頷くのに合わせて花を模した大きな耳飾りが跳ねた。
「それ……」
ゼンが指差すと、ゴールディは照れたように自分の耳朶に触れる。
「気になる?」
「俺の知ってる奴が見たら喜びそうだ……パチンコで金持ちのイヤリングを撃ち落とすのが得意だったんだ。落ちたのを盗んで金にして……」
彼女が目を丸くしているのに気づいて、ゼンはかぶりを振った。
「俺と話してもつまんねえだろ」
「そんなことない」
ゴールディはそっと顔を近づきた。身を乗り出したとき体重をかけた指先が、ゼンの太腿にわずかな圧をかける。
「ずっとひとりだったの。狼たちはいても話はできないわ。もっと聞せて」
彼女の肩に積もった雪が外套の布地の色を濃くしながら溶けていく。
「寒くない?」
「寒ぃけど、何か、お前の周りはそんなに寒くねえ……」
地面に置いた指の間に新しい雪が降る。
「ここには春も夏も来ない。この土地の人間は生涯温かい風を知らないと言われているの。私たちが熱を感じる瞬間はひとつだけ。何かわかる?」
降り積もった雪を隠すようにゼンの手にゴールディが手を重ねた。
「ひとに触れたときよ」
雪はさらに激しさを増し、夜闇を白で塗りつぶすように風が吹いた。
***
白い煙がかすかに明るみ出した空に混じって溶ける。
クラーレは煙草の火を鋼鉄の籠手に包んだ手で揉み消して、水平線に揺れる小さな黒点を眺めた。
「あれが白骨島ですか」
彼女を乗せた船の先端で櫂を動かす男がそうだと答える。
王都から馬車を乗り継ぎ、訪れた寂れた港町で雇った船頭は日に焼けた顔でクラーレを見た。
「王都の騎士さんが何であんな島に行くんだい。魔物の討伐って言ったってひとなんか住んでないよ」
「調査ですよ」
「まぁ、船の仕事も向こうのデカい都市に盗られちまってろくにないから、大金叩いてくれるのはありがたいが……あっちは魔物が多すぎて街の連中がケツまくった挙句自警団が好き勝手やってるらしいぜ。そっちの面倒見てやった方がいいんじゃないか」
クラーレは曖昧に頷いて島を見つめる。
白く乾き果てた木々が島を包むように覆う光景は、名前の通り巨大な頭蓋骨が水面から覗いているようだった。
人骨のような太い枯れ枝が折り重なった浜辺に船をつけると、船頭が促した。
「昼になったら迎えに来る。どうぞごゆっくり」
クラーレが船を降りると、鎧の足が砂を踏む音が静かに響く。
彼女は船が遠のいて見えなくなるのを確かめてから、島の中央へ進んだ。
白い木々の間には生き物の影がない。
枝葉の天蓋を見上げてクラーレは呟くように言った。
「
答えはなく、風が木を揺らす悲鳴に似た音が響く。
「勇者陣営の
そのとき、クラーレの背後が暗く陰った。
彼女は振り返りもせず、腰から抜いた剣でそれを両断する。
骸骨の腕に似た枝が乾いた音を立てて地に落ちた。
「物騒だな、お嬢さん」
誰もいないはずの森から声が聞こえた。
女か子どものような高い響きにクラーレは眉をひそめる。
「勧誘に来たなら、悪いが期待には応えてやれないな」
森がざわめく。ひとつひとつの木の幹から声が響いているようだ。
「なぜ勇者陣営でありながら王都に来て協力しないのですか」
クラーレの剣に白い梢が湾曲して反射する。
「ぼくは勇者陣営じゃない。勇者の味方ってだけだ。王都の味方じゃないぜ」
「同じことでは?」
溜息に似た細い風が吹き抜けてクラーレの髪を揺らした。
「貴方が私たちを転生させているその真意は何ですか」
少しの沈黙の後、木立が一斉に蠢いた。
王の通り道を開ける兵士たちのように、枯れ木がひとりでにクラーレの両脇を取り囲む。
「少しだけ試させてくれ。君が信頼できるかどうか。それに値すると思ったら教えよう」
乾いた木の皮が剥がれ落ち、現れた空洞が歪んだ顔のような様相を作る。
「
木々が枝をしならせた。
「これだけ聞いておこう。君を王都から派遣したのは誰だい?」
「信頼に値すると思ったら、教えます」
クラーレは骸骨の兵士に似た白い木の魔物たちに向けて剣を構えた。
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