金蓮花
油の膜が張った薄灰色のスープに匙を突っ込みながら、無機質な食堂の壁に走る配管を見つめた。
「刑務所みてえなとこだ……」
隣に座るカルミアが「これ、何の肉だろう」とボウルの底を見つめて顔をしかめる。
「いいから食え。それ以外食料はねえぞ」
後ろからやってきたスルクがふたりの頭を軽く小突いて去って行った。
兵士たちと会話する彼の褐色のうなじを眺めながらゼンが呟いた。
「なぁ、あいつって服の下も色黒いのかな」
「何で?」
カルミアが目をつぶって一気にスープを飲み干す。
「寒いとこの奴は色が白いんだと思ってたんだけどな。雪焼けっていうのか?」
「隊長の家系のせいかもしれないらしいよ」
ひとつ席を空けて座っていたピトフィーが匙を咥えたまま答えた。
「勇者伝説ってあるでしょ。隊長の祖先が勇者と一緒に戦ったひとらしいんだ」
「勇者の剣をうった
ベラドンナが言葉を引き継いだ。
「代々炉で剣を焼いた報いで俺の肌が焼けたみたいになった、って言ってたよ。冗談だろうけど」
「道理で……アイツに触られると何かザワザワするんだよな」
首元を抑えるゼンを見て、カルミアが身をすくめた。
「物盗むときはあのひとにだけは見つからないようにしよう」
「まず盗むなよ」
そのとき、食堂に警鐘が鳴り響いた。食事をしていた若者たちが兵士の顔になる。
「最近多いですね」
ベラドンナが銀のトレーを置いて立ち上がる。
「魔物が出やがった。お前らも行くぞ」
再びスルクに背を叩かれ、ゼンはボウルの中身を喉に流し込んだ。
***
「刀身は赤く錆つき、剣の中央には雷鳴のような亀裂が走る。かつて青だった宝珠は白く濁っている。だが、それはまさに伏魔の剣だった……勇者伝説の叙情詩か」
オレアンは紙面に並ぶ小さな虫の連なりのような文字列に指を走らせた。
「正解よ。でも、ここは過去形で訳すべきだわ。ほら……」
ホーネットは羊皮紙を指でなぞってから、オレアンの横顔を見た。
「上の空ね」
窓の外に顔を向けていたオレアンは頭を振って苦笑した。
「すまない、勇者の話が出てきたから……
ホーネットは頬杖をつき、小さく息を吐き出した。
「ええ、そう……王都ではしづらい話もあるようね」
わずかに開いた窓から研ぎ澄まされた冷気が流れ込み、オレアンは目を伏せる。
「派閥ができてるのは感じるよ。王都にいる俺たちとお前みたいに各地を飛び回ってる人間と」
「魔物たちもそうよ。昔は同士討ちなどしていなかった。今の戦況は複雑だわ。賢者の動向も真意もわからない……」
ホーネットは本を閉じて呟いた。
「言葉が変わったように、勇者と魔王の物語も変わっていく。全てを見つめ直す必要があるのかもしれないわね」
言葉を紡いだ華奢な白い喉とその中央の隆起した骨に、オレアンは口を噤んだ。
***
「くそっ、寒いってより痛えな」
のたうつ龍のような吹雪にゼンが毒づいた。
白く霞む雪原には数体の
要塞から伸びる道の両端に広がるような隊列を組む魔物の群れの最奥に立つ、一際巨大な個体にスルクは目を細めた。
「鋒矢型の陣形か?」
「連携が前とは比べ物にならないですね。これ、指導者いるでしょ」
軽い口調に焦りの色が浮かんだピトフィーの横顔を一瞥し、スルクはゼンとカルミアに軍刀を放り投げた。
「魔物の油が塗ってある。自分の身は自分で守れよ。サボったらお前の油も絞るからな」
刀を取り落としかけたゼンを一瞥し、スルクが銃を抜いた。
前方を固める
銃声を合図に、獣が吹き荒れる雪の壁に挑むように駆け出した。
弾丸が先頭を切る
雪原は瞬く間に火薬の弾ける音と咆哮と風の音が立ち込めた。
蛇行するように駆けてきた一体の
「ピトフィー!」
スルクの声にピトフィーが素早く地面に手をつき、硬い雪をなぞった。
筋肉を躍動させ襲いかかる魔物の額を雪原から飛び出した氷の刃が貫いた。
鮮血が雪に混じって飛び散り、カルミアが悲鳴を上げる。
「
背後から迫る
「使えるでしょ? 俺、魔力は全然ないんだけどこうやって圧縮すれば弾丸くらいの威力になるんだ」
抜刀したスルクが黒い毛皮に覆われた
爪と剣がぶつかる激しい音が響き、スルクが飛び退った。
一拍間を置いて
「脂が乗ってそう……行けますね」
ベラドンナが唇を歪めて声を張り上げた。
「隊長、発破いいですか!」
「許可する!」
ベラドンナが駆け出し、赤毛が白い風になびく。
雪の上にぶちまけられたてらてらと光る内臓に触れ、彼女は目を細めた。
「五秒で行きます」
「ゼン、カルミア! 伏せて耳塞いで口開けろ!」
言葉の意図がわからず立ち尽くすふたりに、スルクは苛立ったように舌打ちし、駆け寄って脚を払う。
ゼンとカルミアが雪に突っ伏したとき、轟音が大地を揺らした。
めくれ上がった雪が波のように広がり、仲間の死骸に近づいていた
「何だよ、あれ……」
金属音に似た耳鳴りの中でゼンが呻くと、ベラドンナが得意げに微笑んだ。
「見ての通り爆破です。私は生き物の油分を弄って爆弾にできるの」
スルクが刀身についた血脂を手で拭い払った。
「これで大方片付いたな。残党をやるぞ」
軋む頭を揺らしてゼンが立ち上がったとき、後方から騎馬隊の大群が駆けてくるような不穏な音が響いた。
要塞が白い唾液を吐き出したように、山の上から煙を上げて雪崩が押し寄せてくる。
「ベラドンナ!」
スルクが怒鳴ると、彼女は首を振った。
「ちゃんと計算しました。あの程度の爆発で雪崩は起きません」
短い応答の間に雪の大波は目前まで近づいていた。
足元が揺らぎ、体勢を崩したゼンに雪が絡みつく。
「くそっ……ゼン、来い!」
伸ばされたスルクの手を白い闇が塗り潰した。
***
全身が氷の像になったように冷たく固まっている。
凍てついた身体の中で、頰だけに涙が伝ったように暖かく濡れた感覚があった。
「食べちゃ駄目よ、そのひとは餌じゃないの」
澄んだ声が聞こえる。
薄く開けたゼンの目の前に巨大な赤い空洞が口を開けていた。
ゼンが飛び起きると、狼が名残惜しそうに舌を動かす。その舌からゼンの頰に唾液の糸が繋がっていた。
「大丈夫?」
声の方向に、吹雪に霞む細いひと影があった。
影が徐々に近づいてくる。
深くかぶった外套のフードの下に大きなふたつの瞳があった。
濃い赤紫の湖の水面に似た目に呆然としたゼンの姿が映る。
歪んだ虚像に白い指が伸びるのと同時に温かな感触が頰に触れ、ゼンは反射的に身を反らした。
「唾液でも凍傷になるの、じっとしてて」
手の平がそっと輪郭をなぞる。
ゼンは無意識に息を止めていた。
「これで大丈夫」
静かに手を離したフードを被った女が微笑んだ。
血管がわずかに青く透ける、雪に溶け込むような白い顔だった。
言葉に詰まったゼンの足元で狼が濡れた毛を震わせる。
ゼンが身構える横で女が細く口笛を吹いた。
「この子が見つけてくれたのよ」
「お前、人狼飼ってんのか……?」
女は首を振った。
「飼ってない、家族よ」
ゼンは呆気にとられながら辺りを見回した。
空の黒と地面の白が広がる単調な景色を掻き消すように雪が降りしきっている。
「ここでひとに会ったのは初めて。どこから来たの?」
「どこつっても、ここの人間じゃねえ……」
女は手を伸ばして戸惑うゼンの肩に積もった雪を払い、そのまま濡れそぼった白い髪に触れた。
「違うのね。ここの雪と同じ色をしてるのに……」
慈しむような弄ぶような手つきにゼンが息を呑んだとき、雪原の向こうから掠れた声とひと影が現れた。
「スルクたちか」
ゼンが呟くと、女は微かに眉を潜めた。
「要塞の……」
女はフードを目深にかぶった。
「行くわ。魔物を連れてるのを見られたら困るから」
「あっ、おい!」
ゼンが呼び止めると白い外套の裾が翻る。女は無言で言葉の続きを待った。
「助けてくれたろ。借り作りっぱなしじゃ嫌なんだよ」
女は小さく背を揺らして笑った。
「じゃあ、私にまた会いに来て。そして、話をして」
女はゼンを見つめた。
「私はゴールディ。いつもここにいるわ」
風が彼女の外套を煽り、フードの端から覗いた、大きな金色の花を模したピアスが雪灯りを反射して輝いた。
遠くからゼンを呼ぶ声が近づく。
要塞からの迎えが辿り着く頃、女と狼は姿を消し、足跡すらも雪が塗り潰した。
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