銀世界
雪が死体を隠す白い布のように切り立った山脈を覆うのが見えた。
ゼンが馬車に吹き込む刃のような冷えた空気に身震いすると、向かいに座るスルクが言った。
「カルミア、手ぇ出せ」
「何も盗んでないって」
抗議の声に構わず彼はカルミアの手首を掴むと、懐から出した布を手錠にかませる。
「この先、金属は身につけてると凍傷になるからな。お前もあったら外しとけ」
「そんな金目のもん持ってねえよ……」
ゼンがそう吐き捨てて窓の外を眺めたとき、馬車が急に速度を上げた。
「隊長、
吹雪に負けじと御者が叫んだ。
腰の剣に手をかけたゼンをスルクが遮った。
「魔王だ
「じゃあ、どうしろってんだよ」
吹きすさぶ風に混じって遠吠えに似た唸り声が響き出した。
馬車の窓にかかった幌を押し開くと、白く霞む景色の中に穿たれた黒点が徐々に獣の輪郭を帯びる。
「近づいてきてる……」
カルミアが震えながら馬車の扉に手をかけた。
「馬鹿、こんな雪山に飛び出してどうすんだよ!」
「だって、魔力使えなきゃどうするの? こんな貧弱な馬車で––––」
「何が貧弱だって?」
苛立ち混じりに声を上げたスルクが馬車の扉を蹴り上げた。車内にどっと冷気が雪崩れ込む。
「速度上げろ!」
御者に向けて怒鳴ったスルクは雪と風が荒れ狂う外に滑り出し、不安定な荷台に飛び乗った。
後方を睨むと、既に数体の
「おい、落ちるぞ!」
窓から身を乗り出すゼンに構わず、スルクが馬車の後方に被せた覆いを解き放つ。
防水性の布の下から現れたのは、いくつもの猟銃の銃身を束ねたような砲台だった。
一体の
白い雪原を駆る馬車に黒い影が落ちる。
無音の一瞬を轟音が切り裂いた。
スルクが発射した無数の銃弾が
雪とともに熱い薬莢が降り注ぎ、ゼンは馬車に戻った。
跳ね上がる馬車の振動と向かい風を物ともせずに、スルクは簡素な機関銃を操り、襲いかかる魔物を血肉の雨に変えていく。
馬車は霧の中に現れた黒くそびえる門に向けて走り続けていた。
ばつんと破裂音が響いて、煙を吹く銃口が上を向いた。
「くそっ、また壊れやがった」
「隊長、門が閉まっちまうぞ!」
御者の声に、スルクは後方の門までの距離と獣の数を数え、舌打ちをする。
「このまま突っ切れ!俺が抑える!」
速度を上げ続ける馬車を獣が追う。
わずかに開かれた岸壁のような門の感覚が徐々に狭まってゆく。
その間に馬車が滑り込もうとした瞬間、岩のような氷塊の後ろから一体の
スルクは数回引き金を引いたが銃は答えない。
鮮血に染まったのは獣の方だった。
スルクが巨大な鉄塊となった機関銃を持ち上げた獣の顔面に叩き込む。
勢いよく雪原に落ちた
馬車が門を潜り抜け、鉄と鉄がぶつかり合う音が響いて、血の赤と魔物の毛の黒に染まった雪原の光景を扉が遮る。
スルクは荷台から離れ、するりと馬車の中に戻った。
「このくらい慣れてんだよ」
濡れた髪を拭う彼を眺めて、ゼンとカルミアは目を見合わせる。
「あたしたち来る意味なかったんじゃない……」
雪の中、石棺のように広がる武骨な建物を前に馬は足を止めた。
雪焼けした衛兵が扉を開け、要塞の奥から強烈な油の匂いを孕んだ熱気が吐き出される。
「熱ぃし、獣臭え……」
息が詰まりそうな湯気の中を進むゼンが呻くと、前を歩くスルクが振り返らずに言った。
「よくわかるな。リアン山要塞じゃ人狼の他魔物から取れる油を熱源に使ってる。ここに魔力を使える奴はほとんどいないから、魔物で代用してるんだ」
徐々に視界が晴れ、石造りの壁に張り巡らされた腸や血管のような絡み合う配線が露わになる。
パイプの繋ぎ目からは凍結を防ぐためか、時折湯気が漏れていた。
開けた空間に円形の凹地があり、覗き込むと兵士たちが囲む大釜のような窪みの中に熱された赤い液体が泡を立てて煮立っているのが見えた。
「うえ……」
鉄錆の匂いにカルミアが口元を抑えると、ふたりの兵士が顔を上げて歩み寄ってきた。
金髪の幼さの残る小柄な男と赤毛の長身の女がスルクの前で立ち止まり、小さく敬礼する。
「もうちょっとで締め出しちゃうところでしたよ、隊長」
金髪の男が細い目をさらに細めて笑った。
「遅すぎる。咄嗟の判断に迷う奴から死ぬって教えただろうが」
スルクは背後のゼンとカルミアを親指でさした。
「王都からの研修生だ。男はゼン、女がカルミア」
「研修生?」
ゼンが小声で問うとスルクが囁く。
「お前らは魔力が見つかった王都のぼんくらふたり、使えるようになるまで俺が教育する。表向きはそういうことだ」
「もっと偉そうなのが来ると思ったら随分可愛らしい……」
金髪の兵士がふたりを覗き込んだ。
「こっちは男の方がピトフィー、女の方がベラドンナだ。年はお前らに一番近いか」
「何か若いひとが多くない?」
カルミアの声にスルクが頷く。
「十九年前にデカい戦争があって、当時この土地で徴兵された奴らは軒並み死んだからな。そこから王都の指南役を呼んで、急ごしらえでできたのが辺境守護部隊だ。何とか手前だけで運営できるくらいに若兵が育って今の形になった」
ベラドンナと呼ばれた兵士が、人狼の血の溜まったバケツを抱えたまま笑う。
「スルク隊長は私たちの中で一番強かったのでトップになったんです。単純でいいでしょ?」
「いいもんかよ。ロクスターの奴、厄介ごと押し付けやがって……」
カルミアが話を聞きながら、血の匂いを避けるようにゼンの背後に隠れた。
ベラドンナは口角を上げて、バケツから取り出した骨の塊を見せた。
「まだあったかいですよ。脂も乗ってるし、なんてね」
ゼンはそれを受け取り、口に放り込もうとする。
「ちょっと君、何考えてんの」
横から割って入ったピトフィーがそれを阻んだ。
「俺に寄越したんじゃねえのか」
ピトフィーとベラドンナが目を丸くする。
眉をひそめたゼンの手からスルクが骨の塊を奪って投げ捨てた。
「お前今まで何食ってきたんだ」
「食えるもんは何でも」
スルクは深く息をついてこめかみに手を当てた。
***
王都の騎士団駐屯所には久々の静寂が満ちていた。
図書室の椅子に腰掛けていたオレアンの背後でヒールの足音が響いた。
「ホーネット」
肩に降りた赤い髪を払って、ホーネットが歩み寄る。
「
「もう済ませたわ。遠征のついでに勇者に会いに行くらしいから当分戻らないでしょうね」
オレアンは頷いて机上に積まれた本に視線を落とした。
ホーネットがそれを見つめ、独り言のように言う。
「ごめんなさい、貴方が古代語を読めないって知らなかったの。馬鹿にしたんじゃないわ。それは罪じゃないし、責めた訳でもない」
オレアンは小さく微笑んで返した。
「いいさ、知らないのは罪じゃないからな」
ホーネットが目を丸くして苦笑する。
「意趣返しかしら」
ホーネットは抱えていた数冊の本を机に置いた。
「知らないのは罪じゃなくても知っている方がいいに決まってる。私は貴方に字を教えたいのだけど」
オレアンは顔を上げた。
かつて仲間たちが腰かけて文献を広げていた窓辺に、今は透明な霜だけが降りている。
オレアンは一瞬目を細めてからゆっくりと首肯を返した。
「じゃあ、頼むよ」
彼が自分の隣の椅子の椅子を引く音が静かな書庫に響いた。
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