反撃開始
石灰を溶かしたような色の泥が一歩進むたびに足にまとわりついてくる。
服の裾や袖から入り込む空気の冷たさも相まって、亡者に縋りつかれているようだとオレアンは思う。
前を進むホーネットは時折屈んで足元の泥を掬い、いくつものガラス管の中に流し込んではまた立ち上がった。
「この泥を何種類か合わせて調合すると魔物すら殺す猛毒になるの。死体も毒性を持ち続ける。ここの土地の墓地に埋葬され、分解されて初めて毒が消えるのよ」
オレアンは息を整えながら頷いた。
「ここは私が最初に生まれた故郷なの。綺麗な場所だったわ。
ホーネットが足を止めて言った。オレアンはその隣に並んで、今は見る影もない村の跡を眺めた。
「貴方の
オレアンは目を伏せる。
「その前の日、ゼンに話したんだ。この仕事は危険だからいつまでも同じ面子で食事をできるとは限らないと。でも、ヘムロックやセレンが死ぬことを考えていなかった。馬鹿みたいだろ」
ホーネットは黙って煙草に火をつけ、煙とともに吐き出した。
「私は……今世で男に生まれてよかったと思ってるわ。男と結婚しなくて済むもの」
オレアンはその横顔を見つめる。
「前世で、戦争が終わったら王子と結婚するはずだったのよ。でも、王子は魔王に殺された。だから、私は王妃ではなく姫のまま。それでいいわ。もう二度と婚約者を失うのに耐えられない」
ホーネットの赤い髪に白い煙が絡んで風になびいた。
***
クラーレの剣がゼンの右肩を掠める。
ゼンは左に避け、拳を固めて身を屈めた。
「遅い!」
クラーレの返した刃がゼンの胸を貫く。剣が引き抜かれると同時に溢れた黒い血がゼンの身体を包んだ。
ゼンの視界が既に見慣れた黒い靄で覆われる。
そのとき、靄が液体になって溶け出したような黒くうねる海が映った。
クラーレは視線を外さず、一歩引いて剣を構え直した。黒い鎧の怪物が荒い息を吐く。
テトロが今日何本目かの矢をつがえた。
怪物がクラーレに向けて突進する。
彼女の剣が振り下ろされるより早く、怪物の右の鉤爪が横から刀身を殴りつけた。
身体の均衡を崩したクラーレが小さく息を呑む。
左の鉤爪が宙を切り裂いて彼女に向かう。
テトロが弩を怪物に向ける。
巨大な爪は身構えたクラーレの鼻先に触れる寸前に動きを止めた。
「ゼン……?」
黒い兜の中でくぐもった声が響いた。
「今のって、ちゃんと殴った方がよかったのか……」
クラーレとテトロは目を見合わせた。
黒い外殻が砕け、気まずい表情を浮かべたゼンが現れる。
「成功、ですね」
クラーレは剣を下ろし、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「まだ試したいところだが緊急招集だ」
テトロが弩を下ろして手を叩いた。
「ロクスターが
***
事務室に集められたゼン、クラーレ、オレアン、テトロ、ホーネットを見回して、ロクスターが言った。
「国境東の要塞で魔物の反応が現れた。
オレアンが手を上げる。
「処遇は? 捕縛か処刑か」
彼の張りつめた表情を横目に見て、ゼンは目を逸らした。
「共謀者と見られる少女とともに生死は問わないとのことだよ」
「あの少女は吸血鬼と見ていいのかな」
テトロの問いにロクスターが頷く。
「あぁ。だが、彼女はただの使い魔ではなさそうだね。おそらく魔王陣営の
わずかな沈黙の後、クラーレが口を開いた。
「東の要塞はその両端に川のほど近い森林と不毛地帯がありましたね。配置はどのように?」
「戦力はふたつに分ける。これからそれぞれの分担を言うよ」
***
要塞の壁は高くそびえ立ち、石の色より明度が一段低い無彩色の空と混ざり合っていた。
ひび割れた大地を踏みながら、少年のように髪を切りつめた女が防壁を見上げた。
「聞いたかぁ? 奴らの配置がわかったぜ。森に
「確かか、アルキル」
白髪の少女を傍らに添えた青年が言う。
「王都の事務に忍び込ませたおれの女の情報だ。確実だろ」
「ねえ、それより
「その心配はない。奴は死んだ」
「殺したのかよ! いい女だったのに。まぁ、お前と女の趣味は合わねえか」
アルキルの声に白髪の少女が威嚇するように牙を剥き出した。
少女の肩を抱いて立ち去った青年の背を見送って、吐き捨てるようにアルキルが言う。
「おれにまで頼るとは見境なくなってきたなぁ。本気で魔王を殺すつもりかよ」
「いいんじゃないの、あたしたちも利権争いに巻き込まれなくて済む訳だし……」
アルキルは
「馬鹿か。魔王陛下が復活するかもって恐れは抑止力だ。それがなくなりゃ粋がった馬鹿どもが台頭し出す。おれたちみたいな弱小種族は一発で滅ぶぜ」
アルキルは荒野を見つめて囁いた。
「カルミア、頃合い見て抜けるぞ」
***
二台の馬車が泥を跳ね上げながら暗い森の奥を駆けていく。
「砦には既に騎士団の第一から第四隊を配置させている。北方の特別部隊ももうすぐ到着するはずだ」
武装もせず黒い法衣のまま馬車の荷台で揺られるロクスターが言った。
「来て大丈夫かよ。あんた最弱なんだろ」
「僕にも前線でやらなければいけないことがあるからね。今回は奥の手があるから大丈夫だよ」
ゼンは肩をすくめた。
窓から差し込む光が強くなった。
並走していた馬車が脇道に逸れ、木々の間から見える影が遠ざかっていく。
「なぁ、あいつら道間違えてるぞ!」
身を乗り出したゼンを隣のクラーレが抑えた。
「いいんですよ」
「あいつらが森で、俺たちが砦の向こうの荒野じゃねえのかよ」
「そういうことになっていたね」
座席に頭を預けてロクスターが言う。
「僕たちの情報が
ゼンが片方の眉を吊り上げて疑問を示す。
「防壁を壊すつもりなら荒野に
クラーレが言葉を引き継ぐ。
「それに
「出発前にオレアンたちにも伝えてあるから心配いらないよ」
「普段の人事にもそのくらい本腰入れろよ……」
ゼンが捨て台詞のように言うと、ロクスターは微笑んだ。
「着きましたね」
クラーレの声と同時に馬車が停まる。
木の幹と幹の隙間から堅牢な要塞の壁がそびえ立つのが見えた。
ゼンはクラーレに次いで馬車を降りた。
「準備はいいですか」
横に並んだクラーレの目は光を反射しない眼帯に覆われて表情が伺えない。
白い肌に残る傷はまだ新しい血の色をしていた。
「あぁ、散々やられたからな。お礼参りだ」
ゼンが答え、クラーレが力強く頷く。
周囲から鼓膜をざらつかせるような羽音と鳴き声が響き出し、曇天の空を黒い羽を広げた吸血鬼が埋め尽くした。
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