薔薇の中で

「…どうして…、何で分かってくれないの…!?」


…一分の無駄もない程に美しく手入れされた中庭の隅で…

唯香は、所狭しと咲き誇る、甘美な薔薇の香りに包まれながら、ついに耐えられなくなって、止まることのない大粒の涙を流していた。



「…カミュ…!」



その名に、今の自分が持ち得る感情の全てを込めて呟く。


…この世界で育ったカミュと、自分の価値観は違う。

そんなことは以前から分かっていた…


けれど。


分からなかったのは、それが子どもに対してもそうであったということ。

人間界において、当然とされる子どもへの接し方は、全て批判し、認めず…

その当の人間界で、今まで育った累世にさえも、この世界での子どもの在り方というものを強要する…!


「…カミュ…、あなたには分からないかも知れないけど、累世は…

ヴァンパイア・ハーフのあたしや、この世界の皇族であるあなたの血を引いていても、それでも…

人間で在りたいと…そう願っているのよ…!」


自分の力が及ばないことが…ただ、悔しくて情けなくて。

…だから、その時には…接近にも気付かなかったのだろう。



「…お前は何故、泣いている…?」



「!」


不意に背後から、聞き慣れない声がかかって、唯香は慌てて、頬に伝っていた涙を拭った。


「…だ、誰…?」


辛うじて振り返るが、泣いていたことを、その感情をも無理やり潜ませようとしたことで、目に溜まっていた涙が零れ落ちる。


そこに、周囲の緑にとけ込むようにして立っていたのは、金髪に、蒼銀の瞳を持った、美しい青年だった。


…今まで美しいと、綺麗だと思っていた薔薇でさえも、彼の自然な色香の前では、その全てが霞んで見えた。


「…あなたは…?」


何も知らない唯香が問う。


そんな唯香に、美貌の青年は、透き通った水を湛える湖の如く静かな笑みを浮かべて…

こう答えた。



「…“ヴァルディアス=リオネル=ヴァン=ソレイユ”」



「!…え…」


彼のファーストネームを聞いた唯香の顔色は、今までの比ではなく青ざめた。


…【ヴァルディアス】…


それは…その名は、カミュが最も警戒していたはずの名ではなかったか?


…そこまでを思い返した唯香の脳裏に、かつてのカミュとの会話が蘇る。



「…唯香…

お前を、ヴァルディアスには渡せない…

例え、相手が対立する世界の皇帝であろうとも…

奴になど、絶対に渡すわけにはいかない…!」



…そうだ。

カミュは彼を…この精の黒瞑界と対立する世界の皇帝だと言っていた。

そして…



「…お前はヴァルディアスに狙われている」

「…、その、ヴァルディアスって…」

「…父上と同等の魔力を持つとされる、闇魔界の皇帝だ」



…彼は、カミュの父親である、あの吸血鬼皇帝・サヴァイスと…同じ規模の魔力を扱える強者でもある…!



「…奴の狙いは恐らく、時を操ることで、極めて稀少価値とされている、かのレイヴァンの血統を得ること…」


「そして、この世界の要人であり、俺のものでもある、お前自身を手に入れるためだ…!」



そんな、カミュの推測が当たっているのなら…

目の前にいるこの青年の狙いは、カミュの言葉通り、明らかに自分だということになる…!


「ヴァル…ディアス…」


唯香は、ただその場に立ち尽くしていた。

恐怖に怯えたその顔は、それでもヴァルディアスから背けることは叶わない。


「…早速、俺の名を呼ぶか…」


どこか満足そうに、彼は優しく笑む。

その、どこか天使にも近しい神々しい笑みに、唯香は不甲斐なくも、一瞬にして惹きつけられた。


…カミュの言葉を忘れた訳ではない。

その言葉を呑み込んで、充分に理解した上で…

それでも惹かれてしまうような…強烈な魅力が、彼にはあった。


「…何故…あなたが…」


唯香は、端から見れば、極めて冷静に受け答えをしているかに見えたが、その実、酷く混乱していた。


暴走しかけている自らの感情を、抑え、歯止めをかけるように尋ねながらも…

その一方では、彼… 否、この状況から逃れる術のみを、必死に模索していた。


しかし、さすがにヴァルディアスは、そんな唯香よりも、一枚も二枚も上手だった。


「…唯香」

「!…っ」


不意に名を呼ばれたことで、唯香の中では、ここから逃げ出したいという気持ちが急に強まった。


こうなってしまえば、理性は本能には忠実だ。


次の瞬間、唯香はいきなり身を翻し…

そのままカミュの元へ、とって返そうとした。


…自分の力で手に負える相手ではないことは分かっている。


…そう、分かっている。

だからこそ、こんな時に頼りたくなるのは、

縋りたくなるのは、ただひとり…!


「…カミュ…!」


唯香は、救いを求めるように、カミュの名を呼んだ。

…自分が離れた時、振り返りもしてくれなかったカミュは、自分を助けてくれるかどうか分からない。


でも、それでも…

唯香は、名を呼ばずにはいられなかった。


求めるのは…

こんな時、側にいて欲しいのは… 唯一、彼だけ。


「カミュ…」


…名を呼ばずにはいられない。

崩れそうになるのが、自分でも分かるから。


側にいて支えて欲しい。

恐怖に負けないように。


「カミュ! お願い…」



“離れないで”


“側にいて”


…あたしの、側に…!



「ふん…、それ程までに…カミュが恋しいか?」


その美しい天使さながらの笑みを、不意に悪魔が持つ不敵なものに変化させたヴァルディアスは、魔力を使うと、瞬時に唯香の目の前に、その姿を見せた。


唯香は勢い余って、ヴァルディアスの体に身を預ける格好となる。


「…あっ!」


前のめりにバランスを崩した唯香を、ヴァルディアスはその腕で、しっかりと抱きとめた。

闇魔界の皇帝の胸に顔を埋める格好となった唯香は、反射に限りなく近い早さで、慌ててヴァルディアスから離れようとする。


しかし、ヴァルディアスは、その両腕に僅かに力を込めると、そのまま唯香を抱き竦め…

その細い首筋に、自らの柔らかい唇を、そっと這わせた。


「!…な…にを…」


剰りの心地よさに、唯香がぞくりとしながらも、何とかしてヴァルディアスを拒もうとする。

だが、ヴァルディアスは更にそれを見越していたのか、右手を移動させ、唯香の後頭部を覆う形で頭を抱いた。


「…えっ…」


…そのまま軽く引き寄せられた…と、唯香が感覚でも認識でも意識する暇もなく、ヴァルディアスの熱を帯びた唇が、唯香のそれを、求めるように塞ぐ。


「!…ん…」


不意打ちに、唯香が目を見開いて驚くと、ヴァルディアスは更に、深く口づけた。



…狂い求め、求め狂う。

時に貪り、時に荒々しく…彼が自分の感覚を支配する。



(…舌…、入ってる…)


それが分かっていても、唯香は不思議と嫌悪感は感じなかった。


分かっていたのは、徐々に体の力が抜けていくという事実と、カミュのものではない唇を受け入れているという真実…!


…いつの間にか、見開いていたはずの目すら、情に流されて閉じていた自分に活を入れて、唯香は流されそうになる己の意志を、ようやく留めた。


(…離れなきゃ…

この人は…カミュの敵なんだから…!)


だが。

頭でそれが分かっているというのに、体の方は…まるで言うことをきかない。

それどころかこの体は、与えられる快感を享受するかのように、彼を拒絶することすらしない…!


(…どうして…!?)


何故、彼を拒めない?

自分が求めているのは、間違いなくカミュの方であるというのに。


これでは、自分がただの都合のいい女に成り下がるだけだ…


分かっているはずだ。

自分が好きなのは…



(…カミュ…!)



「!…離してっ!」


唯香は、無理やりにその方向へ意識を覚醒させると、その両腕の力でもって、ヴァルディアスを拒もうとした。

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