精の黒瞑界の皇子と闇魔界の皇帝

…その頃、弟を拒絶し、姿を消したはずのライセは、精の黒瞑界の中でも外れにあたる、切り立った崖の上に、その姿を見せていた。


辺りはひっそりと静まり返っており、動くものは見られない。

そしてその、見た目も危なげな足場の下には、美しい透明な水を湛える、蒼い湖があった。


「…やりすぎ…か」


ライセはふと、呟いた。

シンに窘められたことが、何故か頭から離れなかったのだ。



ゆっくりと、自らの手に目を落とす。

…見た目は、弟のように血で汚れていることはない。

だが、それはあくまで見た目の上でのことであって、洗い流していなければ、自分は弟よりも血に染まっている。


…そして、弟のは自分の血。

自分のは、他者の血だ。


どれだけ血に濡れ染まり

どれだけ屍を越えてきたのか分からない。

…いつしか殺めることにすら、抵抗は感じなくなっていた。



「奴もそのうちの一端に過ぎないというのに…

あの方も六魔将も、揃いも揃って甘いとは…笑えるな」


それもこれも、出来損ないの皇族が相手だからだ。

根っからの皇族が相手なら、そんな配慮は無駄にも等しい。


「弟だか何だか知らないが…未だ魔力を使いこなせない者など論外だ」


冷たく呟いたライセは、足下に落ちていた黒い結晶を拾い上げ、そのまま湖に落とそうとした。

別段、意識することもなく湖を目にしていたライセの視線の先に、不意に緩やかな波紋が広がる。


「…!?」


ライセはぎょっとして、波紋を見つめた。

落とそうとしたはずの結晶は、今だこの手にある。

では、どうしてこの段階で、波紋が出来るのか…


「…上か!」


ライセは反射的に上空を仰いだ。

が、次の瞬間、その手から結晶が滑り落ちる。

それが、乾いた音を立てて地面に落ちても、ライセはただ、茫然と立ち竦んでいた。


…遥か上空に、人が浮かんでいる。

だが、それだけならいい。

その人物は、意図的に湖の方に魔力を集中させ、そこに存在することでもって、波紋を作り出していた。


しかもライセには、その人物が誰であるかも分かっていた。

…頭がその人物を把握することで、つうっと冷や汗が流れる。


上空に、闇を、月を背にして存在しているのは──



「!…お前は、闇魔界の皇帝… ヴァルディアス!」



…月を背にした人物…

ヴァルディアスは、精の黒瞑界には滅多に現れることのない、月のその美しさを取り込んだかのように、妖艶な表情を見せた。


「…久方ぶりだな、ライセ皇子よ」

「!…」


その、威厳のある艶やかな声に、ライセは意図せずとも怯んだ。

…そう、精の黒瞑界の皇子が怯んだのだ。

彼…、ヴァルディアスの実力は、ここにも反映されていた。


だが、雰囲気に呑まれる訳にはいかないことを理解しているライセは、自らの感情を隠しながらも話しかける。


「…皇帝…、この世界に何の用だ?」

「ふ…、そう臆するな。別に皇子を取って喰おうという訳ではないのだからな」


ヴァルディアスは、これ以上なく悪戯に近い笑みを露にすると、その強力な魔力を操り、ライセの傍へと降り立った。

力ある者に、突然に傍に寄られたことで、ライセの体がびくりと跳ねる。


「!な…、何の用だと訊いたはずだが…」

「臆するなと言ったはずだ。…お前の母を俺に引き渡して貰えれば、事は済む」

「!母上を…!?」


ライセが愕然となると、ヴァルディアスは笑みを潜めることでそれを肯定した。


「…素直に引き渡せば、皇族はもとより、この世界の者には一切手を出さない。だが、それに逆らうというのであれば…」


ヴァルディアスの蒼銀の瞳が、剣呑に光る。


「それは俺への反逆と見なし、以降は闇魔界の全勢力をもって、この世界を壊滅させる…!」

「…っ、理不尽な…!

この世界に生きる、全ての者を敵に回しても、自らの欲望を優先させるというのか!?」


ライセの、徐々に見られてきた憤りに、ヴァルディアスは一転、呆れたように息をついた。


「分からないようだな。何の為に俺が先に皇子と接触したと思っている…

こちらが先制するつもりなら、とうに攻撃を仕掛けている」

「!あ…」


ライセが、彼の示唆によってその事実に気付いた時、ヴァルディアスは、再びその体を宙に浮かせた。

自然、彼の位置からは、ライセを見下ろす体勢となる。


「…皇子は、取り引きの交渉役だ。これ以降の俺の取るであろう手段は、全て皇子の手腕にかかっている」

「!な…に…」

「この世界を生かすも滅ぼすも、ライセ皇子…お前次第だ。

今から30分の猶予をやろう。その間に話を決めて来るんだな」

「…30分…」


ライセは、再び茫然となりながらも呟いた。


…“30分”。


一刻という時間は、長いようでいて、実は酷く短い。


それ故に、捉え方も異なる。

…30分“も”あると見做すか、

30分“しか”ないと見做すのか…

それは全て、自分の能力にかかっている。


…ライセはそれを心中で意識しながらも、一方の頭脳では、この状況を打破する術を考えていた。


闇魔界の…、否、皇帝・ヴァルディアスの狙いは、自分の母・唯香であることは、彼の言葉からも容易に窺い知れる。

だが、ようやく手に入れた母親を、ここでむざむざと渡す訳にはいかない。

何よりも、父親がそうはさせないだろう。


…しかしながら。ヴァルディアスの能力は未知数だ。

この世界が、彼ひとりの為に、どれだけ辛酸を舐めさせられてきたかは、父親が彼のことを話す時の様子で、手に取るように分かる。


あれだけの規模の魔力を持つ父親でも手を焼く存在。

それが、このヴァルディアスなのだ。


故に、ここで単独で戦いを仕掛けることは、無謀に等しい。

勝算があれば、このような申し出は、即刻切り捨てるところなのだが、相手が明らかに自分より上手となれば、そうもいかない。

自分の独断で、この世界に生きる全てのものを危険に晒すわけにはいかないのだ。


…ライセは、ただこうしていても、時間はどんどん過ぎていくことに気付き、考えあぐねた末…

事の顛末を伝えるため、恐らくはルイセが連れて行かれたであろう、城へと戻ることにした。


「…とりあえずこの件は報告させて貰う。

決断するのは、父上か、あの方だ…!」

「自らの祖父を、随分と他人行儀に呼ぶんだな」


低く笑うと、ヴァルディアスは、魔力によって、その姿を消し去った。

だが、移動したわけではない。

…存在がそこに確かにあるのに、姿だけが見えなくなっている。


「…さあ…行け、ライセ皇子よ。良い返事を期待しているぞ」

「……」


ライセは目を伏せることで、せめてヴァルディアスに対抗しようとした。

しかし、彼はさして気にすることもなく、そのまま、僅かに残った気配すらも消失させる。


それに気付いたライセは、強く歯を軋ませると、その感情が赴くままに魔力を用いて、城へと移動した。

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