魂の軋み

「…い…、…今…、何と仰ったんですか…!?」


…サヴァイスとカミュを前にした唯香は、力なく床にへたり込んだまま、その当のサヴァイスの言葉に愕然としていた。


顔色は、青ざめるなどという生ぬるいものではなく、まさに蒼白で、今にも倒れそうだ。

レイヴァン譲りの、その美しい蒼の目は大きく見開かれ、あまりのショックに口を塞ぐことすらも意図的に出来ない。

そんな唯香に、サヴァイスはもう一度、同じ内容を繰り返した。


「子は二人とも、こちらで預かると言ったのだ。

聞けば、お前は絶望して死すら望んだと言うではないか…

ならば今更、子を失う程度のこと…、何の支障もあるまい」

「!…い…、いや! 嫌です! ライセとルイセを…あたしに返して下さい!」


唯香は、力の抜けていた足を、無理やり起こして立ち上がろうとした。

しかし。


「!…きゃあっ!」


カミュの魔力がそれを封じた。

瞬間、唯香の体に、電流を流したような凄まじい激痛が走ったのだ。

それを仕掛けたはずのカミュは、哀れみの感情の欠片すら見せずに、ただひたすら冷酷に告げた。


「父上の仰ることは絶対だ。お前ごときが逆らうな」

「でも…!」

「まだ逆らうというのか?」


カミュは、先程と同じ電流にも似た攻撃を、もう一度繰り返した。

途端に唯香の体が、弾かれたように跳ねる。


「!ぃやあ…っ! あ、あっ! ぅ…あぁっ!」


今度の攻撃は、先程のものより明らかに長い。

その痛みに耐えかねて、唯香は恥も外聞もなく悲鳴をあげた。


…しばらくそれが続いた後、唯香はぐったりと床に倒れ込んだ。

その額には汗が滲み、顔色は既に人間のものとは思えない程に白かった。

…肩で荒く息をし、目の前の光景が見えているのかすら定かではない虚ろな瞳が、ぼんやりと床に引かれている。



「…全く手こずらせる。こうまでしないと大人しくならないとは…」


カミュが、苛立ち混じりに呟く。


「…それ程までに、子が大事なのか…?」

「…人間は親になれば、誰しもがこのような保守的な感情を持つものだ。

だが…分かっているな、カミュ。それに同じることまでは大目に見よう。しかしそれに反し、呑まれ、流されてはならぬ」

「…了承しております、父上」


カミュは頷いたが、サヴァイスはそれに射抜くような瞳を投げかけた。


「…主人格であるお前のことは、ただの杞憂で終わる…

だが、副人格の方はどうだ?」

「…!?」


カミュは虚を突かれたように動きを止めた。

それに追い打ちをかけるように、サヴァイスは続ける。


「あれが、お前の心の奥底に潜む、ライザ譲りの感情であると…

そうは思えぬか?」

「!では、父上は…あの副人格そのものが、母上から譲られた、遺伝的なものだと…そうお考えなのですか!?」


カミュは、いったんは驚愕したが、すぐにその考えを振り切るように答えた。


「…いや、しかし…そう一概に考えるには、あまりにも…」


“奴は人間に染まりきっている”。


いくら自分の母・ライザが人間であろうと、あの副人格が持つ、あの考え方は…

【人間】に応じ、それに倣い、沿っているようでいて、その一部は、明らかに母のそれとは異なっている。



…しかし。

ここでもまた、奴の影が窺える。


自らを縛る、鈍色の枷。

…“副人格”。



「…俺が唯一、あいつに劣っているもの…

それがこれであると?」


『…そう…、お前は何も知らない…』


「!?」


不意に頭の中で、副人格の声が聞こえたような気がして、カミュは思わず頭を押さえた。

その異変に気付いたらしいサヴァイスが、わずかに警戒をするより早く、いつの間にかカミュの左手には、禍々しいまでの強大な魔力が蓄積されていた。


『父上…、頼む。その子どもを唯香に返してやってくれ』

「!…副人格か…、まさか、お前が今まで大人しかったのは…」


カミュ…【副人格】は、サヴァイスの問いに頑なに頷いた。


『…、例えどのようにいたぶられようとも、唯香が生きてさえいてくれれば、俺は構わないと…そう思っていた。

だが、それでも貴方がたが唯香に危害を加え、その精神を壊そうとした時の為に…俺は主人格の中で、密かに力を温存していた』

「…成る程な。だが、稚拙な計略だ。お前はそれで勝てると踏んだつもりか?」

『何だと?』


カミュが眉を顰め、訝しげに問うと、その膨大な魔力を帯びたはずの左手が、副人格の意志に反して、ぴたりとその喉近くに押し当てられた。


『!な…』

「以前は、我がカミュの魔力を封じておいたが為に、あのような好き勝手が出来たのだ。

副人格…、お前は、本来のカミュの実力を忘れたか?」

『!くっ…』


…本来の、主人格のカミュは、例え人格が入れ替わろうが、自らの体を抑えつけ、その行動を制御するほどの、莫大な魔力を持っている…!

その恐ろしい事実を今、身をもって体験しているだけに、カミュは一概に否定することは出来なかった。


「例え力があろうと、体が言うことを聞かないのでは意味があるまい。

…我に逆らうな…、我が息子よ」

『…俺だって、好きで逆らっている訳じゃ…ない…』


悲痛に呟いたカミュは、手にしていた魔力を、空中に散らすように消失させると、そっと唯香の側に近寄った。


どうやら、先程のカミュによる攻撃で、耳の所の三半規管が一時やられたらしく、唯香には、今のやりとりが聞こえていないようだった。


それが証拠に、【カミュ】が近付いただけで、恐怖と警戒をその目に抱いている。


『…唯香…』


カミュは、怯える唯香の傍らで、そっと膝を折った。

…そのまま、唯香の耳に手をあてると、その手からは小さな魔力が、まるで静電気のように宙に散った。


「…え?」


唯香は思わず、耳に手を当てた。

攻撃を加えられてから今まで、ノイズのように響いていたうるさい耳鳴りが、文字通り、鳴りを潜めたからだ。

…唯香は驚いて、目の前にいるカミュを見た…


その瞬間、唯香の体は、カミュに強く、きつく…抱きしめられていた。


『唯香…!』


反射的に唯香は、硬く身を竦めた。

今までカミュに何をされてきたのかは、体がよく覚えている。

瞬間的に、この行動も、何かの攻撃の前兆ではないかと疑ってしまったのだ。


だが、それにしては…


呼びかけ方が、いつもと違う。

切なく、狂おしく…縋り求めるようになど、あのカミュは呼ばない…!


「…あ…、あなたは…」


唯香は何かに気づき、耳に当てていた手を、一時は躊躇いながらも、次には恐る恐る、カミュへと伸ばした。

その美しい紫の瞳には、人を蔑むような感情も、見下すような高慢さも…

何もかもが見られない。


『…分かるか? 唯香…俺だ』

「! “カミュ”…?」

『ああ。遅くなって済まなかった』

「カミュ!」


唯香は嬉しさのあまり、涙を溢れさせてカミュに抱きついた。

それをカミュは、かりそめに与えられた体で、しっかりと抱きしめる。


『…主人格が、随分と酷いことをしたようだな』


唯香の体の端々に残る、痛々しい傷を見て、カミュが沈痛に呟いた。


「このくらい…平気よ! あたしは…あなたに会うために…

あなたに会うためなら、死んだって構わないって覚悟で、この世界に来たんだから…!」

『俺も、お前さえ生きていてくれればと…

ただひたすら、それだけを願いながら、この体の中で耐えていた…』

「…カミュ…」

『あいつが何をしたのかは、全てこの体が持つ記憶に刻まれている。

…だが、その意味では、俺は…奴と同罪かも知れないな』


カミュは、懺悔を乞うように、寂しげに呟いた。

そこには贖罪の感情が、はっきりと見て取れる。


「…どういうこと…?」


唯香は、話を聞くために、ゆっくりとカミュから体を話した。

…今までに見たこともない、複雑な感情をその瞳に浮かべたカミュが、そこにいた。


『…人間界で、俺は…、お前から離れる少し前に、ようやく気付いた…

…唯香、お前を愛しているということにな』

「…えっ…」

『…いずれは消えゆく運命にあった俺は、それに気付いた時…、何とかして、俺が存在したという証を残しておきたかった…』

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