表れ始めた欲

…その頃、唯香を連れたカミュは、自らが一番落ちつくと思われる、例の自室にあたる空間にその姿を見せていた。


移動したことで追っ手はかからないと判断したのか、唯香の手を離すと、そのまま突き放す。

勢い余った唯香は、それによって床に倒れそうになるのを、ようやく踏みとどまった。


「何するのよ!」

「…威勢だけはいいようだな。まずは、この酷い喉の渇きを鎮めさせてもらうぞ」


カミュはゆっくりと唯香に近付くと、何の前触れもなく、いきなり唯香を抱き竦め、その首筋に、鋭く尖った牙を突き立てた。


「!…嫌…っ!」


唯香は反射的にカミュを引き剥がそうとしたが、牙が強く…深く食い込んでいて、とても離れてくれそうもない。

…何よりも、そこに口づけられていることで、その場所だけがひどく熱く…気だるくなっていく。


「…あ…」


いつしか唯香は、一切の抵抗する気力を無くしていた。

抗おうとして、我知らず上げていた腕が、引力に引かれて、だらりと下がる。


「…う、…ん…」


もはや抵抗は叶わず…、されるがままになり、唯香はしばらくの間、カミュに血を吸われ続けていた。



…どれくらいの時が経っただろうか。


いつの間にか閉じていた目を、静かに唯香が開いた時…

唯香は、大理石にも似た感触の、冷たい床の上に放置されたままだった。


視線の高さの違いから、その場からは、カミュの足元にあたる部分しか見えない。

それに気付いた唯香は、ゆっくりと体を起こし、立ち上がりながらも、その視線を合わせて上へと辿っていった。


…唯香から距離をとり、それでも目の前に確かに存在しているカミュの身体には、手に付着していたはずの同胞を殺めた血も、自分の血を飲んだ形跡も…

何もかもが残っていなかった。


自分の首筋に残る、カミュの柔らかい唇の感触さえなければ、全てが夢なのではないかと思えるほどだった。


すると、唯香の目覚めを察したのか、カミュが無言で唯香にその目を向けた。

血を得たことで、喉の渇きはすっかり治まったのか、その様子は以前と全く変わらなかった。


それに唯香が安堵して、ほっと息をつく。

が、次には不意に自らが措かれている状況に気がつき、唯香は周囲を見渡して、しばし戸惑った。


「…そういえば…、ここは…どこ…!?」

「──精の黒瞑界の城内にある、俺に与えられた空間の内部だ」


カミュが、極めて事務的に答える。その様は、あれだけ人間を拒絶していた以前のカミュとは、まるで違う。

しかし、唯香はそんなカミュの微妙な変化に気付かず、予想に反して、いきなり血を吸われたことからも、あれほど逢いたがっていたカミュに対して、どこか怯えたような仕草を見せた。


それを敏感に見てとったカミュが、ことさら無感情に告げた。


「…俺が…怖いのか?」

「…えっ…」


唯香は目に見えて戸惑った。しかしそれは結果として、その時、そんなことはないと即答出来なかった自分を悔やむこととなった。


…それまで無感情ながらも、唯一、深い海の底のような揺らめきを湛えていたカミュの瞳が、一転して、炎を投影したかのような、激しい独占欲に彩られたからだ。


「どうせ怯えるなら、好きなだけ怯え、足掻くがいい… それもまた一興だ」

「…!?」


言われている意味が理解できず、唯香がますます戸惑いを強めると、カミュは、まるで自ら制限していた殻を破るかのように、その声にも、とある感情を含ませた。


「…お前はもはや、人間界には…戻れないのだからな…!」

「えっ…!?」


唯香が言葉を失った。

その傍らではカミュが、その強い意志を示した瞳の、更に奥深くに混沌を際立たせ、口元に冷たい笑みを張り付かせて佇んでいた。



──炎のような独占欲と、氷のような束縛感が、そこには同時に存在していた。



唯香の青ざめた表情を、さも興味深げに眺めながら、カミュは唯香に言い聞かせるかのように話を続けた。


「…お前が人間界に戻ることなどに意味はない。お前の血は、強い魔力を含んでいる分、今までに味わってきたどの血液よりも、甘美で極上だ…

お前の血は俺のものだ。お前はただ、俺のために在ればいい…!」


「!…何で…」


唯香は、恐れ怯みそうになる自分自身を、無理やり奮い立たせた。

…自分は、利用されるためにカミュの元へ来たわけではない。ましてや、監禁まがいに拘束されることなど、塵ほども望んではいない…!


「貴方は、あたしの血が欲しいだけでしょ!?

そんなに血が欲しいなら… あたしの血なんか、一滴残らずあげるわよ!」

「…何…?」


カミュが、炎のように猛った瞳を唯香に向ける。


空恐ろしいのは、その、全てを平伏させるような瞳とは真逆に、感情は凍てついていることだ。

まさに、炎と氷の同居という言葉が一番相応しいかのように、カミュは唯香の出方を窺った。

その唯香は、半ば自棄になったといっても過言ではないほど、カミュに苛立ち混じりに言葉をぶつける。


「あたしは、ここに遊びに来た訳じゃないの!

たかが血の為だけに、こんな所に置いておかれるなんて、冗談じゃないわよ!」

「…ならば何故、お前はこの世界に来た?」

「!何故って…」


唯香が言葉に詰まった。…まさか、本人を前にして、逢いたかったからだなどと、気恥ずかしくてとても口に出来ない。

以前のカミュならどうかは知れないが、今のカミュにそれを言ったところで、一笑に付されるのは目に見えていた。


「…あたしの目的が何であろうと、今の貴方には関係ない」


突き放すようにそれだけを告げると、唯香は一転して黙りを決め込んだ。

それを見下すように見つめたカミュは、静かに唯香に近付くと、自らの右手の親指で、その顎を持ち上げた。


「…!?」


唯香が驚いてカミュを見上げると、カミュは魔にも近い美しさを見せていた。


「…まだ分からないようだな…

お前に選択権はない。お前があくまで逆らうというのなら、あいつのみならず、お前の兄も血祭りにあげてやる…!」

「!…ま、マリィちゃんだけじゃなく…、将臣兄さんも…!?」

「そうだ。…その、将臣と呼ばれる者は、お前の兄…

とすれば、血の芳醇さはお前と同じだろう。死ぬまで血を搾り取ってやっても構わないが…?」

「!やめて!」


唯香は悲鳴じみた声をあげ、カミュから顔を反らした。

しかしカミュは、容赦もなくそれを捉える。


「…これで、自らが置かれている立場というものが理解できただろう」

「……」


唯香は、カミュに完全に負けを認めた。

マリィもそうだが、何よりも実兄を…将臣を楯にとられているのでは、どうにもならない。


…しかし。

それではただの足手まといだ。

自分が我が儘を言って、マリィにここに連れてきて貰ったというのに、その我が儘がこんな事態を引き起こしているのでは世話はない。


「…あたしは、兄さんたちの負担になるわけにはいかない…」


結果、唯香がカミュにとっては、極めて予想外の返答をする。


「…言わせておけば…、まだそんな口が利けるのか」


カミュは瞬間、強い力で唯香を捕らえた。

そのまま、勢いに任せて抱き竦める。


「!…っ、嫌!」


唯香はカミュから逃れようと、必死になってその痩躯を押しのけようとした。

しかし、カミュの方が体格がいいこともあり、唯香が感情のままに力を込めても、その体はびくともしなかった。


「──そんな女の細腕で…男に敵うとでも思っているのか?」


まるで子供をからかうかのように、カミュが口元に笑みを浮かべた。


「力とはな…、こう使うものだ」


カミュが唯香の右肩を掴み、わずかに力を込めると、途端に唯香の肩の骨が軋んだ。

それに唯香は、真っ青になりながらも、そちらに気を取られる。

その一瞬の隙をついて、カミュは唯香を床に押し倒した。


「!あっ…」


唯香はすぐさま起き上がろうとしたが、カミュがそうはさせなかった。

即座に魔力を使い、唯香の両手を、その頭上で固定させる。


「…無様なものだな…」


カミュが、人間を蔑む時の例の感情を、唯香に重ねる。

それに、唯香は言い知れぬ恐怖を覚えていた。


「…あ…、あたしをどうするつもり? このまま殺すの?」

「…、それもいいが…、お前には何度となく反抗されているからな。ただ殺すには飽き足らない」

「えっ…?」


唯香が意味を測りかねると、カミュは唯香の乱れた蒼の髪を、半ば掬うように手にとった。

そこから流れた艶やかな髪は、さらさらと元の場所に還元する。


…その触れ方は、獲物を捉えた獣が、それをどう弄ぶか考慮する様に酷似していた。

やがて、それに飽きたらしいカミュが、嘲笑うように低く告げる。



「…お前が壊れるまで、永遠に支配してやる」



呟いたカミュは、瞬間、魔力によって、その手のみならず、唯香の全身の自由を奪った。


…さすがにここまで来ると、唯香はカミュの企みに気が付いた。

青ざめた顔を蒼白にし、どうにかしてこの状況から逃げようと、懸命に身体を動かそうとする。


「…無駄だ」


…カミュが、唯香の知り得る中でも、一番残酷に呟いた。

その目には、もはや一片の慈悲すらも存在してはいなかった。


「!…」


そのたった一言で、唯香は全てを悟った。



…“もう、どうにもならないのだ”…と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る