『兄』と『妹』

「うん。“マリィ”…、マリィ=ブライン」

「…そう、じゃあマリィちゃん、もし時間があったら、家に入って話でもしない?」

「!な…んだと…」


勝手に話を進められて、カミュの声に苛立ちが混じった。

すると、それを予測していたらしい唯香が、すかさず先手を打つ。


「否やは言わせないわよ? カミュ。マリィちゃんを、あたしの客人として招く分には、何も問題ないでしょう?」

「…そうまで言うなら、勝手にしろ」


低く呟いて、カミュは身を翻し、元いた部屋の方へと姿を消した。

後に残されたマリィが、おずおずと唯香を見上げる。


「…ご、ごめんなさい。貴女まで兄上のご不興を買ってしまって…」

「気にしないで。あなたが謝ることなんてない。…カミュは、常にああだから」


マリィに心配をかけないように、無理やり微笑んだ唯香は、マリィを屋敷の中へと促した。

マリィは、ぺこりと軽く一礼すると、唯香の後について、屋敷の中へと入り込む。


その途中、屋敷の持つ雰囲気が変わったことを察したらしい将臣が、近くの部屋から姿を見せた。

それに気付いた唯香が声をかけるより早く、将臣はマリィの上から下までを一通り眺めた。


「カミュに良く似ているな。血縁者か?」

「!うん…」


確かにマリィの外見は、カミュに似通っているとはいえ、さすがに将臣は勘がいい。

唯香がそれに、今更ながらに驚きつつも感心していると、将臣は手にしていた煙草に火をつけた。

将臣の愛飲している煙草は、ニコチン成分が皆無な、スカッシュ系の匂いのする特殊なもので、火をつけると、青い煙が出る。

それを軽く吸い込むと、将臣は、煙と共に言葉を吐き出した。


「これほど早く己の血縁者が来るとは、カミュは予測していなかった。

記憶を無くしたばかりの者を、今、更に混乱させるような真似をするのはどうかと思うが…?」

「!将臣兄さんっ」


聞き捨てならないと、唯香が目くじらを立てる。


「確かに…それはそうだけど、マリィちゃんのことも、少しは考えてあげないと…!」

「考えなければならないのは、むしろお前の方だ。血縁者同士が会うことなど、いつでも出来るだろう」


将臣が、マリィの方へ流れる煙を気にしてか、煙草を持つ手を、わずかに上へ向け、煙を逸らす。


「…唯香、カミュの過去を知らないお前が、その子の感情に共感する気持ちも分からなくはない。

だが、カミュにとっては、お前はこの世界で唯一、親身になって、自分に血を分け与えてくれた人間だ。…その人間が、彼にとっては…見たこともない、会ったばかりの血縁者の肩ばかりを持つようでは…

彼は一体、どう思うだろうな?」

「!」


唯香ははっと気付くと、その場に立ち竦んだ。


「…気付いたか?」

「…うん…」


頷く唯香の表情は、俯き加減で、いつになく青白い。

それを見た将臣は、おもむろに煙草を口にくわえた。

短く煙を吸い、再び吐き出す。


「…なら、すぐにでもカミュと話をしろ」

「うん。…将臣兄さんも来てくれる?」

「ああ。…どうせお前だけでは、事が拗れるのは目に見えている。ここは、言われなくとも行かせて貰うぞ」

「!…はい…、お願いします…」


…すっかり肩身の狭くなった唯香が、マリィと将臣との二人を連れて、先程の部屋に戻ると、カミュはソファーへと座り、黙ったまま、窓の外にぽっかりと浮かぶ、美しい月を見ていた。


先程の一件を考慮してか、唯香とマリィが声をかけるのを躊躇っていると、その空気を読んだのか、将臣が声を発した。


「カミュ」


名を呼ばれて、カミュは視線を目線の位置まで戻し、それからゆっくりと振り返った。


「将臣…か」


カミュは、どこか思い詰めたような表情をしていた。

いつもの、目に潜む鋭い光は潰え、代わりに言いようのない虚無感が浮かんでいる。

それを目の当たりにした唯香は、喩えようのない自責の念へと囚われ、カミュの傍へ走り寄った。


「!ごめん…、ごめんなさいカミュ!

あたし…、貴方の気持ちも考えないで、簡単に貴方を叱ったりして…!」

「……」


カミュは無言のまま、唯香にその美しい紫の瞳を向けた。

しかし、その瞳はひどく虚ろで、何も映してはいなかった。

…感情を殺したような…

そんな瞳だった。


「兄上!」


兄のそんな様相を見て、たまらずにマリィが叫んだ。

カミュに一度は拒否されている経験から、彼の傍に寄ろうとはしないものの、それでも自らの兄に語りかけようと、その場から必死に訴えている。


「ごめんなさい、兄上! …今までのことは全部、独断で余計なことをしたマリィが悪いの! …マリィはもう帰るから、お願い…」


マリィは、俯き加減に言葉を詰まらせた。が、ようやく顔をあげると、自らの感情を振り絞るようにして声をあげた。


「だからお願い…兄上! …マリィをこれ以上、嫌いにならないで!」


悲痛に叫んで、今までに培われた感情の全てを兄にぶつけたマリィは、ただ…、その場に泣き崩れた。

それでも、兄に心配をかけまいと、無理に声を抑えている姿が痛々しい。

その様子を、憐れむように見ていた将臣は、そのままカミュの方へと視線を流した。


「…カミュ、お前の気持ちは分かるが、血縁者であるなしを抜きにしたとしても、幼子を泣かすのは…お前の信条に反するのではないか?」

「……」


カミュは答えない。

だが、その感情の失せた瞳に、わずかに困惑が浮かんだのを、将臣は見逃さなかった。


「…カミュ…、お前は何故、怯える?」

「怯えるだと…? …俺がか?」


カミュは軽く笑い飛ばそうとしたが、将臣の容赦のない指摘がそれを許さなかった。


「ああ、お前は怯えている。…相手に拒まれること、敬遠されること…、それら全てにな」

「…知ったような口を利くな」


呟いたカミュは、再び窓の外を見つめた。

そうして顔を隠し、三人の誰とも視線を合わさないようにすると、彼は…いたたまれないような表情をした。


「…お前たちに、何が解る…」

「ああ、俺たちにはお前のことは何も解らない」


将臣の、カミュの感情に更に追い打ちをかけるような発言に、唯香は慌てて兄を止めようとした。が、当の将臣がそれを制した。


「…俺たちが、お前という個人を理解することが出来ないのは、お前の方から一線を引いているからだ」

「!」


後ろ姿だけを見せているカミュが、この言葉に意識を反応させ、感情を揺らがせた。

その様子を見て、何かの手応えを感じた将臣は、先を続ける。


「…記憶がないのであれば、尚更、俺たちはお前に協力したいと思っている。だが、介入されると引くようでは、こちらも永久にお前という人物を解ることは出来ない」

「……」

「…信頼しろとまでは言わないが、せめて信用はしてくれ」

「……」


将臣の言葉は、カミュの胸に浸透し、記憶が無いことで若干のコンプレックスを持ち、凍てついていたはずのカミュの心の氷を、ゆっくりと溶かし始めた。


「この子にしてもそうだ」


将臣は、傍らで泣いているマリィを気にかけ、目で唯香を促すと、彼女に付き添わせた。


「記憶のある無しではなく、ただ、兄に会いたいから来た…、それだけのことだ。そこでも、この子がお前を気にかけ、心配していると、何故理解してやれない?」

「……」

「記憶がないのであれば、今からでも分かり合えばいいことだろう?

初対面の、俺たちのようにな」

「!…っ」


カミュは、きつく目を閉じた。

将臣の一言一句が、自分の感情に突き刺さる。

その言葉は、始めは棘でも、徐々にその部分を治すように染み込み、気持ちの上でもなだらかにしていく。

…強固な、心の中の高い壁を、そして、既に引かれたはずの一線を…跡形もなく取り払ってゆく。


カミュは、目を開いた。

ゆっくりと静かに後ろを振り返り、まず、先程から泣き続けているマリィに声をかける。


「…マリィ」

「…えっ…?」


兄から初めて名を呼ばれて、マリィが泣くのをやめ、思わず顔を上げて問い返すと、カミュはソファーから立ち上がった。

まっすぐにマリィの方を向き、もう一度、柔らかく繰り返す。


「マリィ、もう泣くな」

「!…兄上っ!」


雨上がりの太陽のように、マリィは顔を輝かせると、カミュの言動がよほど嬉しかったのか、今度は嬉し涙を浮かべた。

すると、それに気付いたカミュが、誰に言われるでもなく、自らの足で歩を進める。

マリィの傍まで来ると、カミュはマリィの高さまで膝を落とした。

涙で潤んだ、自分によく似たマリィの瞳を捉えながら、呟く。


「…すまなかった」

「!…あにうえ…っ」


マリィが、思わず縋るように手を伸ばす。が、触れるなと言われたことを思い出したのか、その手が止まり、びくりと震えた。

しかしカミュは、そんなマリィの手を掴み、自分の方へ引き寄せた。

勢い余って、マリィはカミュに抱きつく格好となる。


「!ご…、ごめんなさい兄上!」


また叱られると思い、マリィが慌てて離れようとする。それにカミュは、思わず苦笑した。

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